閑話1 ファーガスの活動報告
薄暗い視界の中で、俺はテレンスさんの後について歩いていた。彼は、ご主人様の前以外ではとても機敏だ。大人と子供の差もあるのだろうが、彼が普通に歩いているように見えても、俺は小走りでなければ追いつけない。俺の速度に合わせようと思わないのは、俺が奴隷だからか、そういう性格だからか。
「よろしいですか、ファーガス」
「何ですか?」
「お嬢様の考えている事は私にも読めません。急な決定など、よくある事です。我々は、お嬢様に救われた存在であり、お嬢様のために生きる事は決定しております。例え、訳の分からない命令でも従うのですよ」
「……分かってますよ。第一、俺に逆らう術はありませんから」
今は晒されていない、花の印を手で押さえる。これは、俺が馬鹿だったがために、庶民より下に落とされた証拠だ。見る人が見れば、奴隷契約で奴隷になったのだと分かってしまう。奴隷がギルドで働いていることはあることだとテレンスさんは言っていた。それでも隠す理由は、俺の所有者がばれてしまわない様にするためだ。
基本的にご主人様は何かする事を関わる人物以外に知られるのを嫌う。俺と同じ立場である下3人が、今何をしているのかは分からない。多分、特訓でもさせられているのだろう。
ご主人様は自分の使用人として、才能溢れる子供を育成しているのだと言っていた。それにしても、時間も金もかかるやり方だ。世の中には、十分訓練も積んだプロフェッショナルもいるのに。
「逆らう術があろうがなかろうが、お嬢様は我々の生命線となります。今まで外との接触があまりなかったお嬢様にとって、君を外の組織に所属させるのは賭けでしょう。唐突の命令や提案の意図は読めませんが、何か目的があるのだと私は踏んでいます」
「目的、ですか」
「お嬢様には、迷いがありません」
テレンスさんは足を動かしながらも、遠い目でどこかを見つめていた。俺には、ご主人様はもちろん訳が分からないが、テレンスさんもよく分からない。彼ほど有能な使用人が、貴族令嬢とはいえ8歳の子供についているのも謎だ。豚野郎とその妻についている、そして屋敷の使用人を取り仕切る執事長である、テレンスさんの息子は俺から見ても、有能とは言い難い。よくサボって煙草を吸っているのを見るし、仕事を他の奴に押し付けているのも見た。ただ、豚野郎の妻ににこにこしているだけの仕事、なのだろうか。
「確かに、いつも思い切っていますけど」
「今回のギルドに関しても、まるであることを知っているかのようでした」
「大人から聞いたんじゃないんですか」
「その可能性も皆無ではありませんが、お嬢様の周囲にいる大人がギルドに関心があるとは思えません。もちろん、私は教えていませんでした」
ふむ、と思案するように顎に手を当てながらも、その足は動き続ける。ギルドとやらへ向かっているのか、他のところに向かっているのかは分からない。
ギルドと言う存在は知っていた。庶民の中でも底辺の生活をしていた頃、周囲のどうしようもない悪餓鬼共はいつでも、成り上がりの夢を見ているものだ。孤児院にいる子供たちが幸せな家族に迎え入れられるように、実は貴族の落し胤で貴族の仲間入りするのだとか、ギルドで英雄になるのだとか。どちらも荒唐無稽な話ではあったが、後者の方が努力次第では叶えられる夢なのだと、今は思う。
昔は、才能もないがらくたどもが馬鹿なことを、と見下していたが、甘く見ていたのは俺自身だった。
俺の母親は商売女だった。酒を飲めばべらべらと自分の身の上話を話したがったので、あの女の半生は知っている。そこそこの商人の娘として産まれた女は、父親の野心で自分の3倍の年齢の貴族の爺と結婚させられた。その男は酷い男で、平民の女を貴族の仲間に入れてやったのだと、慈善事業なのだと、寝具の中で殴られながら言われたそうだ。
