25,婚約者
会場を離れて、レナは部屋へとヴィクターと入った。
「レナ……アニス・ブーリンに見事にやり返したな」
「……すごく……ドキドキしたわ」
「ロディア語も、見事だった」
「聞こえてたの?」
レナは恥ずかしくなり、そっと俯いた。
それほど、近くにヴィクターの姿は無かったと思うが、人に……アニスにとはいえ、嫌な自分を見られたくはなかった。
「レディ コーデリアはさすがと言うべきだな。レナをあんな風に助けられるのは彼女以外に出来なかった」
今回のコーデリアの作戦はまずは、レナを侮らせない事。
その為に、大人びた外見とそれから、王家との繋がりを見せつけて令嬢としての格の差を見せつけ、外国語を話すことで教養の高さを思い知らせる事だった。
ここ10年程で親交のある国は増え続けているが、ロディア国もその内の新しい国だった。レナが話せるのは、ジョルダンがもともとは外交官として経験があったからで、屋敷には外国語の書籍がたくさん並んでいる。レナードの授業をレナも側で聞いていたからに違いない。
令嬢たちが学ぶのは昔から親交の深いエリュシアか、フルーレイス辺りまでだ。それも挨拶程度という事も珍しくはない。
「ええ、本当にそう」
「でも、それもレナが彼女に頼んだからだ……。レナの力だよ」
「違うわ」
「違わなくない。それが社交の力だ、レディ コーデリアの力を手にしたのは、レナの力となるんだ」
「ほんとうに……そうかしら。でも、……ヴィクターにはわたしのあんな所を見られたくはなかったわ」
レナがそう言うとヴィクターは首を降った。
「レナが傷つけられる姿こそ見たくない。今日の事はやり過ぎなんかじゃなかった。それにあれで、皆……レナの事を軽く見る令嬢はいなくなるだろう」
ヴィクターにそう言われると、誉められた気がして嬉しくなる。
「これが褒美になるか、わからないけど約束したから」
部屋には……今は二人きり。
ヴィクターは、うっとりするほどの笑みをレナに向けている。
うなじに添わせた彼の手はさほどの力が入っていた訳じゃない。けれど、自然と伏せた瞼はその後にあることを知っていた。
「頑張ったな、レナ」
軽く触れた唇が、軽く音を立てて離れる。
「ヴィクターがいたから……頑張れたの。側にいるために……他の女の子たちに邪魔はされたくないの」
その言葉に返事はなく、ただ再び……さっきの物よりも、深いキスが、荒々しいほどの力強い抱擁と共に押し寄せる。
キスとキスの間に、熱で浮かされたような潤んだ視界で見つめ合うと、ヴィクターの緑の瞳には魔力があるかのようで惹き付けられて止まない。自分の全てを支配されるようで怖いのに、それでいて何もかもを捧げてしまいたくなる。
どれくらい、たったのかドアがノックされてもそれはどこか別の世界のようではっきりとそれが何を意味するのか理解出来ない。「時間切れ」
ヴィクターが身体を離すのと同時に、扉が開いてミアたちメイドが入ってきた。
「廊下で待ってる。ゆっくり着替えて」
「ありがとう………ヴィクター」
ヴィクターを見送って、メイドたちを見るとその様子にレナはきっと何をしていたのか、彼女たちは知っていると気づいた。
「侯爵夫妻にも、お父様にも絶対に言わないで」
「わかっております。お嬢様」
ミアがいい、他のメイドたちも微笑んで頷いた。
「見えたの?」
「……申し訳ありません。ほんの少し……扉が開いていたので」
ミアの言葉にレナは
「戸締まりはきっちりとしないといけないわね」
レナたちも、それから先日も……。
扉には隙間が生じる可能性があるということを学んだ。
「それにしても、やはりレナお嬢様は立派なレディなのですね」
ミアがドレスを脱がせながらそう呟いた。
淑女たるもの結婚するまでは男性と二人きりにならないものだし、婚約をしているとはいえ部屋に入ってすぐの扉の前で抱き合ってキスをするなんてはしたないことだ。
「嫌みなの?」
「まさか!婚約者があんなに素敵な紳士だなんて普通の事じゃありませんよ」
「不釣り合いだと言いたいの?」
「違いますよ。とても……お似合いでした。ですからやはりレナお嬢様は貴族なのだなと実感しました」
ミアが知るのはシェリーズ城での暮らしだから、あちらではこんな風に毎夜の様に夜会があったわけでもなく、ミアの思い描く貴族の姿とは違ったのかも知れない。
「王女さまがたともお親しいなんて、さすがです」
「それは、実際に力を奮ったのは親族であるジョージアナ伯母さまよ。わたしは、フェリシア妃と幼馴染みというだけ。プリシラ殿下たちと幼馴染みなのはコーデリアよ」
