37,噂
グランヴィル伯爵家へ戻ったレナを待ち受けていたのは、山のような招待状で、シーズン終盤へ向けてさながらお別れの夜会といった様子だ。夏を迎えればそろそろと領地へと旅立つ貴族たちが現れ出す。終わりが近づけば、あれほど帰りたかったのが懐かしくさえあり、どことなく離れがたい気持ちさえ芽生えるのが不思議だった。けれど、それもおかしくはない。それだけの時とそして新しい出会いがあったのだし、アニスですら今や目にしても緊張が走らなくなった。
アリオール・ハウスという名を持つグランヴィル伯爵家のタウンハウスは、貴族たちの邸宅が建ち並ぶエリアからは少しばかり離れた所にあり、レナはその落ち着いた風情が気に入っている。静かだからこそ、少し考えに集中出来るから。
時おり風が木の葉を鳴らし、隙間から溢れる陽射しがまるで踊っているようでぼんやりと眺めていると王宮で過ごしたことは夢の中の出来事のようにさえ思えてくる。
考えたかったのはクリスタからの、依頼。セシルの社交界への根回しだ。確かに今のレナは社交界では上にいると自覚もあり、王太子妃と王女との繋がりは周知の事実となりそれは考えてもみない力と共にこうして役割も運んできた。
けれど、上流の人々に根付いた特権意識というものは恐ろしく強く、(あくまで偏見だが)単なるとるに足らない娘が卑しくも王子をたぶらかしたという認識が簡単にどうにか出来るものとは思えなかった。考えても、解決するものではないけれど、今のレナにあるのはただ、セシルにそこまでする価値があるのか……。果たしてどこまで心を尽くすべきなのかということだった。
この夜はジョルダンと上流社会の社交場であるロイヤルマックスに足を踏み入れる事になっていて、そこ招待されることは即ち、レナがこの国の上流に属している人物として相応しいと認められたという証拠である。
ここに入る資格を持たない、ということはその他でも上流社会の一員だと認められないということと同義であった。
現在ここの女主人を受け継いでいるのはブレンダ・アップルガース伯爵夫人で、人柄に優れ人望に熱いという。
レナはデビュタントらしく白に、クリーム色のリボンで飾りをつけた清楚なドレスを選び、身支度を整え、髪も控えめに結い上げた。
同じように夜会の為の装いのテールコートに身を包み、隙なく身支度をしたジョルダンは微笑みを浮かべて、洗練された動作で娘の手をとった。
「この一年に満たない期間で、レナはとても大人になった。送り出した時とまるで違う女性に会った気分だ」
「色々と、ありすぎたの」
「いつまでも子供で、と思うのは親のエゴイズムだな」
自嘲ぎみな笑みは、どこか影を感じさせるジョルダンに酷く似合っていて、はじめて父としてではなく大人の男性としての一面を垣間見た気がした。
薔薇の紋章のついた馬車は、お仕着せの御者とそして従者が付き従い、レナはその馬車の乗り込んだ。
「浮かない表情だ」
「緊張しているの」
向かいに座ったジョルダンは、レナのその様子を表面上は納得したように軽く頷き、乱れてもいない整えられた銀髪をゆっくりと指先でなぞった。
珍しく意味のない仕草は年頃の娘を前にもしかすると戸惑いを表しているのかも知れなかった。
「お父様は、セシル・アンブローズ侯爵令嬢をどう思うの?」
ぶつけた質問に、果たして聡明な父ならばどう答えるだろうかという純粋な興味からだった。
「はっきりと言えば、彼女の存在が混乱を招いた。だが、親としては彼女という存在がいて良かった。レナは………ギルセルド殿下には惹かれなかったんだろう?」
柔らかな口調で簡単にそう言われて、レナは言葉を失った。
一つには、確かに彼女の存在が無かったのなら、もしかすると周囲の思惑通りギルセルドと婚約が決まっていてヴィクターに惹かれながら、心を偽った結婚をしたのかも知れない。
それは嫌だと、ヴィクターとの関係の全てを思い出せばはっきりと認識した。
「お父様の言うとおりだわ。会ったこともないけれど………彼女は私の未来を変えたのね」
だとすれば………クリスタの申し出はなんとしてもやり遂げるべきなのだと、レナはジョルダンに笑みを向けた。
「お父様はいつも、簡単にわたしを導いてくれるわ」