もうこんな生活は真っ平だと、甘やかして育てられた女は、実家に縋った。実家では、男の金と権力でより贅沢な生活をしており、幸せそうだったと憎たらしそうに吐き捨てていた。女が帰りたいと言っても、馬鹿な事を言うなと言うばかりで取り合わず、寧ろ男のもとへ送り返していたそうだ。
実家から強制的に送り返された夜は、殺されると思うくらいの暴力を浴び、その内実家に帰ろうという気はなくなった。
そんな時に出会ったのが、豚野郎である。
男の知人だった豚野郎は、暫くいい子にしていたためか、珍しく殴られていなかった顔を見たそうだ。20歳を過ぎたばかりの若さと、貴族の爺も手を出したくなる程の美貌である。あの豚野郎が目を付けない訳がなかった。
何かと男を訪ねてくるようになった豚野郎は、男のいない時間を狙って来るようになった。
夫人として仕方なく対応していた女は、厭らしく見つめる豚野郎に嫌悪を抱いていたらしい。
そんなある日、男が帰ってこない日の夜、豚野郎は女の元へ訪れた。
使用人どもは買収でもしていたのだろう。夫のいない夜に訪れる男など、警戒しないわけがない。会えと使用人に強要され、客間に向かえば、すぐさま豚野郎に襲われたそうだ。
一晩中相手をさせられたが、男と違い暴力を振らず、寧ろ優しく抱く豚野郎に、女は疲れ果てた心を委ねてしまった。だからなのか、男が帰ってこない日になると、豚野郎は頻繁に訪れるようになった。
妊娠に気付いたのは、そんな関係が続いて数カ月たった日の事だった。月のものが来ず、吐き気が酷いという自分の状態に、女は嫌な予感を抱いた。もし、予感が当たり、男にでも知られたら殺されるかもしれない。今度は、本当に。
命の危機を感じた女は逃げる事にした。豚野郎にそれを相談しようかと思ったが、産まれた子供を見せた方が早いと思った。そうすれば、金はもらえるかもしれないと。
逃げた女が落ち着いたのは、夜の商売をする街の裏側だった。男の屋敷から盗んできた金品で、数年は生活できたらしい。俺が物心ついた頃には、もう貧乏であった。
俺を使って豚野郎から金を引き出そうとしたそうなのだが、最早会えなかったのだと、ヒステリックに女は叫んでいた。見れば分かる程、俺は豚野郎の血を引いているのに。
『蒼の証』は公爵家の血筋を示すものだと、歪んだ笑顔を浮かべた女は時間があれば口にしていた。女の世迷いごとだと、誰も気にはしていなかった。会えば分かると言うのが、女の口癖だった。
生活する金がなくなれば、女は体を売った。俺を育てていたのは、いつか俺が貴族の仲間入りをすると信じていたからだ。貴族になったらあれをしたい、これをしたいと俺に向かって囁くのが、俺の子守歌代わりだった。
女は不健康そうな顔だったが、造形は美しかった。愛想がよければそこそこ豪華な暮らしが出来たろうに、と女が働いている店の女将は言っていた。女は結婚生活の鬱憤を晴らすかのように、傲慢な女王のような振る舞いをしていた。ゴミ溜めのような店に、そんな女を求める者は少ない。
俺は他の餓鬼共を馬鹿にしていた。俺の中には貴族の血が流れているのだと、それだけの理由で。実際は、流れていない方が嬉しい豚野郎の血だった。
俺は知らなかった。知ろうとしなかった。
目の前にある見たくない現実から目を逸らすために、夢という逃げ道に縋っていただけだったんだ。
豚野郎の親族だという男に連れられ、俺は豚野郎の屋敷に向かう事になった。自分も連れていけと縋る女は醜く、俺は舌打ちをしていたのを覚えている。造形は美しくとも、女は醜かった。これから貴族になる俺に、そんな女は不釣り合いだと思った。
