31,朝の社交
朝の公園は貴族たちの社交場。
夢にまで登場するヴィクターのせいで、早起きをしてしまったレナはミアを供にフォレストレイクパークへと足を伸ばしていた。
ゆっくり歩いていると、レナが今注目を浴びているからかたくさんの人に声をかけられる。
その度に愛想よく振る舞っていると、気分転換のはずが逆効果になってしまいそうだった。
「少しお休みになられてはいかがですか?」
ミアはレナに歩き疲れが見えたのかそんな風に声をかけてきた。
そんな風に主人の事を気遣えるようになったとは、本当にこの数ヵ月で成長している。
「ありがとうミア。そうするわ」
ベンチに座りホッと一息をつく。
公園には小動物がたくさんいるので、時折その姿を見せてくれる。ただその光景をぼんやりと見ていると目の前に一人の男性が立っていた。
「レディ レナ」
その人を確めて、レナは身を固くした。
「アドリアン卿……」
まさかここで声をかけられるなんて、思いもしていなかった。
「逃げないで、聞いてください。私は貴女に謝りたくてこうして近づいてしまいました」
会話をするには少しばかり遠い位置にアドリアンは立っていて、ここは公園であることを自分に言い聞かせて、レナは立ち去ろうとしていた体を再び座り直した。
「謝罪は……今、受け取りました。それに何も、無かったのですから」
「邪な気持ちが無かったとは言えない。貴女が優しく相手をしてくれたから、もっと親しくなりたいと思ってしまった。申し訳無かった」
今の彼は、誠実にさえ見える。けれど彼は密室に二人きりに持ち込んでレナを窮地に追いやったのだ。
「それは……社交場においては普通の、態度でした。わたくしにとっては」
「今度の王宮の大舞踏会で、どうか挨拶だけでかまいません。一言だけ言葉を交わして下さい」
心底懇願するようなアドリアンの響きに、思わずレナは彼の表情を見た。
「貴女の影響力は大きい。力あるウィンスレット公爵家やアシュフォード侯爵家、それにアークウェイン伯爵家に睨まれたままではアンスパッハはもう終わりだ。私の顔など見たくも無いかも知れないが『こんばんは』とそれだけでいい。どうかお願いだ」
「わかったわ」
それで気が済むのなら、そしてそれで悪夢みたいなあの夜の決着をつける事が出来るなら。
結果的にレナには何も悪いことは無かった。それはすべて、ヴィクターを始めとする周囲の人達のおかけだった。
朝のこの光の下で見るアドリアンには、あの夜の言い知れない恐怖は成りを潜めていて、頼りない若者がただ困っているだけだった。そう感じることが出来るのは現実に逃れることが出来たから。
「だから……今は、もう去ってしまって」
レナは彼が踵を返して歩み去るのを目を逸らして感じ取った。
ほとんどの貴族が集う大舞踏会。
それは社交シーズンの最も大きなイベントだった。
そこで、アドリアンと言葉を交わす。
たった一言、それでもそれは、あの場に居た男性たちや事情を知る大人たちにどう思われるだろう。それに何よりヴィクターは?
誰かの悪意を得るのは怖い。
だから、アドリアンの申し出を受けるのはそんな心地もある。せっかく……、令嬢社会の中での立ち位置が収まりを見せようとしているのだから事を収めたい。
レナは公園を足早に歩き、待たせてあった馬車に乗り込んだ。
「アークウェイン伯爵家へ」
「お嬢様」
ぎょっとしたようにミアは目を見開いた。
こんな時間に、婚約者のヴィクターの家を突然訪ねるのは相応しくない。
ミアと違い御者は了承すると馬車を走らせた。
家を訪ねてどうしようというのか、それは少しも考えていなかった。ただ、今、コーデリアでもなく父のジョルダンでもなく、ヴィクターに会いたかった。
****
レナはアークウェイン邸の扉をノックすると、執事がレナを認めて、
「グランヴィル伯爵令嬢 レナ様、ようこそおいでくださいました。主人に取り次いで参ります」
「ええ、ありがとう。こんな時間に突然申し訳なかったわ」
ヴィクターの婚約者という立場だからか執事はこんな時間なのにホールの椅子にではなく応接室へと通して待たせた。
「レナ、訪ねて来てくれて嬉しいよ」
「レオノーラ様……」
綺羅綺羅とした笑顔で現れたのは、ヴィクターの母であるレオノーラで、その瞳はヴィクターが受け継いだ緑色だ。
「ヴィクターは夜更かししたらしくて、まだ支度中みたいでね……どうかした?顔が真っ青だ」
レオノーラはレナに近づき、頬に両手を当てた。
「温かい紅茶を」
執事に命じると、そのままレナの顔を覗きこんだ。
「何があったの?」
「公園に……行ってたのです、散歩に」
ただ、それだけだ。
「人に、会って挨拶を交わしててそれだけです」
