閑話4 リモネの回想録2
ほんのちょっと女性蔑視の表現が出ます。
屋敷の長い長い廊下を走る。信じたくなかった。私はあのまま捨てられる筈だった。なのに、ファーガスに助けられた。それがどうしようもなく悔しく、同時に捨てきれないプライドを傷つけた。馬鹿にして、あの男に売ろうとした私を、ファーガスは救ったのだ。
どんな取引があったか知らない。知りたくない。でも、きっと簡単なことではない。あの娘の事だ。それこそ、無茶な要求をしたに違いない。
無我夢中で走っていたら、どしんと何かに当たった。そのまま、尻もちをつく。ぶつけたお尻と顔が痛かった。
「リモネ?」
目の前にいたのは、使用人の服を着たファーガスだった。肩には、何やら赤い鳥を乗せている。
「……ファーガス」
「何かあったのか?」
心配そうに見下ろすファーガスは、私に手を差し出してきた。それが、娘との会話を思い出させ、私は顔を顰める。ファーガスの手を借りず、立ち上がった。怒りが湧き上がる。
「貴方、余計なお願いをあの娘にした様ね」
「ああー、まあな」
ぽりぽりと照れたように頬を掻くファーガス。そんな素直な態度に苛立ちが募る。ファーガスも、あの娘のように私の馬鹿にしているのかと思っていた。違うとしても、嫌な気分になる。
「どうして……どうして余計な事をっ」
「だって家族じゃないか」
「かっ」
ストレートなその言葉に、私は思わず言葉を詰まらせる。信じられない。
家族ですって! この奴隷生活の中で家族ですって!
「それに、リモネは俺の母親に似てるんだよなあ。あんな風になってほしくなくて」
「……母親?」
ファーガスの家族の話を聞くのは初めてだった。他の子たちとも、身の上話はしたことがない。タブーだと、思っていたから。
「そう。あの男に復讐するって言って、結果失敗して醜く縋ってたんだ。リモネには、そんな風になってほしくねえんだよ」
ぞわりと体が震える。ファーガスの目に、冷たい光が宿ったからだ。いつものファーガスらしくないその目は、どうしてか私を落ち着かなくさせた。
「し、失礼ね。私がそんな事するわけないじゃない!」
「いいんだよ、俺の独りよがりだから。母親の事はどうしても好きになれなかった。でも、ミリアーナもディメトリも、アンドリューもリモネも家族だと思える。俺にとって、初めての家族だと言ってもいい……って、いててて! いてぇよサンディ!」
冷たい光を消し、ふっと笑いながら言うファーガスを、肩に乗った赤い鳥がこれでもかと突く。臭い事を言うなと言わんばかりだ。暫くして満足そうに胸を膨らませる赤い鳥に、疲れた様にファーガスが溜息を吐いた。
「……私には理解出来ないわ。家族だなんて、そんなの信じない」
「信じなくていいよ。これは俺の問題だ」
「っどうして、あんな娘の元でそんな風にしていられるの!? 私達を奴隷にした張本人じゃない」
「確かに奴隷にされた。でも、それは俺達が馬鹿だったからだ」
ファーガスの言葉に息を呑む。あっさりと自分が馬鹿であると認められる事が、酷く羨ましかった。
「俺達は馬鹿だった。本当の父親に引き取ってもらうと言われ、道端での生活から抜け出せると思って、この屋敷に来た。でも、そんな簡単に庶民が貴族の仲間入りなんてできない。あの男が如何に悪い奴か、知っているつもりだったのに警戒せず飛び込んだ。その結果が奴隷だ」
「そんなの、あの娘に従う理由じゃないわ」
「簡単だ。ご主人様に従うしか、俺達には道がない」
その顔は、真剣そのものだ。いつも和気藹藹と訓練をして、仲良く仕事をしているファーガス達。娘が見せ掛けの希望でも見せているのかと思っていた。でも、違う。ファーガスは、現状を認めているんだ。
「ご主人様には、道端では得られない技術と知識をもらった。ギルドに通っていて思うんだ。あいつは適当な事ばかり言っているが、少なくとも生きていけるだけの術をくれるという事に嘘はない。それに、俺達は奴隷だ。あいつの望む通りに動かなければ、命の保証はない」
「な、何よ。あんな娘が私達の命を握っているとでも言うの」
「リモネは聞いてないんだな」
「え?」
「奴隷として契約し、反抗した奴の末路だよ」
ファーガスは、遠い目でどこかを見ていた。奴隷の末路。私の中では、この屋敷からもっと性格の悪い奴ところへ連れて行かれる事だと思っていた。話では聞いている。人体実験や、悪趣味な性癖の相手、暴力に酔った権力者の玩具、過酷な労働。それがあの夫婦が語る奴隷の生活だった。でも、その末路は?
