38,心乱れて
噂が、レナの取り巻く少女たちの口にも上るようになったのは、ロイヤルマックスの夜からすぐの事だった。
「いいの?そんな噂をたてられて」
憤慨しているのは、キャスリーンだった。
「リディアーヌ・モンフィスは、ヴィクターよりもかなり年上よ。その上、フルーレイスの女なのよ?ねぇ、レナ。戦わないの?」
たきつけるように強い口調で言ったのはアニスだった。
「それに……噂だけど、いかがわしい所で逢ってるとか」
シャンテルが言いにくそうに、だけど、それをこの集まりで黙っては居られなかったらしい。
「いかがわしい、所?」
レナが内心の動揺を上手く隠せたかはわからない。けれど、声はあくまでいつも通りだった。
「仮面舞踏会、ね」
コーデリアがずばりと言った。
「いずれにしても……成人も結婚もしていない私たちには入れない場所ね」
「かめん………ぶとうかい、ね」
その言葉の意味を思い浮かべながら一文字ずつを呟いていた。
「いやらしいわ!」
少女らしい潔癖な感じで、キャスリーンは声を上げた。
「それ、次はいつあるのか分かるかしら?」
レナはシャンテルに尋ねた。
「兄に、聞いてみるわ」
シャンテルは、頬を紅潮させて頷いた。
「ついでに、どこであるのかも聞き出せたらお願いするわ」
「どうするの?レナ」
コーデリアが興味津々、という瞳でレナを見つめてきた。
「決まってるわ。それと同じ日にヴィクターを誘ってみるのよ」
そうすればそこに行くのか行かないのか分かるし、そのリディアーヌとレナとどちらを優先させるか分かる。
「でもレナ。知らない方が良いこともあるわ」
「わかってるわ、だけど……確かめずに居られると思う?」
普段はどこか、みな気を抜いては付き合えないこのコーデリアとレナを中心とするメンバーだけれど、対フルーレイスの年上の女性という相手を前にはどうやら敵対心は見事に同じらしく、レナの味方のようだった。
その事にこんな状況であるのに、レナは心から笑いが込み上げてしまった。もしかするとセシルの一件を思えば、良い傾向だと言えるのかも知れなかった。
*****
そうして、集まってきた情報でリディアーヌ・モンフィス ラモン伯爵夫人は今夜仮面舞踏会へと出掛けると言うことだ。
ドレッシー・ホールで開催されるというその未婚の令嬢曰くいかがわしい舞踏会は、もちろん招待制でありそこでは素顔も名前も聞かないというのがマナーなのだという。つまりは無礼講という訳だ。
ちょうど同じ夜、レナはクロス子爵家の主催する、貧しい人が診療を受ける事が出来る診療所を設立するという慈善事業の為の資金集めだという舞踏会へ招待されていてヴィクターにも一緒に行って欲しいと手紙を出した。
〝今夜は先約があるから、行けそうにない。代わりにジェイラス・エルフィンストーンを迎えに行かせる。明日はオペラのチケットを手配するから一緒に出掛けよう〟
と返事が来て、レナは頭が沸騰してフラリと倒れ込みそうになってしまった。ジェイラスは、エヴァーツ子爵の次男でヴィクターとはとても仲が良い。だが、レナからしてみれば面識も浅くて、その相手にレナを任せようとしていることにも怒りが込み上げた。
その夜の舞踏会は、会の目的を思えば、上品な婦人が多いと予想でき、華やかでそれでいて控えめなドレス。その為に色合いは極淡いピンクで、光沢と装飾は控えめな。それでいて若々しく華のあるドレスを選んだ。
すっかり身支度を整え、後はジェイラスを待つばかり。ジェイラスは次男であるから、社交界での令嬢の人気はその分ヴィクターに譲る形になってしまうけれど、同じくらいの長身と柔らかな金茶色の髪や日に焼けていて精悍な顔立ちは注目を浴びる。
彼のエスコートで、二人きり。付き添い夫人のミス ジェネヴィアはあまり熱心な人ではないから、こんな時は困ってしまう。口を出され過ぎてもそうでなくても……程よい人と言うのはなかなか難しい。
執事がジェイラスの来訪を告げ、お決まりの挨拶の後、レナは彼の四頭だての馬車に乗り込んだ。
「ジェイラス卿……まだ時間は少しゆとりがあります。だからアークウェイン家へ立ち寄りたいの」
レナがそう言うと、ジェイラスは驚きを隠さなかった。そして
「なるほど、立ち寄れば良いんだな?」
「ええ、お願い」
「君はもっと、お堅い令嬢で面白味に欠けると思っていたけれど。さすがヴィクターの婚約者という訳だ?」
そう笑って言うと、振り向いて御者に「アークウェイン邸へ寄ってくれ」と一言命じた。
「ミス ジェネヴィア、わたくしは気分が急に優れなくなったので知人であるアークウェイン邸で少しだけ休ませて頂くことにします」
そう言うと、いつもは無表情な堅苦しい彼女にも少しだけ驚きが見られる。
馬車はアークウェイン邸へと入り、正面扉で停まる。身軽に馬車から降りたジェイラスが
「幸運を祈る」
とウインクしながら手を取り、降ろしてくれた。
アークウェイン邸の優秀な執事は、ノックをする前に扉を開け、きっちりとお辞儀をした。
「突然、ごめんなさい。ヴィクターはいるかしら?」
「レナ様、本日はお約束の日では」
いつもの執事らしい堅苦しい対応の中にも戸惑いが見られる。