『蒼の証』は公爵家の中でも貴重な存在。
そういう女の言葉を真に受けていた俺を驚かせたのは、俺の他にも4人の蒼い目を持つ子供がいたことだった。救いだったのが、俺はその中でも一番上の男だったと言う事だ。普通に行けば、俺が一番目の公爵家の後継ぎの候補になる筈だと、自信はあった。
連れられてきた屋敷は豪華で、これぞ貴族の屋敷というものだった。派手過ぎて好みではなかったが、貴族とはこういうものなのだろうと、俺は納得することにした。
そこに現れたのが、豚野郎とその妻、そしてご主人様である。
ご主人様は、唐突に現れた俺らと言う父親の不祥事に対して、驚いている様子はなかった。しかし、死んだ川魚を見る様な冷たい目で、豚野郎夫妻の言い争いを見ていた。暫くすれば、実りのない言い合いに飽きたのか、今度はじっくりと俺達を観察する。その目はまるで、馬小屋に繋がれた馬を見比べるような目だった。興味深そうに観察する訳でもなく、嫌悪を向けるわけでもなく、ただただ俺達を観察する。何かを確認するかのように。
このまま公爵家に引き取られると思い込んでいた俺は、そんな侯爵家の娘の不躾な視線にも動揺してはいけないと、そっぽを向いていた。しかし、公爵の言葉に俺は耳を疑って、前を向いた。
信じられない事に、侯爵家で俺達を育てろと言うじゃないか!
豚野郎が何やらにやにやしながら言っていたが、耳には入らなかった。
俺は公爵家の跡取りになるために、これまで生きてきたのだ。それが夢だったのだ。公爵の口ぶりからすれば、俺達を引き取る意思はない様に見える。まさか、そんなという思いでいっぱいだった。
その時、舌っ足らずの声が聞こえた。俺よりも小さい、ご主人様があどけない笑顔で俺達を指差し、まるで玩具を欲しがる子供の様に、俺達をくれと言ってきた。いや、実際玩具の様なものだったのだろう。
そんな、子供の玩具に俺がなる筈がないと思っていれば、侯爵はにやにやとしながらも頷いていた。ご主人様の玩具になると言う事は、公爵家の跡取りなんて、もっと遠くなってしまう。呆然とその状況を見ていれば、鋭い声が耳に飛び込んできた。
まるで、子供とは思えないような、強い意志を感じる声だった。
命令をするのが自然であると言いたげに、するするとその小さな口から出てくる。先程までの舌っ足らずが微塵も感じられない。
だから、だろうか。
抗いたかった。公爵家に連れて行ってと、醜い女の様に縋りつこうとさえしていた。そんな思考を打ち払うかのような声に、俺は従ってしまったのだ。
結果、俺はご主人様に天狗になっていた鼻を圧し折られ、奴隷へと堕ちて行った。
生活の質は、庶民の頃より向上している。いい服を着て、いい食べ物を腹いっぱい食べ、屋根のあるところで寝る事が出来た。
それでも俺は、庶民よりも下の階層にいるのだ。
きっと、現実を見ていなかった報いを受けている。
ご主人様の言う特訓は、とても充実していた。どんどん体力は着くし、テレンスさんに褒められるくらい剣の技術は身につけた。定期的に参加する狩りでは、命のやりとりという興奮と楽しさを味わえる。自分で獲った肉はより一層美味しく感じた。命の大切さを知った。狩りのお陰か、弓矢も十分使えるようになった。
ギルドで自分の力を試すのも、いいかもしれない。
ご主人様はよく分からない。俺から身分を奪いながら、生きて行くのに必要なものを与えてくれる。理不尽な命令もあるけれど、無理な命令はない。テレンスさんの言う通りに、何か目的でもあるのだろうか。
あってもなくても、俺はきっとご主人様の命令に逆らう事はないだろう。