「死ぬんだよ」
「死ぬ?」
「主人にもよるだろうが、死ぬんだ。奴隷の契約は、主人がそう命令するだけで命を奪える契約だ。俺達の命は娘が握っている。それも知らないのか」
奴隷とは、立場の事だと思っていた。この首の証も、奴隷であるという証であり、罰を与えるものだと。でも、それよりもずっと重い意味があった。
「私、死ぬの」
「死なない様に、俺がおねだりしてんだ。どうなるかは、分からないけど。まあ、ご主人様なら大丈夫じゃねーの」
「どうしてあの娘を信じる事が出来るのよ」
「信じるしかないってのもあるけど、そう簡単に俺らを捨てないと思うぜ。これは勘。それに、あいつも何か放っておけないんだよなあ」
「放っておけない?」
「ご主人様って、何でも知っているような感じがするけど、実際はそうでもないんだよ。この前お忍びで買い物に行った時なんか商人にぼったくられそうになってたり、変な気持ち悪い人形買ってたり、日用雑貨を知らなかったり」
「日用雑貨?」
「庶民が使うもんだから、貴族のあいつが知らないのも仕方ないんだが、ご主人様にとって外の世界は未知なもので溢れているらしい」
ファーガスが困った様に頬を掻く。いまいち私は理解出来ない。それは、私が貴族だったからだろうか。でも、弱小貴族だったから庶民が買い物する様なところで買い物をしていた。
「貴族の娘だものね」
「狭い世界しか知らない、とも言っていたな」
私が娘の元にいた3年の間、娘が外出する事はほとんどなかった。夫婦がしている遊びが子供に見せる様なものではない、というのもあるが、あれだけ愛でている割には連れ回さないでいたように思う。今は社交界に引っ張り回しているようだが。
外を、知らないの?
それが、あの娘が言いたかった事なのだろうか。
「何だか嫌いになれないんだよなー。まあ、嫌いになるよりはいいんだろうけど。じゃあ、俺行くよ」
そう言って、ファーガスはどこかへ歩いて行った。ファーガスは、まるで我が儘な妹に対する寛容な兄の様な微笑みを浮かべていた。仕方がないと言いたげな、はにかむような笑顔。
どうして、なのだろう。私と、ファーガス達の温度差。私にとって奴隷の生活は、熱せられた鉄板の上にいる様なもの。でも、ファーガス達にとってはそれほど熱くないみたい。幾分か快適そうに過ごしている。
娘を信用するしかない。
それは、確かにそうなのかもしれないと思った。私達が、他の誰を信用出来ると言うのか。夫婦の使用人となって、他の使用人は誰かを生贄にしてでも、自分は助かろうという者ばかりを見てきた。落されて当たり前の日常だった。
でも、娘の元では娘のためになる様、皆教育されていた。真面目にやってこなかった私でも、直接落とされたりはしていない。娘は、落とされるだろうと夫婦の使用人にしたようだけれど。
今更、だった。
今になってその事に気付くなんて、遅すぎる。私だけが辛い目にあった訳ではない。ファーガスも、きっとディメトリもミリアーナも、何かしらあって今ここにいる。
私は何も見ていなかった。何も知ろうとしなかった。少なくとも、ファーガス達の話くらい聞けばよかったんだ。そうすれば、私だけが不幸だったと思わなかっただろう。
それこそ、私の蒼い目から目を逸らしてきた両親の様に。
「おい、女」
唐突に、背後から声が掛けられた。はっとして振り返れば、見たこともない様な若い男がいる。私と同い年ぐらいか、少し上だろう。厭らしい笑みを浮かべた男は、高級そうな服を身につけている。恐らく、貴族。
私は腰を落とし、礼をとった。
「顔を上げろ。許す」
男の言葉に、私はゆっくりと顔を上げた。若い男は、私の顎を掴んでまじまじと見つめる。顔から全身に視線が移れば、まるで舐められるように見つめられた。気持ちが悪い、男だった。
「うん、スタイルも申し分ないな。よし、お前を買い取ろう」
「は?」
