13,真夜中の密約
馬車はやがてアシュフォード侯爵家へとたどり着き、ヴィクターはレナの手を取り、馬車から下ろした。
ヴィクターのテールコートでは隠しきれないレナの乱れた姿に、よもや慌てる事などあり得ないと思っていたアシュフォード家の執事は、一気に青ざめてその動揺の浮かぶ目をヴィクターへと向けた。
「アシュフォード侯爵にお話が。待たせてもらっても良いだろうか?」
執事は畏まりましたと言うと、ヴィクターを応接間に案内するように従僕に伝えて、レナにはメイドを呼んだ。
「私がきちんと侯爵には話す」
「でも……」
そう言った所で、ふらりと体が傾ぐ。立つことも困難になりつつあるレナをヴィクターはしっかりとした腕を伸ばして支えてくれると、そこにすがりつくレナはその腕がとても固い事に気がついた。
「部屋まで、送る」
易々と抱き上げられ、レナの部屋までメイドが案内していく。
「なにか、飲まされた?」
何も……と言いかけて、
「そ………いえば、部屋のお水を少しだけ」
確かにそれを飲んでから、眠気に襲われたのだ。
誰が……。纏まらない思考に次々と今日あった人たちの顔が浮かび上がる。
「罠……だったのね」
「たぶん」
部屋の前で、下ろされ
「ありがとう、ヴィクター」
「侯爵が戻られたら、レナも出来れば一緒に話を」
レナはうなずいた。
それまでに、体をしゃっきりとさせないと……。
部屋に入ると
「お嬢様……」
とメイドは、乱れたレナに青ざめて、ヴィクターのテールコートを脱がした。ベッドの柱に掴まって、ふらつくのを支える。
「バスルームへ」
「そうね、その方が目が覚めるかも……」
隣室のバスルームへ行くと、もう一人メイドが駆けつけて、レナの体を清めてくれる。
「お怪我は無いようで……ホッとしました」
それにしても………運が良かった。あの水をグラス一杯飲んでいれば、眠気に襲われるくらいでは済まず、アドリアンの思惑通りに今ごろはあの部屋でただならぬ事になっていても少しもおかしくない。
それに、助けを求めたのが、別の人だったなら……。
虚ろなまま、レナはメイドたちの手でお風呂を済ませてネグリジェに着替えてそしてベッドに横たわると、意識はぷっつりとそこで途切れた。
***
体を揺すられてレナははっと目を覚ました。
「起きてください」
ミアが揺すりながら、呼び掛けていたのだ。
「ミア……今は何時ごろ?」
上体を起こすと、まだ外が暗いことが目にはいる。
「2時ごろです。侯爵さまがお嬢様をお呼びです」
夜明け前に起き出すミアをさらに早くに起こさせてしまったらしい。きっちりとお仕着せを着ている姿にレナは申し訳なくなる。
「ありがとうミア。あなたも早くに起こされてしまったのね、ごめんなさい」
少し眠ってふらつきは収まったようだ。
「支度をお願い」
ミアが用意したのは、コルセットを使わないドレスだった。
胸の下で切り替えのある水色のドレスは、軽くて着心地が良い。
髪はレナがいつも馴染みのあるねじってサイドを留める形に整えてくれた。
「ありがとう」
レナは緊張しつつ階下に降りると、明かりがついているのは応接間で、そこにフレデリックとヴィクター、それにジョージアナが向かい合って座っていた。
裾をつまんでお辞儀をして、中に入ると、ジョージアナは隣に来るようにと合図をしてきた。
「レナ、ヴィクターから話は聞いた」
フレデリックの表情は渋く、その声は静かなのにどこか切羽詰まっている。
「ヴィクターの言うように、早く婚約許可を頂くしかない」
レナはフレデリックとそれからヴィクターを見た。
「伯父さま、でもそれではヴィクターに悪いわ」
「だったら醜聞にまみれてアドリアンと結婚するというのか?アンスパッハ侯爵は借金まみれだ。アドリアンもおおかたレナの持参金狙いだろう」
「レナ、そもそもヴィクターとは口約束とはいえ結婚の話をしていたのでしょう?それならなんの問題もないはずね?」
ジョージアナが諭すように語りかける。
「事は一刻を争うと言っていい」
