30,規則
デュアー公爵家の三階の一室、そこは明らかに若い女性を意識した部屋で、白と淡いピンクの調度類で整えられていた。
若い娘らしくレナもそうした可愛らしい部屋は好みだったし、お茶会と晩餐をこなし、ミアの手伝いで湯あみをすませネグリジェに着替えて支度を整えるとホッとした。
お気に入りのフローラルな香水は、気持ちを落ち着かせてくれる。ミアが下がり部屋に一人きりになると、レナは母から届いていた手紙を読み返していた。
手紙には何も特別な事は書いてはいない。大切な時に側に居られないこと、そして体を気遣い、心を気遣い、それからヴィクターとの事を寿ぐ言葉が書き連ねられていた。最後には、こちらはみんな変わらず過ごしていると、それから会うのを楽しみにしてると……。
封筒を開いた時に、ふわりと母の纏う鈴蘭の香りがして、もう子供じゃないというのにまるで、母を探す子供みたいな頼りない気持ちが沸き上がる……。だから、一人きりのこの時にもう一度じっくりと読み返しているのだ。
そうして手紙をぼんやりと眺めていると、ノックの音がした。
―――それも、バルコニーの方から。
まさか、とレナは出来るだけ静かにカーテンを開けるとそこにはやはり、ヴィクターが立っていたのだ。
「今日はいい夜だね」
白く輝く細い弓のような月を背に、魔力でも操りそうな緑の瞳を瞬かせヴィクターはそこにいた。
「一緒に食べようと思って」
絶句しているレナに、ヴィクターが軽く視界に入るように紙袋をそっと持ち上げた。
「頑張って上ってきたから入れてくれる?」
ここは三階だったはずだと、レナは確かめるようにバルコニーの外に広がる庭に視線をすべらせた。
「レナ?」
心配する声と共に、しっかりとした腕がレナを部屋に入れて椅子に座らせて水差しの水をグラスに注いだ。
「あれ?もしかして伝わってなかったかな」
リボンを結びつける。
その答えが、これだったのだ。
「ここ、三階なのに」
「そうだな、でも俺は背が高くなったし」
「今………夜だわ。それも、真夜中」
「昼だと人目につくから」
何てこと無い様に答えるヴィクターに、レナはなんだか可笑しくなってきてしまった。確かに見た目は子供ではなくなったというのに、こんな風に悪いことをしてしまういたずらっ子な所はやはり健在なのだ。
「コルセットしてると、あまり食べられないんだろ?」
隣に座ったヴィクターが、テーブルに置いた紙袋を開けるとそこには、アップルパイが入っていた。
食べ過ぎて太ると、コルセットがきつくなるのに、なんだかおかしい気がしてしまう……。
そんなレナの現実的な感想は、遠慮なく戦利品を手渡してくる記憶にある姿と重なって、笑顔で受け取っていた。
「これキッチンから?」
「そう。本当はもっと持ってきたかったけど、三階じゃこれが限界だった」
「おいしい……」
キッチンから盗んできて、こっそりと食べるアップルパイは微かな罪の意識と相まってとても美味しかった。
「……寮にも、規則があって。俺はその中から下らないのを一つずつ破っていった」
ニヤリと笑うヴィクターは、未婚の男女が密室に二人きりになってはいけないという社交界における規則を今夜破っていて、それはレナも同罪だった。
「レナとは婚約している訳だから、せいぜい叱られるか結婚する時期が早くなるだけ」
「そう、ね」
確かにヴィクターの言うとおりだ。
例え今誰かに見つかったとしても、不適切だとは叱られても大事にはならないだろう。
「俺はまだ、大人に成りきれていないから、人がいるとカッコつけるわけだ。だから、こうして卿とか呼ばれる身じゃなく会って話したくなったんだ。レディ レナじゃない、レナと………。キッチンからくすねてきたパイを食べてくれる」
「うん。それは……何となく分かるわ」
レナだってそうだ。
使用人たちの目でさえ、主人に相応しい立ち居振舞いを意識している。どんな時でも、デビューを迎えてからは単なるレナでは居られないのだ。
「手紙、読んでたのか」
置いたままの手紙が、カサリと音を立てて床に落ちたからだ。
「お母様からの」
「シーズンが終わったら一緒に王都を発とう」
「ウィンスティアに来てくれるの?」
「行くよ……しばらくお会いしていないが、美しい方だったな。レナの母上は」
「何年たっても変わらず。わたしは似なくて残念だわ」
「気にしてる?」
「してるわ」
「周りはそういうものだ。俺はそっくりだと言われ過ぎて嫌だ。似てるとか似てないとか、天気の話みたいなものでそんなもので、評価はされたくない」
ヴィクターの言葉をしばらくレナは反芻した。
「レナは俺の親が好きだから、婚約しても良いと思った?」
「違うわ」
「俺もそう。レナの母上が好きで好きになったわけじゃない」
好きになったわけじゃない、一拍おいてその台詞がすとんとレナの中に落ちてきた。
「ヴィクター……今は本当に二人きりな訳で……」
メイドも付添人すらいない本当に、二人だけなのだ。
「わかってる。人前でさらりと言えるほど大人でも子供でもない」
レナは一瞬にしてヴィクターを前にすると逃げたくなるような心地になっていた。せっかく近頃は収まっていた筈なのに……。
「俺が選んだのは、他の誰でもないレナ・アシュフォードで、それはこれまでもこれからも変わらない」
ヴィクターはそんな風にレナを蒸発させてしまいそうなほど、赤面させておきながら、入ってきた扉に手をかけている。
「帰ってしまうの?」
「ああ、さすがに今、抱き締めたりキスなんかしたら……わかるだろ?」
「わからない……」
レナは思わず立ち上がり、ヴィクターの前に立っていた。
微笑んだような気配がして、レナの唇はヴィクターのそれで塞がれていて、無防備なネグリジェとガウンの体は長い腕にすっぽりと抱き寄せられてしまった。
「わかれよ」
離れた唇から、熱を含んだ声に思わず視線を合わせてしまった。
「おやすみ、レナ」
ぼぅっと見惚れてしまっているうちに、まるで幻のようにヴィクターはバルコニーから居なくなっていた。
夜風が体を冷たくして、バルコニーから下を覗いて見たけれど闇に紛れたのか姿を見つけることは出来なかった。
ようやく扉をしめて部屋に入ると夢でも見ていた気がしてしまう。けれど部屋には、ヴィクターの香りがふんわりと漂っていた。
「……ちゃんと……言ってくれないと、わからない……」
重なった唇も、抱き締められた体も残り香以上に感覚を残していた。
好き、みたいな事を言ってこんな感覚を置き土産にしていくなんてヴィクターは本当に酷い。
規則を破ってまで部屋に来たのに、ほんの少しの会話であっという間に去ってしまった。それなのに、レナの全ては支配されている気さえしてしまう。
それは、子供の頃には無かった甘美な痛みだった。