思わず口から言葉が漏れた。突然現れ、何を言っているのだろう。私の言葉に、若い男は厭らしそうな笑みを消し、馬鹿な奴と言わんばかりの顔になった。
「だから、俺様が哀れなお前を奴隷として買ってやると言っているんだ。そんな事も分からないのか。流石はここで働いているだけあるな」
ぞっとしたのは、この男が私を奴隷として買おうとしているからか、その先を考えてか。
私は思わず後ずさる。若い男は、楽しげに私に近付いてきた。
「嬉しいだろう? 俺様に買われるなんて」
嬉しい訳がない。どうして、あの男が売ったというの。いやでも、この屋敷の使用人は皆、奴隷になる運命。この使用人の服を着ていれば、それだけで商品であるという証になる。
この若い男は、奴隷を買いにこの屋敷に来たのか。
がしっと二の腕を掴まれる。握られるそこは、それほど力を込められているわけではなかったがとても痛く感じた。
「あらあら。わたくしの奴隷に何かご用かしら」
また背後から声がする。笑みを含んだような声に、どうしてか、安堵している自分がいた。
「これはこれはイザベラ嬢ではありませんか」
「まあ、どこかでお会いしまして? 申し訳ありませんが覚えがありませんの」
ぎりっと私を掴む手に力が増した。男を見上げれば、表情を取り繕っているものの、怒りからか米神がぴくぴくしていた。
「コナー・ロンブスです。先日、夜会でお会いしましたが」
「ロンブス男爵の息子さんでしたか。申し訳ありませんわ。顔に特徴のない方は、お召し物で覚えていたもので。どうやら夜会でないと分からない様ですわ」
「ははっ。それは、私が毎回同じ服装だと言いたげですね」
「まあ、そう聞こえてしまいましたか? そういうつもりはありませんの。ただ、皆さんでロンブス男爵の息子さんは、毎回似た特徴のお召し物ですのねという話をしていただけですから」
ぎりぎりと力が増していく。最早、コナーという男は笑みを浮かべていない。苛々した様な、怒ったような顔をしている。
「……気に入っている意匠なもので」
「それは素晴らしいですわね。毎回買うお金がないのではと皆さんで心配していましたの」
それは遠まわしに馬鹿にした言葉だった。とはいえ、男爵家が侯爵家に文句を言えるとは思えない。それが分かっているのか、コナーは何度かあからさまに深呼吸していた。二の腕を掴む手が、相変わらず強かったが。
「心配していただきありがとうございます」
「まあ。ロンブス男爵は父の大切なお友達ですもの。息子である貴方を心配するのは当たり前ですのよ」
ふふふと笑う娘に、コナーは堅い笑みを返す。
「本日は我が屋敷にお越しいただけると聞いておりますが」
「ええ、ええ、そうですの! 楽しみですわ。わたくし、男爵家というのは初めてでして。公爵家や伯爵家ばかりしか行かないもので」
「是非、ご覧になってください。イザベラ嬢のお目に敵うか分かりませんが、自慢の屋敷ですので」
「期待しておりますわ。で、そちらの女の事なのですが」
娘の目が私に向けられる。それは、どうしてか笑みを含んでいた。売られそうな私に、何て目を向けるのだろう。悲しくなってくる。
「ああ、こいつですか。見目が気に入ったので買い取ろうかと」
「申し訳ありませんが、それはわたくしの奴隷ですの。お売りする事は出来かねますわ」
「そう言わずに。いくらでも払いますよ」
再び厭らしい笑みを浮かべたコナーが私の肩にもう片方の手を置く。鳥肌が立ちそうだった。感情を読み取らせない様、ポーカーフェイスを維持する。維持できているかは疑問だけれど。
娘は手に持っていた扇子をくるくると回しながら、手元を見詰めている。私を売るかどうか、悩んでいるのだろうか。……売られても、仕方がない。私は、反抗し過ぎたのだから。
「彼女はわたくしのメイドになるべく教育させてきましたの。ここの奴隷間際の使用人と違いますわ。売り物ではありません」
「しかし、奴隷よりもきちんとした使用人の方がよいのは? イザベラ嬢ならばプロの使用人の方がお似合いですよ」
