少年・長谷川恭介
『まもなく終点、新横浜、新横浜――』
光の中から美声が聞こえる。
「……キミ」
耳元で少年の声が聞こえる。
『――お忘れ物のないようご注意ください』
「キミ! キミ!」
あー、うるさい!
私はすぐさま飛び起きる。うつろな目であたりを見回す。
素晴らしい座り心地というわけではないが、我が家の物置に眠っている古物のマッサージチェアの電源を入れたような気持ちよさが伝わる座席。閉じられたブラインド。膝の上には黄色いバッグ。中からカメのぬいぐるみがこちらを見つめている。
安堵のため息が耳に触れる。隣を見ると、ワイシャツに黒いズボンという夏の男子学生っぽい少年が笑みを浮かべていた。膝の上に『大手まんぢゅう』と印刷された紙袋を乗せている。大手まんぢゅうといえば、我が故郷岡山の名産品だ。岡山の土産物の代表格はきびだんごだろうが、大手まんぢゅうを選ぶとはなかなか見どころがある少年である。
私が大手まんぢゅうの袋を凝視しているので、少年は変に思ったのか、
「どうしたの?」
と眉をひそめる。
「いえいえ、なんでもありません」
私は目を逸らすと、ブラインドを開けて外を確認した。駅のプラットホームに入ったようだ。さすがは新横浜。岡山とは比べ物にならない人数が電車を待っている。
「もう、着いたんですかね?」
「着いたよ。早く降りないと……」
少年は立ち上がって網棚に手を伸ばし、大きなカバンを二つ取って肩にかけた。丸で囲っている『花』の字がペイントされている。彼は花咲高校の生徒らしい。何を隠そう私は、この美景市立花咲高校に入学するべく、岡山からはるばる上京してきたのだ。
少年は学校カバンとサイドバッグと大手まんぢゅうという大荷物で新幹線から降りる。私は慌てて足元のキャリーケースとバッグを手に彼について行く。花咲高校は神奈川県の地方都市の街に建っている。彼について行けば、私みたいな田舎者でも迷うことなく美景市にたどり着くことが出来そうだ。
だが、その見立ては甘かった。私は都会の駅をなめていた。
「…………」
ホームに降り立ったところで、さっそく少年を見失った。ホームはぎゅうぎゅう詰めの寿司詰め。都会の通勤ラッシュ時は電車内で死人が出るほど噂で聞いたけど、信憑性があるかもしれない。ホームさえこうなんだから。
人々の間を押し分け押し分け、ようやくホームから自動改札口が見える場所へ……というか、改札は見えなかった。人々の頭しか見えない。
私はその場で「クソーッ!」と叫びたい衝動に駆られるが、そんなことをしたら私の社会的地位はパアだ(社会的地位なんかないけど)。とりあえず理性をもって抑える。
ひとしきり悩んだあと、私は人が少ない場所を狙って改札外へ続く列に並ぶ。ただ精算したいだけなのに、なかなかどうしてバーゲンセール時の巨大ショッピングモールのレジみたいになっているんだ。
泣きたくなりながらも何とか改札を出ると、多少人は少なめになっていた。といっても、岡山駅の通勤ラッシュを凌ぐ人数がたまっている。今は午後一時だ。通勤ラッシュ時でも帰宅ラッシュ時でもない。
「何ということでしょう……」
私は『劇的ビフォーアフター』のナレーションのような言葉を漏らし、そのへんの壁にもたれかかった。改札から出られたことはいいけど、さらに恐ろしい事態が私を待っていた。
どうやって美景市に行けばいいのだろう……
もう察しがついている方もいらっしゃるかもしれないが、私は極度の方向オンチだ。どれぐらいかというと、小学四年生のときにコンビニエンスストア内で母とはぐれ、数分後巡り会えたときには抱き合って大号泣したぐらいだ。小さなコンビニで娘とはぐれる母も母だから、これはもう立派な遺伝である。方向オンチ率が高い家系なのだ。
とりあえず新横浜駅から出なければ。バスターミナルでバスを拾って、美景市へ行けばいいのだ。そうすれば、なんとかなるだろう。世の中そういうものである。
まず手始めに、私は改札口のそばに存在する『総合案内所』の駅員に話しかけた。
「すいません。駅から出るにはどうすればいいんですかね?」
「はいはい、ちょっとお待ちくださいね」
駅員は何ら動じることなく新横浜駅構内図を見せた。私以外にも駅で迷う人がいるのだろう。他にも極度の方向オンチがいるのだ、と私は感動すら覚える。
そんな不謹慎な私に、駅員は懇切丁寧に説明する。私は必死に頭に叩き込む。
私の後ろに並ぶ人が十人に達したところで、構内地図をプレゼントされて案内所を離れる。まあ、地図を見ても理解できるとは限らないのだが。
――実際、地図を隅から隅まで眺めてみても、なにがなんだかわからない。こんなミミズがダンスしているような地図、わかるわけがない。もう、どうでもいい!
