1. まずは状況を確認しましょう
私が目覚める直前の記憶は、ぎらりと鈍く光る刃が腹部に刺さる、というものだった。恐らく、ショックで意識を飛ばしてしまったのであろう。その後、ショック死なのか失血死なのかは定かではないが、私はその世界とおさらばした。
だってそうだろう。その世界では、25歳で結婚していなければオールド・ミスなんて呼ばれることもないし、女性は家でお淑やかに家を守るべしなんて時代遅れだったし、何よりも『魔法』なんていう非現実的なものがない。
目覚めた私は、取り敢えず目の前でふわふわと漂うガラガラを眺めながら、まずこの世界が以前の世界ではないことを理解した。
恐らく、今ある記憶は前世のもの、なのだろう。明らかに母ではなさそうな、こちらに興味のなさそうな中年女性に抱き上げられながら、私はそう解釈した。でなければ、明らかに赤子である私が、30手前で死んだ独身女性の記憶がある筈がない。魔法があるという世界ならば、記憶の移植なども可能性としてはありえるが、記憶している世界が違うせいで、可能性は限りなく低い。あるとすれば、何かしら理由があって召喚した女性が丁度死にかけていて、記憶欲しさに赤子に移植するという鬼畜のみだ。そうすると、赤子に記憶を移植する必要性を感じないし、少なくとも周りに監視する人くらいいるだろう。
視界に映る世界は狭いが、今のところやる気の欠片もない中年女性だけだ。つまり、この記憶は自然発生(?)ということとなる。転生、なるものは信じていなかったが、現在の状況から見て転生していると考えるしかない。
この世界は前世の日本よりも、科学が発展していないようである。灯はもっぱら蝋燭等の火を使ったものだ。うろつく中年女性の行動を見ている限り、一般人でも魔法は気軽に使えるようで、科学的な道具は必要ないのであろう。魔法というものがあるのなら、科学の発展が遅くなっても仕方あるまい。
記憶が戻ったというか、意識を取り戻したというか、取り敢えず『私』になって一ヶ月ほど経過した。赤子の体のせいか、いつでも眠いし夜だけ眠るわけでもない。しかし、精神的に赤子でないせいか、夜泣きや危ない行動などはしていない。そのため、私の世話係っぽい中年女性は尚更私を放置するようになっていた。早く立って歩きまわりたい。ベビーベッド上での世界には飽きた。
それよりも気になる事がある。親についてだ。こちらの世界とあちらの世界では生活様式も文化も違うのだが、首も据わらぬ生まれたばかりの赤子をここまで放置するものなのだろうか。一日に一回くらい顔を見に来ればいいのに。
部屋の状況からそれなりに金持ちの家であるということは分かる。中世ヨーロッパのように、乳母が育てなければならないようなものなのだろうか。それにしても、中年女性は私への接し方が適当過ぎる。これはあれか、ネグレクトか。前世でよく聞く虐待の一つじゃないのかい。
と、言いたくはなるが言ってはいけない。中年女性がいないときに声を出してみたのだが、割と喋れることが発覚した。究極の舌っ足らずだし、歯がないせいかもごもごしているのだが、いけそうな気がしてしまった。ただでさえネグレクト気味な親だ。奇怪な赤子であるばれた場合、捨てられる可能性がある。せめてここの世界的常識などを学んでからにすべきだ。
そんなバブバブな生活を続けていたある日、私の元にどこか見覚えのある強烈な女性が現れた。リアルに扉をバーンと開ける人を見たのは前世含めて二人目である。くすんだ金髪をぎちぎちに編み上げ宝石を散らばらせた頭に、化粧していますと分かりやすいほどべったりと塗られた化粧。己の攻撃性を示すかの如く尖らせた爪には、重くて爪が外れるんじゃないかというくらい飾り付けられている。目に痛い程きついローズピンクのドレスには、これまら宝石やら高級そうな刺繍やらが散りばめられ、耳やら首やらのアクセサリーは言わずもがな。重そうである。
「さあ、行くわよ」
「お、奥様!?」
「あら、マーサ。まだ準備をしていなかったの?」
「じゅ、準備とはいったい……」