「わたくしの好みに合うよう躾けております。それは出来上がった使用人よりも私の好みを知っているでしょうね。今更新しく躾けるのも面倒ですわ」
「しかし、このメイド服は奴隷として売り物であるという証ではありませんか?」
娘は暫く考えるよう目を伏せ、扇子を開いて口元を隠した。重そうなイヤリングがゆらりと揺れる。
「申し訳ありませんが、両親の商売については全く存じて居りませんの。そういう仕組みだとは知りませんでしたわ。教えていただき、感謝いたします。服装には気をつけますわ」
「いやいやそんな、まだ商売に手を出す年齢ではないでしょう。ましてやイザベラ嬢は女性です。商売に手を出す事もありますまい。女性ならば、静かに男を立てることが仕事ですからね」
にやにやと笑いながら、馬鹿にするように言うコナー。それは娘の言葉が過ぎると言いたいのだろう。先程の仕返しのつもりだろうか。
「ロンブス男爵の息子である貴方が、そんな古い考えをお持ちだなんて驚きですわ。先進的なお父上とは違う考えですのね」
「女性の扱い方に関しては、父も私も変わりませんよ」
「まあ、では商売に関わっているわたくしの母も、間違った事をしているとおっしゃるのね。ロンブス男爵も、貴方も」
あからさまに驚いた様に目を見開く娘。扇子で口元を隠しているが、明らかに口端が上がっているのが見えた。コナーは、侯爵夫人に対して文句があるのだと、言ってしまった事になる。苦虫を噛み潰したような顔になっていた。それに、イザベラは満足げに微笑む。
「いやはや、一般論でありますから。トリステン夫人は素晴らしい才能ある女性ですので、例外ですよ。商売くらい簡単にこなしておりますよ」
「それはありがたいお言葉ですわ」
「して、この女の売買契約ですが」
「売らない、と申しましたが」
「しかし、この娘は売り物である証を着ております。知らなかったとはいえ、この服を着ていれば皆商品。いくら娘であるイザベラ嬢でも、お父上の意向には逆らえないでしょう」
目の前が真っ暗になりそうだった。薄汚いメイド服。これを着ているという事は、売り物である証。そう言えば、マリアやクリストファーは他の使用人と違った服を着ていた。彼女達はいくら人前に出ても、売られる事はないのだ。
娘はくすりと笑みを漏らすと、比較的小さい眼を細めて言った。
「わたくし、お父様に愛されておりますの」
「存じております」
「では、貴方は父にこの女を買いたいと提案してくださいな。わたくしは、売りたくないと申しましょう。この女は奴隷契約で縛られておりますの。これの主人はわたくしですのよ。父はどうやってわたくしから奴隷を奪うのでしょうね。その前に、わたくしに嫌われると分かっていて売る程、貴方は父にとって大切なお相手でしょうか。試してみるのも、また一興でしょう」
コナーの顔が歪む。娘よりも自分が優先されるとは考えられないようだ。憎々しげに娘を睨む。娘はどうかといわんばかりに首を傾げた。首元にある大ぶりな宝石が輝く。
「しかし、ここは奴隷を売る場所でしょう」
「奴隷の売人が、奴隷を所持してはいけないと?」
「っ売り物であると示しているのに、買おうとすれば売れないというのは、信用がなくなりますよ」
「わたくしは売らないと申しましたわ」
ぱちんと扇子を閉じる娘。その目は、冷やかにコナーを見ていた。邪魔だと言いたげに扇子を手の中で弄ぶ。
「しかしっ」
「侯爵家の娘である、わたくしが売らないと申しましたの。男爵家である貴方が、それを覆せるとでも?」
コナーが押し黙る。この国は上下関係に厳しい。男爵家如きが、侯爵家に逆らうなと、娘は言っているのだ。苛立たしげにコナーは舌打ちをして、私の腕をぎりぎりと握る。
「売り物なら他にたくさんあるでしょう。わざわざ、わたくしが所持し、売らないといった奴隷に手を出す必要がありまして? 権力に逆らってまでこれが欲しいといいますの?」