「さあ、ファーガス。あそこがトリステン家の領地にあるギルドの支部です。大きな領地ならば、ギルドも支部を作ります。受付に行って、ギルドへ加入して来なさい。私は、お嬢様からお預かりしたものを換金して参ります。良いですか、くれぐれもお嬢様の命令に背いてはいけませんよ」
念押しするようにテレンスさんが言う。俺が逃げるとでも思っているのだろうか。奴隷の証がある限り、無理なことなのに。
「分かってますよ。名前はガストン、でしたっけ」
「ええ。私は日が傾いたら迎えに参ります。それでは、後ほど」
滑る様に歩き出したテレンスさんは、すぐに人ごみの中に消えて行った。やはり、彼が何者なのか気になる。俺達それぞれに教える程の能力があるのだ。只者ではない。
俺は目の前の木製の建物を見上げる。ここがギルドというの奴なのかと何とも言えない気分になった。流石はギルドと言うべきか、人の出入りは多い。出入りする輩はどうしてか、粗雑なものが多かった。そういうところなのだろう。
扉を押して入れば、中にいた人々が一瞬こちらに目を向けた。しかし、特に興味を引くものでもなかったのか、すぐにそれぞれの用事に戻る。一応食事が出来るスペースがあるらしく、アルコールと食べ物の匂いがした。
入って目の前にある受付カウンターと思わしき場所に近付く。やる気のなさそうな中年の女がこちらを見上げた。
「こんにちは。ギルドに入りたいんだけど」
「……お名前は」
「ガストン」
「ギルドの仕組みは知ってますか」
「いいや」
受付の女が面倒臭そうに溜息をついた。仕事しろ。
「こちらのペンダントがギルドの個人識別の魔石となります。ここに、ランクや預かり屋の情報が記録されますので、なくさない様にしてください。再発行には時間と手間とお金がかかりますので」
「分かった」
そう言って手渡されたのは、赤い石のついたペンダントだった。それを受付カウンターの魔法陣に乗せるよう仕草で示される。
「只今記録を致します。動かさないでください。ガストン様、新人として登録致します。初心者の方はFランクからのスタートです。Fランクの依頼を10個達成できれば、Eランクに上がれます。頑張ってください。依頼についてですが、そこの木の板に張り出されているものは周辺の依頼となっております。遠方や特殊な依頼は、木の板の隣にある水晶に映し出されますので、ペンダントを翳してください。受けられる依頼のみ、映し出されます」
依頼が張り出されている木の板を見れば、何人かが依頼を吟味していた。ほとんどの奴は首を傾げたり、振ったりしている。
「依頼を受けるにはどうしたらいいんだ?」
「紙に張り出されているものはこちらで処理を致しますので、持ってきてください。水晶の依頼は、水晶で受付をします。案内に従ってください。良い依頼は朝一で持って行かれますので、お気を付けください」
つまり、昼過ぎである現在張り出されている依頼は、人気がないものであると。誰も手を出さない訳だ。
「ああ、分かった」
「依頼をチームで受ける際には、チームの申請をしてください。詳しくは、その時に説明いたします。それから預かり屋ですが、所有するアイテムや金を預けられるシステムとなっております。こちらはギルドの信頼を掛けて運営されていますので、信頼に値すると思えるなら利用してください」
中年の女が隣のカウンターを示す。依頼が終わったらしい奴らがそこを使っている様で、そこそこ使われているようだ。
「どういう仕組みなんだ?」
「ギルドの魔法使いが作成した亜空間に所有者ごとに収納しております。なので、ここで預けたものも他のギルドで受け取ることが可能です」
持ち歩く荷物が少ないのはいいことだろう。俺は暫くここを離れることはないだろうから、もう少し考える事にした。
「登録料は1000ルピーになります」