「何ってあれの誕生日パーティーに決まっているじゃない。まさか、忘れたとは言わないわよね?」
マーサと呼ばれた中年女性は絶句している。どうやら、忘れていたらしい。そうか、今日が私の誕生日なのね、お誕生日おめでとう私。
「そう、忘れていたのね。じゃあ、貴女はもういらないわ」
「奥様!! どうかご容赦を!」
「そういえばまだ借金が残っていたわね。売れるか分からないけれど娘共々奴隷にしましょう。クリス、クリストファー!」
マーサが私の母と思わしきどぎつい女性に縋り付く。縋りつくくらいなら、もっと真面目に私を世話すればよかったのに。今更言っても仕様がないし、言うつもりもない。母がきんきんしとした声で横文字の名前を呼ぶ。普通赤子の前でそんな絶叫しないと思うのですが。真っ赤な口紅が引かれた唇を吊り上げ、笑う母。
「借金があるからと、折角働かせてあげたのに。自分の世話する子供の誕生日も覚えられないなんて、使えないゴミ女だわ」
一理ある、と言いたくなってしまった。いやまあ、誕生パーティーするくらいなら、前もって連絡しなよとも言いたくなるけど。
「お呼びでしょうか、奥様」
そう言って入ってきたのは、赤茶色の髪の燕尾服を着たイケメンであった。肌は白く、鼻は高い。ライムグリーンの瞳は、優しげに煌めいていた。その男性を見た瞬間、母は黒い瞳をうっとりと涙で滲ませ、くねくねと男性に擦り寄る。ちょ、子供の目の前で浮気とかやめてほしいんだけど。どうやら30歳ぐらいの母と20歳になるかならないかの男性は所謂夫の目を盗んであれな関係らしい。男性は優しく母の肩を撫で、
「美しい奥様、いかがなさいました?」
と、発言した。いやまあ、確かにそこそこ美人だよこの母は。君には負けるかもだけど。
「クリス! 聞いてくださる? マーサが私の可愛い子供の誕生日を忘れていたのよ! 乳母として失格じゃないかしら?」
「おやおや」
クリスと呼ばれたイケメンは、母を軽く抱きしめ、マーサに視線を寄越す。その時、私は見てしまったのだ。クリスがにやりと、意地悪そうに笑う瞬間を。これはただ優しい母の浮気相手というわけではないと気付いてしまった瞬間である。1歳にして母の浮気相手に心配をしなければならないなんて、なんという悲劇。
「だから、奴隷にしてしまいましょう!」
「それはいい考えですね。旦那様には私から言っておきます。マーサ母娘は使い物にならない、とね」
最早目だけではなく、口端も歪めながらクリスは言う。もう少しポーカーフェイスを学んだほうがいいんじゃないかと思った瞬間でした。
「お願いします! お願いします! どうかご慈悲を!」
「クリス、あの子はもう少し準備に時間がかかるらしいの。だから、ね」
「悪い奥様ですね。私は好みですが」
おい、母が抱き着いているのをいいことに、表情筋の休憩に入るんじゃない。顔が「嘘ですよー」って言ってますけど。こんなあからさまな男に惚れられていると思っている母って、馬鹿なのかもしれない。
「娘だけでもいいんです!! お願いします!!」
「うるっさいわね! 邪魔よ!」
どすっと鈍い音を立てて母親のとんがっている靴がマーサの鳩尾に直撃する。マーサはごふっと息を吐き出し、そのまま嘔吐してしまった。特有のつんした匂いが部屋に広がる。
「きゃあっ!! 汚いわね! この屑! 臭いし汚いし、うるさい! 決めたわ。このゴミ女、あの狂った魔術師に売っておしまい!」
「良いのですか? あの男は狂っていますが、王宮勤めですよ。またばれそうになってしまうかも」
「構うものですか! 今度そんなことになったら2度と売らないと言ってるもの。それにばれかけても、金を握らせれば問題ないわ」
「御意に」
「いやあああっ!!」
苦しそうにごほごほと咳き込んでいたマーサの髪を鷲掴みにし、クリスはにこやかに母へ笑い掛ける。母は臭くて堪らないと言った様にごてごてとした扇子で鼻の付近を仰いだ。クリスはと言えば、顔は歪めなかったものの、鼻呼吸を止めているのか少し鼻声だ。やはり、色々と残念である。そのまま、騒がしい3人は子供部屋を出て行った。おい、赤子を嘔吐物と共に置いて行くなよ。