舌打ちについては責めず、訥々と娘は言う。その言葉には、何の感情も見えなかった。まるで、台本を読んでいるかのようだった。
コナーはやっと諦めたのか、再び舌打ちをして私を押し退けて歩いて行った。苛立ちを隠そうとせず、どすどすと足音を立てて去って行く。
「器の小さい男」
馬鹿にしたような響きが、そこにはあった。
「あんた、どうして……」
「ファーグと約束したもの。でも、助けるのはこれで最後よ」
「……私が馬鹿だった。自分が、どれだけ恵まれた環境であるか、分かっていなかった」
私は、懺悔するように言った。先程の、売られる恐怖からかするりと言葉が口から洩れる。もう後悔したくない。
「そう。よかったわね」
「私は、私は、どうしたらいいの。間違っていたのは分かった。でも、そこからどうしていいのか分からないの」
復讐を諦めた訳ではない。でも、どうでもいいプライドは捨てる事にした。娘はあの男の血を引いている。私もファーガスも他の子たちも、あの男の血を引いている。
ファーガスが言っていた通り、私達には半分だけでも血の繋がりがある。私はまだ家族だとは思いきれないけれど、血の繋がりがあるのは事実。
今度は間違えたくなかった。見ぬふりも、知らぬふりもしたくなかった。もう、父や母の様な間違いはしない。私はこの娘に、イザベラによって生かされている。それには報いなければならない。
「好きにしたらいいんじゃない」
「え?」
「聞けば全て答えをもらえるなんて思わない事ね。貴女がどうすればいいかなんて、答えは貴女の中にしかないわ。誰かに言われた事をやって、失敗すればその人のせいにでもするつもり? 自分でお決めなさい。奴隷だからって、命令だけ聞いていればいいわけじゃないわ」
ずしんと心が重くなった気がした。私がこれまでやってきた事が否定されている。それでも、仕方がない。私は学ばなかった。今度は、学んでいかなければならない。
「学ぶわ。今度こそ、貴女の望むように。貴女の手駒になってあげる。だから、その、また戻ってもいい、ですか」
俯きながら、そう言う。凄く恥ずかしかった。結局私は何もできなかったのだ。夫婦の使用人として働く事になった時、復讐してやると思ってきた。復讐出来ると思っていた。私は何も出来なかった。復讐の目途も立たず、ファーガスを売りそうになっただけ。今更虫のいい話だって事は分かっていた。でも、戻れるなら。
「あら、駄目よ」
「えっ」
イザベラの言葉で、私は目を見開いた。どこかで、イザベラなら許してくれると思っていたのか。ふらふらと足から力が抜けていく。ファーガスは嘘つきだ。イザベラなら、私たちを簡単に捨てないと言ったのに。許されないことをしてしまったのだろうか。
「貴女はその仕事場を望んだのよ。自分での発言は責任を持たなければ。前の仕事場の方が楽だったから、そっちに戻りたいだなんて我が儘が通用すると思っているの?」
嘲笑を浮かべたイザベラは、目を細めて言った。思わずとすんと尻餅をつく。何を期待していたというのだろう。そうだ、そんなうまい話がない。後悔したって遅い。私が選んだのだ。この道を。知らずに選んだ結果だった。
「でも、そうね。学ぶ意思があるのなら、爺に話しておきましょう。父や母が起きてくるまで、午前中はこちらで教育をする事にしましょう」
「い、いいの!?」
思わず立ち上がる。嬉しさが湧いてきた。これは、家族を亡くして初めての感情だった。久しぶりの感情に、頭がくらくらしそうだ。
「やる気があるなら構わないわ。それが私のためになる。というよりも、やってほしいことがあるのよねえ」
にやにやとした笑みを浮かべるイザベラは、あのコナーと言う男を連想させた。何やら、よからぬ事を考えていそうだった。
「やってほしい事って?」
「奴隷売買の証拠を見付けなさい」
それはまさに、目が点になりそうだった。
「は?」
「裏帳簿と顧客リスト、他にも証拠はあればあるだけいいわ」