「クソッ!」
そう呟いて、地図をポケットに突っ込む。突っ込んだときに地図がグシャッとなったが気にしない。
でも、どうすればいいんだろう。今さらだが、駅員の話を聞いてもわけわからなかった。
着いて三十分で早くも途方に暮れるる新女子高生。そんな少女に救いの手を差し伸べたのは、大手まんぢゅうの少年だった。
「どうしたんだい? キミ、新幹線で隣の席になった子だよね」
顔を上げると、ツンツン頭の少年が菩薩のような神々しい笑顔を浮かべていた。彼は菩薩ではなく単なる花咲高校男子生徒だろうが、私には菩薩に見える。
私は一気に事情を語った。少年は執念深く聞いている。
「それは災難だったね。僕もこれから美景市に帰るんだ。一緒に行こうよ」
「あ、ありがとうございます」
私は小さく頭を下げる。
少年の名前は長谷川恭介。花咲高校二年生で、文化部所属だそうだ。花咲高校に入学予定だと伝えると、恭介さんは目を丸くして「じゃあ、演劇部とかいいと思うよ」と冗談交じりに言った。聞くところによると花咲高校の演劇部はこの近辺では有名らしい。
花咲駅前に行くバスの中で私と恭介さんは話に花を咲かせた。相手は優しくて人当たりがよく、おまけに意外と美男子だ。中の上ぐらいだろう。きっと学校でもモテるに違いない。
私は彼と交換したメールアドレスをチェックしながら、彼に尋ねた。
「アカウント『marronbell』……どうして『マロンベル』なんですか?」
「ちょっと、ね。まあ、いいじゃないの」
顔をほんのり赤くして頭をかく恭介さん。どうもアヤシイ感じだが、まあ、武士の情け(?)でそれ以上詮索しない。恭介さんもこっ恥ずかしいらしく、話題を転じた。
「遥香はどこに住むつもり? 一人暮らしだよね」
「新出荘っていうアパートです。新築だけど、結構安めなんです」
「ああ、あそこか」
「知ってるんですか? 新出荘」
「まあ、家が近いしね」
「そうなんですか」
にしても、おかしな偶然もあるものだ。新幹線で隣の席になった少年が、自分が入学する予定の学校の生徒。道に迷っていたところで再会し、一緒にバスに乗ったところ、相手も新出荘の傍に住んでいる人物だった。
これはもはや、運命としか言い様がないのではないか? ついに、私のバラ色の学園生活スタートか? ついに私にも恋愛小説的展開が!?
私があまりにウハウハしていたので、恭介さんも不審に思ったのか、
「どうしたの? 車酔い?」
と顔を覗き込んできた。私は表情をシャンとさせ、作り笑いを浮かべた。
「いえ、大丈夫です。気にしないでください」
「そう? ならいいけど……」
彼はそう言って前を向いた。
デート気分なのは、私だけに違いない。彼には“マロンベル”さんがいるのだから。でも、いいよね。こんな優しくて素敵な男子高校生なんて、現実世界にはそんなにいるものじゃなしに。