フレデリックはレナをひたと見つめた。
「その場に居合わせたのは、ヴィクターとカイルとそれに何人か友人が居たという。そこの口は信用しても良いが、人の口に戸はつけられない。このままではきっと、レナとアドリアンの噂が立つだろう。それを裏付けるように、証拠のような物が出てくる。……だから、ヴィクター・アークウェインの名がレナを護る」
「名前が……護る?」
「二人が正式な婚約をし、実際に社交界に並んで立てば。単なる噂に過ぎないとそういう認識になるだろうし、アドリアンもヴィクターを敵にしようとはしないだろう。それだけの力がヴィクターにはある。確かにアンスパッハは侯爵ではあるが、アークウェインの名の方が今では信頼度では優る」
レナは静かにそこに座っているヴィクターを見た。
「時が熟して、正式な婚約をする。ただそれだけだ」
幼い日の、あの約束。
「レナ、まさかイヤだなんてないわよね?あなたの評判はあなただけのものじゃない。アシュフォードも、グランヴィルも傷つくのよ」
レナード、それにラリサ。そして、アシュフォード家のチャールズとアーヴィンド。彼らはまだ若く社交界に出てきていない。彼らの未来を閉ざすわけにはいかない。
レナがアシュフォードの姓を持っているから……。
「わかってます……よろしく、お願いします」
レナは立ち上がって、3人にお辞儀をした。
あの、キラキラしてした想い出が壊れて崩れ落ちる気がした。
「明日……というか、今日になるが、また来る」
ヴィクターはそう言うと、立ち上がってレナの指先に唇を触れさせた。
「おやすみ」
レナは歩を進めるヴィクターの半歩後ろを続いて歩きながら、
「本当に、いいの?これで……」
「良くなければ、そうしない。これでレナの名は守られるし、俺もこれで周りは静かになるはずだ」
「え?」
「さすがに婚約者のいる男に、まとわりつく令嬢は減るはずだから」
「そう……じゃあ、ヴィクターにとっても……これは利点があるのね?」
「………そうだ」
暗くて、その眼差しはよくは見えない。
けれどそこには鮮やかな緑の瞳があるはずだ。
それだけなのかと……つい問いただしたくなってしまう。
幼い頃から……夢に見てた。でも、こんな気持ちで迎えるなんて。
けれどこういう形にしてしまったのは、レナが隙を作ってしまったからに違いない。
「そう、ね。きっと、これで……落ち着くはず」
レナが婚約者となったとしても、きっとヴィクターの周りから女性は消えないだろう。
「ああ、きっと」
ヴィクターは、そのまま扉を開けて停められていた馬車まで歩いて行った。
レナはそれを見送って、階段を上がる。上の廊下から走り去る馬車が見えてすぐにそれは姿を消してしまう。
こんな形で、ヴィクターと婚約が決まるなんてレナは想像もしなかった。むしろ実現しない事なら予想もしていたくらいだ……。
こんな、必要にかられて、それもヴィクターと……。
喜びたい事なのに、喜べない。
なぜ、こんな風になってしまったのだろう?
何を間違えたの?
ゆっくりと部屋に戻りドレッサーに座ると、鏡には平凡とも言うべきレナの姿が映る。
隙。
いかにも……可もなく不可もなく無難な、気弱そうにさえ見える。
人の悪意を……それと気づきながら、仕方がないと見ないようにしてきてしまったからこそ、出来てしまったかも知れない隙。
こうなってしまったのは、レナが隙を見せてしまったからだ……。
手を伸ばして、鏡の中のレナに触れてみる。
ひんやりとした鏡面が指先を冷えさせる。
想像もしなかったことが、起こってしまった……自分の身に……。
アドリアンは、レナをつけてきたのだろうか?それとも、誰かと結託していた?
ドレスを汚した誰か……。あの部屋に戻り連れていったシャンテル……。
汚れを指摘したのは、キャスリーン……。
部屋に用意されていた睡眠薬入りの水。でも、それはシャンテルに渡された訳じゃなくて……レナが自らグラスに注いだのだ。
誰が……それともみんな、なのだろうか……?