「ちょ、ちょっと待って! 一体何をするつもりなの?」
「復讐、したいんでしょう?」
にやあと笑みを深めるイザベラに、私は思わず後ずさる。小さいと思っていた口が、にいっと横に広がった。
「私、いつかは気持ち悪いおじいさんに嫁がなければならないの。そんなの、許せないわ。だから、両親と交渉出来る材料が欲しいのよ。必要があれば、それを公表するわ。そうすれば、トリステン家はおしまい。貴女の望むとおりでしょう?」
ねっとりとした口調で囁かれる。信じられなかった。イザベラが家を潰しても構わないと思っているなんて。何を考えているのか、全く分からないと思っていたが、それは流石に予想外だった。
そんな、危険な橋を渡らなければならないなんて。
でも。
「私に拒否権はないんでしょ」
「あら、よく分かっているじゃない」
そう、私に拒否権はない。全力で、イザベラの望みを叶えるのみ。
「情報の選別方法、相手に取り入る方法、不審がられずに行動する方法、それを学べばいいわ。必要であれば爺に教えを請いなさい。彼は有能な人材よ。きっと力になってくれるわ」
「分かったわ」
「それじゃあ、行きましょう」
イザベラが言う。私は首を傾げた。
「どこに?」
「マリアのところよ」
「これはイザベラお嬢様。どうかいたしましたか?」
マリアはにこにこと笑みを浮かべている。私や使用人に対する時とは正反対の顔だ。優しげな笑顔のメイド。それがマリアの立ち位置だった。
「これから午前中は私の元で働いてもらうわ。それに部屋も私専用の使用人のものに戻すから」
「それは何故でしょう……?」
「あら、私が自分の奴隷をどう使うか、貴女に問題でも?」
「いえっ! そういう訳では」
イザベラがにんまりと笑う。疑いながらも媚を売るマリアを楽しむように、笑っていた。
「そうそう、それから貴女の管理責任を母に問おうと思うの」
「え!?」
マリアの表情が固まる。彼女だって確かな足場に立っている訳ではない。下手な刺激をすれば、崩れ落ちる危機がある。その恐怖は、私にも分かった。
「私、自分が如何に奴隷の教育が上手いか、それを両親に見てほしくてモネをこちらに置いたのよ。それなのに、随分な扱いを受けている様ね」
その言葉で、私がどんな環境にいたか知っているのだと気付いた。私は奴隷だから、使用人は好き勝手に出来る。見えるところに傷はないものの、服の下には痣がたくさんあった。
「しかし、彼女は奴隷です。使用人よりも立場は低いので、私は何も言えません」
「そう。貴女は私の所有物が傷付けられても、使用人は悪くないと庇うのね」
「そ、それはっ!」
「母の部屋の調度品を壊したり、服を破いたり、父の葉巻を落としたり、部屋を汚したりすれば奴隷にされるのに、私の所有する奴隷に傷を付けて、それを見過ごせというの。私は貴女にとって、侯爵家の娘ではないのね」
「ちちちち違います、お嬢様! け、決して、決してそのような事は」
「私は使える道具としてモネを貸しているの。その性能が下がる様な事をして、お父様やお母様が私を嫌いになったらどうしてくれるの? どう責任をとってくれるの? 私はあくまで私の道具としてモネを貸しているのよ。こんな使える道具があるのだと、お父様やお母様にお見せしたいの。その邪魔を、貴女はしていたのね」
「も、申し訳ありません! どうか、どうかお許しを!」
「貴女がどういうつもりか分からないけど、私は貴女に道具を貸しているの。使いはしても傷付ける事は許可していない。モネは奴隷よ。使用人よりも地位は低い。でもね、私の所有物なのよ。貴女は使用人が侯爵家の娘である私の所有物をよってたかって傷付けている事を許した」
「私は、私はっ」
「それに、私は知っているのよ」
「え?」
「クリストファーと仲良くするのは結構だけれど、それが母に知られたらどうなる事かしら」