「分かっています。部屋にいるのね?」
「お呼びしますので、少しお待ち下さい」
「必要ないわ」
レナはドレスの裾を持ち上げて、駆け出した。ヒールのレナに彼に追いつけない筈はないけれど、執事がレナに手を触れる事は無いだろう。
勝手知ったる、ではないけれど二階に上がりヴィクターの部屋があるであろう方向を目指した。
「お待ち下さい!」
案の定、その声に扉が開いてヴィクターが姿を現した。
そのヴィクターを部屋に押し込んで、レナは後ろ手で扉を閉めた。
「レナ!」
驚いた表情のヴィクターは、正にこれから身支度の仕上げをしようとしていた所で、華やかな黒と深い紫のベストを羽織っていた。
「話が、あるの」
タイを手に戸惑った様子の従者がちらりと視界に入る。
「少し出ていてくれ」
頷いた従者が音も立てずに部屋から出ていった。
「どこへ行くの?」
「見ての通り、夜会だ」
恐れていた通りの状況にレナは、へたり込みそうになる。そしてなんて大胆な事をしてしまっているのだろう。
「わたしの誘いを断って……わたしには友人をあてがって、それで終わり?誰を………大切にするの?ヴィクター」
服装からすると、かなり華やかなパーティでそしてそれは、セクシーなものなのだろう。
「レナ。分かってほしい、確かに………ラモン伯爵夫人は俺を気に入っていて誘いをかけてくる。だが、それを断れないのは外交上の問題があるからだ。一緒に居ても、俺は何も」
「………だったら、何なの?外交上の問題があるなら、わたしが何もかも心得て納得すればいいの?一つの説明すらなく噂だけが届いて、あなたは会いに来て説明する事もしなかったのに?」
話しているうちに、どんどんと目の奥の熱さは増して、何を話すべきなのかも分からず、だだひたすらにおかしくなりそうだった。
「悪かった。でも、どう説明する?フルーレイスと戦争を避けるために、大使夫人の機嫌をとる。と了解を得にいけば良かったのか?」
ヴィクターも少し苛立った声を出した。
「聞け、今のフルーレイスの王は昨年隣国のローレンシアをあっという間に征服し、今はエリシュアと緊張状態が続いている。だが、それはイングレスに向くかもしれない。難しい時期なんだ。俺はアークウェインの………この国の貴族院の一員で、それを辞めることは出来ない」
「だとしても………そうだとしても………じゃあ、わたしのこの苦しい心はどうすればいいの?」
ひどく自分勝手な言い方だった。けれど………気がつけば、何とかして、と訴えていた。
「傷つけて、ごめん」
レナは瞬間的に、ヴィクターの頬を打っていた。
「傷ついた分、いくらでも俺に怒りをぶつければいい。――――明日訪ねるからちゃんと話そう」
はじめて人をぶった手は、じんじんとしていて痛い。ヴィクターは見たことのないの怒りと哀しみの混じったような表情で目の前にいて、そしてそれを一瞬で消して足を動かした。
「行くの?行かないで、欲しいと懇願しても?」
「ああ、そうする」
ヴィクターはそう言うとベストとコートを羽織り、タイを手に持ちレナの背を軽く押して
「さぁ、行こう」
そう言われても、この後レナはジェイラスと行きヴィクターはこれからリディアーヌという妖艶なフルーレイス美女といかがわしい場所へ行くのだ。
「先に行って」
今、並んで歩くことは行かせることを許す事のような気がして出来なかった。
「………分かった。後は従者に頼んでおく」
はっと顔を上げれば、ヴィクターはそのまま階段を降りてレナを置いていってしまった。
噂は噂でなくて、本当だった。例えそれが役目だとしても、まだ若いレナには割りきれる物でもなかった。
振り向いて、手を差し出して、レナの手を取って欲しかった。こんな時に置いて行かないで欲しかった。それが我が儘だと理解はしていてもレナはヴィクターの特別で在りたかった。
―――――こんな筈じゃなかった。
少し前までは………ヴィクターともしかすると深い仲になるのじゃないかと不安と期待でいっぱいだったのに今は………ちらりとみたことがあるだけの、リディアーヌ・モンフィスとヴィクターの親密な姿の想像が次から次へと浮かび上がりどうにかなりそうになっている。
「レナ様、ジェイラス卿をお呼びしましょうか?」
「いいえ、大丈夫です」
気がつけば、立ち尽くしていたレナを気遣わしげに執事が見つめていた。
虚ろなままに、再び馬車に乗りレナはクロス家へと向かった。ジェイラスは一言二言声をかけて、返事がないのを見てレナをほとんどの時間をそっとしておいてくれた。
「ヴィクターを許せない?」
「許す許さないではなくて………心が認めたくないの」
ジェイラスの問いにレナは、そうぼんやりと答えていた。
ヴィクターがそうしなくてはならなかったというのはもちろん理解は出来る。だからこそジョルダンは信じろと言っているのだろうから……。
これが、嫉妬と言うものだと理解すると、なんて厄介な感情なのかとそのまま、馬車を降りて乗り合い馬車に乗りウィンスティアに行きたくもあった。
なのに、逃げることも目を閉じることも、その感情ゆえに出来そうにもなく、したくもなかった。