なんだかんだ数分後に来た侍女に私は連れ出され、隣部屋に連れて行かれた。どうやら、衣裳部屋の様だ。これまた母の好み一色だ。目に痛い原色ドレスに下品なくらいぎらつかせた宝石っぽい飾り。これを着るのかと思うとげんなりとする。どうせ、私は好みなんて言えないし、大人しく侍女の着せ替え人形になっていよう。侍女は手慣れているのか、さっさと私を飾り付ける。やはりくっそ重いです、これ。子供に着せるもんじゃないだろう。首だって据わりたてだぞ。私は現実逃避するために、先程のことについて思考を巡らせた。
どうやら、この世界には奴隷という存在はあるが、非合法のようである。そこら辺は前世の世界と同じように、黙認なのだろう。上にいる人というものは、支配欲が強いものだ。自分の子供をあれ呼ばわりする程だから、いい人間というものじゃあないのだろう。どうやら、積極的に人身売買に手を出しているようだし。人体実験用と分かっていて相手に売るのだ、寧ろ悪い人間だ。とはいえ、生後1年の赤子である私がどうこう出来る問題ではないし、自分の世話を適当にしていたような人間を助けたいと思うほど私もいい人間ではない。人身売買があるというのはいいことではないが、前世の社畜と大して変わらないのではないかと思う。まあ、あちらはあってもリストラ程度だが。
完成した着せ替え人形の私は、侍女に抱えられて広い屋敷を移動した。いろいろ見て回りたいところだが、今首を回したら首が落ちる、確実に。ティアラなのかなんなのか、頭に乗っているようだ。これは子供につけるものではない、と声を大にして言いたい。
侍女はごてごてとした扉の前で、背筋を伸ばす。緊張しているのか、怯えているのか、手が細かく震えていた。どうやら、ここで働いている人達は皆死に直面しているらしい。粗相をしたらすぐ奴隷なのだろう。母の様子から、慣れていそうだ。
侍女がノックをすると、奥から先程のクリスという男の声が聞こえた。先程はきっちり締めていたネクタイが緩められ、鎖骨が露わになっている。この1時間もしない間に何をしていたのか。ナニまでやっていたのか。早いのか。
「奥様に似て可愛らしい子がいらしていますよ」
いや、目が思いっきり笑っていますから。服に着せられているどころか、圧し掛かられていると言いたいのでしょう。私にも分かりますから。笑ったら立ち上がれた時に急所へ頭突きしてやる。
「もう来たのお。あと1時間くらいよかったのにい」
ねっとりとクリスに凭れかかる母が苛々したように私へ視線を向ける。私の誕生パーティーではないのか、母よ。浮気なぞいつでも出来るでしょうが。
「お客様もそろそろ待ちきれなくなりますよ」
「それもそうねえ」
乱れた化粧を侍女に直されながら、母は言う。気だるげでも色気がないのは年齢のせいなのか、本人のせいなのか。よくこれに反応するよな、クリス。頑張ってると思うよ。そこで私は思ったのだ。私、母の前で子供っぽいことしてなくないか、と。
「ばーぶー!」
気分は某魚介家族番組の子供の餓鬼その2である。にぱっと笑みを浮かべ、赤子アピールばぶばぶを繰り出しつつ、母にまるっとした腕を突き出す。ママ大好きだぜ攻撃。母はきょとんと私を見つめる。私はふくふくとした頬を頑張って吊り上げ、手をバタバタと振る。硬直している母を暫く眺め、頬の筋肉が痛くなってきたらだんだんと目を潤ませる。相手してくれないからぐずってやるぜ攻撃へと移行。
「おやおや、お嬢様は奥様の事がお好きなようですね。母親のことはすぐに分かるのでしょうか」
普通だったら初対面の赤子がすぐに懐くわけないでしょ馬鹿と言いたいが言わない。私はえっぐえっぐと泣き真似で精いっぱいなのだ。母は仕方なさそうに私を抱き上げる。私はきゃっきゃっと笑いながら、母に抱き着く。ドレスに皺を作らない様、宝石を取らない様、場所には注意する。たまに母を見上げてにぱっと笑いながら、私は決意した。猫を被って庇護を得ようと。
こうして私の第二の人生、嘘をつかねば生きていけない人生が始まったのである。
「ばぶばー」
6/17 17:25 一部訂正
6/21 17:05 一部訂正