マリアが膝から崩れ落ちる。驚いてマリアを見れば、わなわなと唇を震わせていた。顔は真っ青になり、汗が滲んでいる。その姿はイザベラが言っていることが、真実だと告げていた。まさか、マリアがクリストファーと出来ていたなんて。
「証拠なんてないけれど、母が私の言葉を信じないとでも? 母がどれだけクリストファーにご執心か知らない筈ないわよねえ」
「……大変申し訳ありませんでした」
マリアは額を絨毯に擦り付ける。肩はびくびくと震えていて、その声は泣いているようでもあった。マリアも必死だったのだ。生き残ろうと、プライドを捨て、他の人を蹴落として生きてきた。
「母に捨てられたくないのなら、クリストファーの甘言に酔わなければよかったのにねえ」
「何でもします。何でもしますから、どうか、どうかお助けください」
イザベラはゆらゆらと歩きながら、馬鹿にした様に言う。それに対し、マリアは許しを乞うていた。イザベラは何がしたいのだろうか。マリアを責めて、脅して。
「そう、ではチャンスを上げましょう」
がばっと顔を上げるマリア。その顔は、舞い降りた救いに輝いていた。その一方で、口元が歪んでいる。そこで思い出した。マリアはイザベラを馬鹿にしていた。平凡以下の見目の使用人ばかり、自分の使用人にするイザベラ。それは、両親に媚を売っているんだと言っていた。使用人たちはイザベラの元のいい環境を噂で知り、イザベラの使用人になりたいと希望している。それを知っているマリアは、イザベラが使用人に甘いと思っているようだ。奴隷になる人達を可哀想と思う一方、両親には逆らえない哀れな娘だと。
その妬みもあるのだろうか、あの暴力には。
「午後からは今まで通りモネを貸し出すわ。今度はちゃんと、性能を下げない様努力なさい。モネ、貴女自身の能力が満足に出せない環境になったなら、貴女の口から母に言いなさい」
「え?」
私が思わず聞き返せば、イザベラは冷やかな笑みを浮かべてマリアを見下ろしていた。
「もしも性能を落とされる様な事があれば、母にクリストファーとマリアの事を告げる事を許可します。というより、命令するわ。マリア、貴女は自分よりも地位の低いモネの機嫌を伺いながら、これからは生活していく事ね」
マリアが私を見上げる。その目には、屈辱だとありありと書いてあった。イザベラに視線を移せば、強い眼差しで貫かれる。その意味を受け取った私は、嘲笑を浮かべてマリアを見下ろした。
これはきっと、私が動きやすいようにするためのものだ。私の方が優位に立っていると示さなければならない。私の仕事は、この生活の中で犯罪の証拠を見付けだす事。それを使うか使わないかはイザベラの自由。ただ、少なくともあの男は娘に脅されるか、トリステン家を潰されるかされる。それでいいと思えてきた。
復讐は復讐だ。でも、私も前に進まなければならない。知らなければならない。私だけが苦しんでいる訳じゃない。もっと酷い人だって、たくさんいる。使用人を見ていればそれくらい分かったのに。
見ていなかった。知ろうとしなかった。もっと見るんだ。この屋敷が、どれだけ異常かと言う事を。
マリアだけではない。私だって、チャンスを与えられた。理不尽な暴力が減るだけでも、仕事がしやすい。それに、些か変な行動をとってもマリアは告発しないだろう。あの女の事だ。マリアとイザベラのどちらを信じるか、どうなるか分からない。それは、マリアでも分かっている。
学ばなければならない。知らなければならない。
あの男はもちろん、悪い奴だった。でも、あの男だけが悪いわけじゃない。夫がいないのに簡単に屋敷に上げた母も悪かった。不審な蒼い目を疑わなかった父も悪かった。父と母の言葉を鵜呑みにしていた私も悪かった。偽物の幸せは、いつかは壊れる。酷い形で、壊れる。偽物の幸せで満足していた、私達家族が招いた悲劇でもあった。人のせいばかりにして、私は逃げていたのだ。
私は、変わらなければいけない。
私は奴隷として生き残る。
お読みくださりありがとうございました。