そうだ、要はたったのそれだけの事だった。
なのに、どうしてこんなにもレナは動揺しているのかレオノーラに説明することが出来なかった。
少し経って、執事は湯気の立つティーセットを運んできた。
「さぁ、飲んで。それからビスケットも少し食べて」
手に持たされたカップは、温かくいい香りがしてそれがレナが冷えていた事を証明していた。
促されるままにカップに唇をつけた。
急いで朝の身支度をしたらしいヴィクターは、まだタイも結ばず、さっきまで使っていたらしいシャボンの香りがふわりとして生え際が湿っているのが分かる。
「一応15分だけね。グランヴィル伯爵に恨まれたくは無いから……」
ありがとうございますと、小さく呟いてからレナはヴィクターの方を見上げた。
「レナ、昨日は……」
「違うの……、昨日の事は確かにわたしを眠れなくしてしまったけれど……」
「そうか……眠れなかったか」
「公園で……アドリアン・アンスパッハ卿に会ったの」
「あいつ……」
ヴィクターの声に怖いものを感じて、それはあの夜の彼を思い出させた。
「何かされた訳じゃない。ただ、赦しを請われただけ」
「それで?」
「ヴィクター、お願い。わたしを軽蔑しないで」
「赦すと言ったのか?」
レナは静かに頷いた。
「何も無かったと……本当に何も無かったのだから、そうしたくて。ただ、密室になった部屋の窓を越えて逃げた……それだけ……何も無かった……だけど……分からない。わたしはどうしてこんなにも、動揺しているの?」
「大丈夫だ、あいつの事は任せておけ」
「ヴィクター……やめて。何もしないで。彼は立場を守りたくて、わたしに大舞踏会で挨拶を交わして欲しいと頼んできたの。そしてわたしは、それを受け入れたの」
「許したくない」
「それでも、許して。もう、誰かの悪意を見たくない。分かってるけれど今は……弱いと言われようと、もうこれで終わりにしたいの」
「レナ、約束をしたと言っても守る必要は」
ない、という言葉を聞く前にレナはヴィクターの唇に、唇を重ねた。それで軽く震えている自分に気がついた。
「赦すと言って、ヴィクター。お願い、そしてわたしを……守って」
「……賛成はしかねるが、レナを赦すよ。それから喜んで君のナイト役を引き受ける。約束する……アドリアンの事は大舞踏会で挨拶を交わして、それで忘れよう」
レナはやっとぎこちなく微笑んで、ヴィクターから少し離れた。
「もう……行かないと、昨日に続いて今日もまた、しきたりを破ってしまったわ」
朝に招待もされずに男性の家を訪ねるなどしてはならないことだ。
「いけないと思いつつ、そうしてしまうレナが好きだよ」
鮮やかに笑ったヴィクターに、レナの温度は一気に上がった。
「やっと顔色が良くなった。温かい紅茶よりも、俺の方が役に立てる」
その言葉に思わず笑顔が生まれた。
「今日はレナが忍び込んでくる?ロープを下ろしておこうか?」
「ロープじゃなくて梯子にしてね」
「分かった。梯子だな」
そんな軽口が、いかにもヴィクターらしくてレナようやく動揺が治まる。
「ありがとう、ヴィクター。今日はパイじゃなくてプディングがいいわ」
「頼んでおこう」
そろそろ時間だ。
ヴィクターはさっと唇を奪うと、レナを部屋から玄関まで送って行く。玄関ホールで待っていたミアがレナの表情をみてホッとした顔を見せた。
「ありがとう、ヴィクター」
「いつでも大歓迎だ」
馬車へと導いたヴィクターの手がレナの手を取り、左手の指にはまっていた彼からの指輪にキスをする。
「理由はわかるだろ?」
「たぶん……でも、またちゃんと、聞かせて」
どんな言葉でどんな表情で、なのか知りたいからだ。
少し天を仰いだヴィクターは何事かを呟いた。
「レナ、俺は極めて健全な18歳の男で、人前で心地好い言葉を言うとすればそれは芝居だ。だから、レナがそれを聞くときは必然的に二人きりになったときだ。6歳なら出来ても18歳には出来ない事もある」
「よく……わかったわ」
確かに4歳のレナなら、人目があろうとなかろうとヴィクターに抱きついたけれど16歳の今はとても出来ない。つまりはそういうことだ。
パタンと音を立てて扉が閉められ、ヴィクターは出発の合図をした。
「……お嬢様、あの顔で本気で愛を囁かれて正気でいられるのです?」
ミアは極めて現実味のあることを言った。
「わかってないのね、ヴィクターを前にするといつだって正気で居られないの。だけど………確かめたいの。みんなそうでしょう?どう思われているのか、知りたいと思うのは」
行動で全ての気持ちがわかる?
言葉で言われたって、それが本当か確かめる術はないけれど言葉は確かに音として聞こえるのだから。