「それはレナが私の娘だからだ」
父と娘の時間が、短い会話でも得られるものが大きいということだ。レナは母が再婚してくれた相手がジョルダンで良かったと、改めて思った。
一等地に佇むロイヤルマックスは、白い建物にをランプの光が幻想的に彩り、まるで別世界へと誘う扉のようだった。
そこの玄関ホールで出迎えるのはレディ ブレンダだ。
彼女を一目見てレナは、なぜか直ぐに親しみを感じてしまった。懐かしい人に会ったような、そんな感じをさせてくれるのだ。
その一因は彼女の笑みが包み込むような暖かみがあるからだろう。
「レディ レナ・アシュフォード。よく来てくれたわ。貴女を歓迎するわ」
「お招きありがとうございます。レディ アップルガース」
レナは体に染み付いたお辞儀をほとんど無意識にしていた。
シャンデリアに反射する光がキラキラと貴婦人たちのジュエリーを照らし、あちこちで乱反射をおこして目映い。他の夜会とはどこか違う気がするのは、レナ自身がそろそろ一年目のシーズンを終えようとしている今、その経験値が視点を変えさせたのかも知れなかった。
ジョルダンがエスコート役だと言うことで、挨拶を交わすのはいずれも、この世界で悠々と泳ぎ続けている歴戦の紳士淑女たち。
好意的な瞳、値踏みするかのような瞳、一瞥して興味すら持たないという冷たい瞳。
なのに顔は一様に笑顔なのだ。
「グランヴィル」
声をかけてきたのは、ジョルダンよりも少し年上に見えるくらいの紳士だった。
「ベントレー、お久し振りです」
グランヴィル、と呼びかけるのはジョルダンとあまり親しくない人だとレナは判別をしていた。親しく交流をしている人は、アシュフォードでもなくジョルダンとファーストネームで呼ぶことが多いからだ。
「そちらが貴殿の自慢のご令嬢というわけか。なるほど………なかなかに美しい」
レナは視線を向けられてお辞儀をした。
「しかし、さほどレディ グランヴィルには似てられないか」
レナはそう一瞥されて、扇ごしに曖昧に微笑んだ。そんな事を言われては、初対面にも関わらずいい印象を持てるはずもなく、グランヴィル、ベントレーの間柄で妙に納得してしまえた。
「私から見れば親子だけあり、驚くほど似ていると感じるときもありますが」
ジョルダンは穏やかに微笑んだ。
「なるほど、しかし。もっと似ておられたら、殿下も兄君の様に一目惚れされていたやも知れません。それにしても、その機会があったというのに王都に来られたのはいささか遅すぎたようですが………。確かに……アークウェインの子息は、見た目は素晴らしいと言えますが」
そう言われてレナは思わず大きく反応しそうになり、いい印象をもつどころか今後顔を見ることさえ嫌になりそうだった。
「ヴィクター・アークウェイン卿は中身も素晴らしい青年ですよ。ご存知でしょう?」
とゆったりとジョルダンが返した時にはレナも落ち着きを取り戻した。
「まぁ、でも…………彼はあの通りの魅力的な青年で若い男にありがちな……」
どこか含みのある言葉が引っ掛かった。
そして、
「ベントレー。気遣いはありがたく思うよ」
ジョルダンはそう言うと、さりげなく近くにいた夫人に視線を合わせて、レナを上手くそちらに紹介をした。
そして、続いてキャニングという紳士を相手に挨拶を交わした時にも……
「若い女性は、色々と心配するだろうが気にすることはないよ。男と言うのは、結婚を前に少し位は羽目を外すものだから」
大人物を演じているかのように物わかりが良さそうな口調をしている彼は、レナに元気をだせとでも言いたげな視線を向けた。
立て続けにヴィクターの事を暗に示された事にレナはざわめき不安に荒れそうな気持ちを凪ぐ事が出来なかった。
「……お父様………先程の方たちのお話は………」
「単なる噂に過ぎない。ヴィクターと、最近親しいという夫人がいると。しかし………ベントレーとキャニングにはヴィクターと年の近い息子が居るが、才覚は雲泥だ。それで、あんなことを言わずにいられないだけだ」
「夫人…………」
夫人、というからにはその人は既婚女性ということだ。
褒められた話では無いが、未婚女性には厳しい社会も既婚女性には少しばかり寛大になる。