助っ人という言葉が、恐ろしくなるが国のトップの女性だ。
メイドたちが用意した新しいドレスは、今度は淡い白に近いグリーンで、レースの使い方も大人っぽく品がある。
それに合わせて口紅も、赤から珊瑚色に変えて、髪飾りも小さめの物へと変えると、またさっきのものとは違う雰囲気だ。
「さぁ、完成ですわ」
後ろが少し長いバックスタイルを鏡越しに見ながら、確かにこんなドレスを領地では必要としなかったと、そうレナも思った。
メイドたちが扉を開けると、廊下で待っていたヴィクターがレナを見つめた。
自然な動作で手を取ると、
「もう一頑張り、しに行こうか?」
「そうね、頑張らないと」
「新しいドレスも、とても似合ってる。メイドたちは俺の目に、合わせて選んだのかな?」
ヴィクターは、背後にいるミアたちメイドに視線をやる。
「お嬢様には、お似合いになる色ですわ」
「いい答えだ」
ふと、メイドたちを見るとミアが頬を赤らめている。ミアだけしゃなく、若いメイドたちは同じ反応だった。
「赤の口紅は、さっきまでか」
「ドレスに合わせたの」
「赤は……似合ってたけど、少し目立つ」
「何のこと?」
「さっき、二人きりでしたこと」
その意味に気づいてレナは思わず赤くなった。
「ヴィクター!」
レナの反応に声を上げて笑うと、一気に幼さがふわっと現れてそれは記憶のままの笑顔だった。
だから、思わずつられて笑ってしまった。
そんな風に笑ったのは、再会してからは初めての事になったかもしれない。
「明日の一面が楽しみだな」
貴族のゴシップを扱う新聞はいくつかあり、その一面の事をヴィクターが言っているのだ。
「コーデリアの事?」
「いや、令嬢たちのバトル。どう分析されるか……楽しみだ」
「面白がらないで」
「レナがそうして、戦うなら俺はそれを助ける。覚えておいて、必ずここに味方がいると」
ざわめきに紛れるほどの囁き声だったけれど、その言葉には力があった。
「いつも……わたしは頼りにしているわ。そしてそれが、間違っていない事も」
出会った日の事を覚えてはいない。
けれど、幼い日のレナはいつだってそうだった。
裾の長いドレスと、高いヒールとの相性は歩きやすさにおいてはゼロ点だけれど、エスコート役との親密さを助けてくれる。
特にそれが、まだこれから関係を深めたい相手となら心強い味方なのだ。
会場に戻ると、さっきのやり取りはすでに若い世代には広まっているのか、視線が集まる。
「コーデリアが、呼んでる」
背の高いヴィクターには、すぐにコーデリアが見つかったらしい。それは会場の一画に置かれたソファの所で、間違いなく社交界の中心を示してもいい。そこに居る事は、自分達が上だと宣言することだ。確かにレナのお披露目であるから、相応しいと言えるのだが……。
近づくと、コーデリアにそれからプリシラとアンジェリンの王家の二人。そして、ジョエルとマリウス。そこに、ルーファスが合流して、とんでもなく目立っていた。
「レナ、ここに座って」
アンジェリンが隣に促した。
「最初のドレスも良かったけれど、今度のも素敵ね。彼の瞳と合わせたの?」
「そんなつもりは無かったわ。ヴィクターの瞳はもっと鮮やかだから」
「確かにそうとも言えるけれど、でも……そう思う人は多いはず。見せてつけてきたら?彼は私のものよって」
にこっとプリシラが笑って、扇ごしに言ってきた。
「ヴィクター、この次の曲はワルツよ。婚約者を誘わないとおかしいわ」
アンジェリンが少しからかうように言うと、ヴィクターは微笑んだ。
「殿下に言われたからじゃないが、……レナ。次の曲を」
ヴィクターに差し出された手に、レナは微笑んで手を重ねた。
「恥ずかしいからって、視線は下げちゃ駄目よ」
コーデリアがレナの反対の手をそっとつかんで言ってきた。
「……出来るだけ頑張るわ。先生」
ヴィクターの手で、立ち上がり歩き出すと自然と人が広間の中心へと道を開ける。この日の主役はその場にいるたくさんの人達の中で、レナとヴィクターだった。
この夜は特別な夜。
なにもかも……。
僅かな時間がレナを変えた。
平凡だと、そう自分を信じてきて居たけれどこの瞬間、レナは自分がまるで物語の主役の様に感じていた。
子供の頃に憧れた舞踏会。
その真ん中で、子供の頃に約束をした相手とワルツを踊る。
描いていた夢が、叶ってしまった……。
夢の続きは………。
ふと掠めた、そんな不安は見上げた先の瞳が魔法にかけてしまったかのように、奪って去って行った。




