1月11日
一月十一日。七時半。
「……っ!?」
悪い予感が的中した時、町田青年は息を呑み、目を見開く。
仏頂面が大きく変わる貴重な瞬間だったが、状況を知る者は誰も素直に喜べまい。
「……不味いっ!」
そう、遅刻寸前なのだ。
昨日寝過ぎたせいなのか、メアリーと過ごした変化なのか。
兎にも角にも、いつもより一時間以上寝過ごしている。
無論、去年までなら何も問題はなかった。
勤務先のスーパーまでは、自転車で十分弱。着かねばならない時間は朝の八時前。今から行けば、朝食はないものの、余裕で間に合う。
だが、今は違う。メアリーと夢見の料理を作らなければならないのだ。当然、そんな時間はない。
「……どうする」
取り敢えずメアリーをそっと胸の上から下ろし、着替えを済ませる。
これだけで五分かかってしまい、町田青年の思考が堂々巡りに陥ってしまう。
「……メアリーさんを起こして、事情を説明して……」
駄目だ、時間が足りない。
町田青年の冷静な部分がそう警鐘を鳴らす。
メアリーの寝起きはそれ程良くない。難しいことを言って分かってくれるかどうか。
「ならどうする……」
何かいい手は無いか、と辺りを見回す。
ちゃぶ台の近くには、メアリーが使っていたお絵かき帳と筆箱くらいしかないが……。
「……そうだ、書き置きっ」
……そこで、町田青年の脳裏に電流が走る。
口頭で何度も伝えるよりも、文章で何度も読み返した方がいいと気付いたのだ。
焦って書き直しをする羽目になりながら、メアリーにも分かる様に文を綴る。
「これでよしっ」
書き置きの下に、何枚かのお札を置いておく。
そうしてメアリーに手を合わせて。
「……ごめんなさい。行ってきますっ」
とても慌しく、しかし静かに。
町田青年は仕事へ向かったのだった。
***
九時。
メアリーの朝は遅い。
どうやら彼女は、起こされないと起きられない様だ。
「……むぁ?」
起きてすぐ気付いたのは、部屋に誰もいない、ということだった。
アパートの一室には、町田青年も、夢見も、誰もいない。
「……え?」
途端に、メアリーの身体に震えが起きる。
置いて行かれたのか、いなくなってしまったのか。それとも。
悪い予想が次々と浮かび、声が自然に漏れる。
「……おじちゃんっ? おじちゃんっ!?」
布団を跳ね除け、辺りを見回すメアリー。
そうして、ふと、ちゃぶ台の上にある書き置きを見つけ、彼女はすぐさま手に取る。
『おはようございます。町田三夢です。
今日は寝過ごしてしまい、ご飯を作れませんでした。
大変申し訳無いのですが、卓袱台の上にあるお金で、早乙女さんとご飯を食べてください。
いつもの時間に帰ってきます。よろしくお願い致します』
「おじちゃぁん……」
ホッと胸を撫で下ろしながらも、どうしようもない寂しさを覚えるメアリー。
その思いが理不尽であると知りつつも、抑えることは難しい。
「……うぅ」
ぽろぽろと、涙が溢れる。
いい子にしなくちゃ。涙なんて流さないようにしなくちゃ。
そう思っても、止めることが出来ない。
……今はまだ、止められることも、止められる人もいなかった。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、メアリーの目から涙がこぼれ落ち続けた。
***
八時半。
いつもより慌ただしく、町田青年が帰宅する。
「……遅いですよ、先輩」
「早乙女さん」
彼を待っていたのは、少し難しい表情をした、夢見であった。
町田青年が探る様に目を滑らせれば、メアリーは既に眠っている。
「メアリーさんは」
「泣き疲れて寝ちゃってます。びっくりしましたよ、部屋入っていきなり泣きじゃくってましたし」
「そうですか……」
悪いことをしてしまった、と町田青年は肩を落とす。
充分に反省していることを見て取って、夢見は幾分落ち着いた声で話す。
「まぁ、度々『嫌われちゃったかも』とかぐずってましたから。明日は、きちんと起こしてあげてください」
「すみません」
「それはメアリーちゃんにお願いします」
「はい」
頭を下げる町田青年に、夢見は仕方ないなぁと溜息をつく。
敢えて上から目線で、彼女はその仕方がない先輩にご教授することにした。
「いいですか? 女の子に説明するときは、きちんと口頭で説明してあげるものなんです!」
「そうなんですか」
「そうなんです! じゃないと不安になって、今日みたいに泣きたくなっちゃうんですから!」
「……そうなんですか」
「そうなんです! 男は背中で語るなんて時代遅れですからね!」
わかりました? と聞けば、はい。と答える。
町田青年はとても素直だ。従順に過ぎると言ってもいい。
本当に仕方がない先輩だ、と思いながら、夢見は町田青年を中へ引き入れた。
「さーさ、今日は私がお夕飯作りましたから! 先輩の分、温めますね!」
「あ、はい。何か手伝います」
「いいんです! 先輩はメアリーちゃんの頭撫でててください!」
「はい」
言われるがままに、町田青年は眠りこけているメアリーの傍に横たわる。
その閉じた瞳から溢れる涙を拭って、町田青年はゆっくりと。
「ごめんなさい、メアリーさん」
と、言葉をかけるのだった。
■メアリーの にっき■
きょうは ちょっと ううん すごく さみしいひ。
おじちゃんの いないあさって すごく さみしい。
さおとめが ぎゅーって だきしめてくれなかったら
めーちゃん からからの こんぶになっちゃってたかも。
(この後の一文は涙でぐしゃぐしゃになって見えない)
やっぱり おじちゃんと いっしょの あさごはんが いいの。
あしたは いいこと あるといいな。