既婚女性が年若い青年へ大人の手解きをするというのは暗黙の了解というか、密かに浸透している事である。
けれど、そういうことがあるとただ知っているのと、自分の愛する婚約者がその関係を持っていると噂されているのは全く受け止め方が違う。
その噂ゆえにか時々大人たちが、何か憐れみのような目線を向けたのは………。
ジョルダンがずっと側でエスコートしているのか。
答えはレナを守る為にだ。
「どなたなのですか?」
「マダム ラモン、フルーレイス大使夫人だ」
淀みなく答えた所をみれば、その噂をとっくにジョルダンは知っていた事になる。
「だがレナ。噂よりも大切なのは目の前にいる相手をそのまま信じることだ。彼はレナを大切に想ってる」
「そうかしら………。ヴィクターは結局、王宮のわたしを訪ねては来なかったわ」
そして久し振りにその名を聞けば、………久し振りにといってもほんの10日にも満たないほどだけれど。
「その話は、後にしよう」
「後でも、なんでももうしたくないわ」
不愉快なのは………単なる噂が、レナの体を重くさせる程の威力があったから………。
噂を否定できる強さも無いから。
絶対にないと言いきれるだけの自信を持っていないから。
「全く、まるで年若い者のように詮索好きな年寄りがここにも居るとは私も想像しなかった」
その呟きにレナは思わず笑いを洩らした。
「ほっておけばいい。無責任な噂を流す輩はいかなる所にも居るものだ」
ジョルダンにそう言われて、やっと心を落ち着かせたレナはレースの扇を軽く広げそしてそっと閉じて手首から下げた。
側に近づいた従者のトレーからジョルダンがレナに渡したシャンパンを受けとり、気がつけばカラカラになっていた喉を少しだ潤し所で
「グランヴィル伯爵、レディ レナ」
と声がかかる。
「ああ、ルーファスか」
近くに来たのはルーファスだった。珍しい銀髪の持ち主である二人がこうして話していると、金髪にも個性があるように、銀髪にも個性があると気づかされる。ジョルダンのはグレーに近いような濃い色でルーファスのは青みがかった色だ。
「ご令嬢と踊らせて頂く許可を頂けますか?」
「それに対する返事は娘からで良いだろう?」
微笑んだルーファスは、今が夏間近だとは思えなくさせる。それは冷ややかな雰囲気のある顔立ちといい、瞳の青さといいまるで冬の美しい氷を思わせる。
「こんばんはルーファス」
「こんばんはレナ。では改めて、一曲目のダンスを踊って頂けますか?」
「喜んで」
それにしても、わざわざルーファスが一曲目に誘いに来たことを思わず勘ぐってしまう。
「ルーファス。貴方はもしかすると噂を気にして誘いに来てくれたの?」
「……知ってはいるし、その事で心配もしているのは事実だけど、ヴィクターのいない今夜は君と踊る良い機会だから」
「やっぱり皆知っているのね。知らなかったのはわたくしだけなの?」
「この社交界では、次から次へと話題を求めている。それも目立つ人物の宿命だよ。婚約したての君たちは格好のデザートに相応しい」
唇を歪めた微笑み方も、ルーファスにかかればその容貌をさらに彩るだけだ。
「こうして話せば、私も明日にはレナと噂になってるかも知れないな」
レナが注目を浴びているのを分かっていて、ルーファスはわざと耳元に唇を近づけて囁いた。
「誘惑してると思われるわ」
「されればいい。レナはまだ、未婚なのだからね。たくさんの男たちを魅了して誘惑させてそして振り回す」
「それじゃあ、悪女みたいだわ」
レナは目を軽く見張った。
「ヴィクターをやきもきさせればいい。私もあいつのそんな姿を一度くらい見てみたいから。昔から堂々と偉そうで」
「どうかしら、わたしの事でやきもきなんて。するかしら?」
「するさ。あいつのプライドは高い。とてもね」
「プライド………」
「どうかした?」
「いいえ、なにも」
プライドゆえに、と言われレナは少しそれが引っ掛かかる。〝ヴィクターはレナに『愛』という感情があるのか?〟ふとそんな疑問が沸き上がったからだ。
例えば………ギルセルドがセシルの為に、王宮を追放されるほどの……。
そんな気持ちは抱かれていないような気がした。




