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1月14日


 一月十四日。

 この日は割と嫌な一日であったと、町田青年は記憶している。


「おい、町田」


 朝八時。

 店長に呼び止められ、町田青年は嫌な予感を感じながらも振り返る。

 こういう風に呼ばれる時は、大抵ロクな話ではないのだ。


「お前、最近弛んでるよな」

「そうですか」

「弛んでるよ。仕事に全ッ然、身が入ってねェ」


 町田青年は、今まで身を入れて仕事をした覚えは無い。

 それ程に価値のある仕事とは思えなかったからだ。

 だが、それを言う事はしない。そうしたところで、罵声が更に増すだけで、益がある訳がないのだ。


「……俺とお前は、もう長い付き合いだよな?」

「四年程の、勤続になるかと」

「だよな。なら、もっと言うことがあるよな?」

「……そうでしょうか」

「そうなんだよ!」


 ヤニ臭い空気を纏いながら、店長はがなり立てる。

 吠える度にその空気が鼻につき、町田青年は顔を顰める。


「ただでさえ使えねぇお前が使えねぇと! ウチの売上が落ちるんだよッ!!」

「申し訳ありません」

「謝れば済むと思ってるのかよ! ウチの損失をテメェが補填するのかよ、えぇ!?」

「……失礼致しました」


 町田青年は、ただ愚直に頭を下げ続ける。

 店長のこの手の癇癪は、特に珍しいことではない。クレーマーへの対応と同じく、ただただ、嵐が通り過ぎるのを待てばいいのだ。

 二十分程度怒鳴り続ければ、店長の体力も尽きる。それを町田青年はよく分かっていたので。


「……今までボーっとしてた分を! 粉骨砕身の思いで働け! いいなッ!?」

「はい」


 二十分間、お説教をありがたく聞き流した。

 町田青年は、割と強かである。


***


 十二時。

 町田青年の職場にも、休憩というのは一応存在する。

 一応、というのは、時間がきっちり決まっている訳ではなく、店長に見つかると休憩どころではなくなるからだ。

 なので、店長は滅多に入らない更衣室で休憩を取る。複数人が集まるとすし詰めになるが、ここでなら多少の談笑も許されるので問題はなかった。

 いつも通り、町田青年は廃棄の弁当を食べようとしていたのだが、今日はよくよく、嫌な一日であった。


「町田さんっ、排水口がッ!」

「……そういえば、そんな時期ですね」


 町田青年はゆっくりと立ち上がり、ロッカーからゴム手袋とマスクを取りだす。

 このスーパーマーケットには生鮮食品の加工作業場があり、新鮮な刺身や食肉を提供することが出来る。

 しかし食品加工は汚水や生ゴミを出す為、排水口だけでは悪臭や虫、ネズミの繁殖源となってしまう。

 それらを防ぐ為に、グリース・トラップと呼ばれる装置が敷設されているのだが、この装置は構造上、定期的に清掃しないと逆流してしまうこともあるのだ。

 最後に掃除したのは年越し前。おせちなどの食品加工を多くしたので、清掃時期が早まっていた。


「……なので、清掃の必要があります。これをどうぞ」

「ゴム手袋と……マスク、ですか?」

「はい。この装置が逆流した、ということは……」


 ゆっくりと床に扮した装置の蓋を開ける。

 間髪を入れずに悪臭が鼻につき、この作業を知らない従業員達が揃って呻き声を上げた。


「……大変、キツいですから」


 蓋の奥にあった物、それは汚泥よりも尚冒涜的な、腐泥の溜まり場であった。

 水面は油でぎとぎとと光り、嘗てそれらが食品であったと気付くのに苦労する程、その全てがどろどろと溶け崩れている。

 こみ上げる吐き気に幾人かが後退り、幾人かが口を抑える。

 清掃用具を手にした町田青年が、無機質に一言。


「……辛いとは思いますが、作業工程だけは覚えておいてください」


 無情な一言を投げかけた。

 その日は誰も、食事を摂りたがらなかったという。


***


 二十時半。

 疲れ果てた顔――傍から見れば、少し顔色が悪い程度だが――で、町田青年は家路につく。

 少し手の匂いを確認した後、ゆっくりと玄関を開けると。


「……おかえりーっ!」

「ストップ」

「!?」


 満面の笑みで、メアリーが飛び込もうとした。

 それを制止し、ゆっくりとケーキを置いてから、町田青年は手を広げる。


「スタート」

「おかえりーっ!」

「はい。ただいま、戻りました」


 勢いよく飛び込んできたメアリーを、町田青年はそっと抱き上げる。

 ふんわりと香ってくる良い香りに、彼は思わず嗅いでしまった。


「どーしたのー?」

「……いえ、良い匂いがしたので」

「えへへー。おじちゃん、わんわんみたいー」


 わんわーん、と笑うメアリーを、町田青年は優しく撫で回す。

 利かなくなった鼻でも、その香りは芳しく思えた。




 ■メアリーの にっき■


 きょうは おじちゃんの げんきが ちょっとなかったよ。

 おじちゃんの げんきがないと よく なでなでしてくれるよ。

 ぎゅーってしてあげると やさしく ぎゅーってしてくれるの。 ぎゅーって!


 ぎゅーぎゅーしてると おじちゃん だんだん げんきになるよ!

 いっぱいぎゅーってして おじちゃん げんき!


 さおとめに おしえてあげたら おかおが まっかになってたよ。

 さおとめも ぎゅーって すればいいのにね。 ふしぎ。


 あしたもいいこと ありますように。

 でも めーちゃんより おじちゃんに もっといいこと ありますように!


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