テレンスから預かっていた1000ルピー札を手渡す。登録料というのはなかなか高かった。二日分の食費になるだろう。先程見たシンプルなパンが1つ100ルピー程だった。ここは俺がいた路地裏よりも物価が高いようである。
「確かにお預かりいたしました。ガストン様、ギルドは勇気あるメンバーを歓迎いたします。他に、質問はありますか?」
「Bランクになるまで、一般的にどれほど掛る?」
「Eまでは誰でもなることが出来ますが、それ以上は実力が必要です。こちらが指定した1つ上のランクの依頼をやり遂げることにより、ランクが上がって行きます。ある程度依頼をこなさなければ、上のランクを受ける事は出来ません。なので、それなりに時間はかかります。能力があれば、10年もすればBランクになれるでしょう」
「10年……」
そこまでモネが待っているとは思えない。頭を抱えたくなったが、ぐっと我慢する。
「早い人は5年くらいですかね」
「分かった。ありがとう」
「御武運をお祈りしております」
やる気のない受付の女が軽く頭を下げるのを横目に、俺は依頼が張り出されている板に近付いた。いい依頼とやらがよく分からないため、比較出来ないが面倒臭そうな依頼ばかりだ。魔鼠の駆除や、盗賊の討伐、延々と生え続けてくる雑草の駆除くらいだろうか。
テレンスさんと落ち合う夕暮れまで、数時間ある。1つくらい依頼は受けられないだろうか。とはいえ、Fランクの依頼がない。そんなに簡単な仕事はないのだろうか。
俺は再び受付カウンターに向かった。
「なあ」
「何かご用でしょうか」
「Fランクの依頼ねえんだけど」
「では、またの機会ですね」
「Eランクの仕事をしちゃいけないか?」
「……確認して参ります」
面倒臭い事言ってんじゃねえよと言いたげな目で睨まれたが、知らん。Fランクの仕事は新人に人気で、朝になくなってしまうのだと後で聞いた。
「ほうほう、君が新入り君かね」
そう言って登場したのは長い髭を生やした老人だった。にこにこしながら髭を撫でる姿は、好々爺である。
「こんにちは。ガストンです」
「儂はここのギルドの支部長、ヤンバルじゃ。ふむ、ふむ。年齢にしてはなかなかの実力を持っているようじゃな」
細い目がじっくりこちらを観察していた。テレンスさん並みに食えない老人だ。俺自身、比べる対象がないのでどれほどかは分からない。
「Fランクの仕事がないので、Eランクをやらせてほしいんです。誰でもEランクにはなれるのでしょう?」
「そうなんじゃが、ランクを上げる時以外で上のランクをする時は、チーム内の半数以上がそのランクでなければならないというルールがある。チームを組む気は?」
「ありません」
あまり他人と関わるのはよくない。好きにしろ、とご主人様は言っていが、警戒していて損はない。子供ながらに、ギルドには汚い輩も多いと言うのも聞いた。チーム内での裏切りや盗みがないとは限らないのである。
「そうじゃの。まあこれならば実力を測る意味でもいいかもしれぬ。無理そうであればすぐに撤退するという約束を守るのであれば、Eランクの依頼を受けることを許そう」
そう言って手渡された依頼書は、魔ネズミの討伐依頼だった。先程見た掛けたものだ。よく読めば、どうやら街外れの廃墟に魔ネズミが住みついているらしく、子供が襲われそうだとか、衛生的に悪いだとか、色々書いてある。
魔鼠は一般的な鼠と違い、大きさは中型犬程だ。雑食性の魔物で、鋭い歯と素早い身のこなしが一般的な鼠と似ていると言えなくもない。小さな耳と長い尻尾、三つの目、歯をかちかちと鳴らすのが特徴だ。魔物の割には攻撃力が低いが、その分繁殖力が強い。所謂面倒臭い相手である。
「じゃあそれで」
「では、ペンダントをお預かりいたします」
やる気皆無な女に、先程もらったばかりのペンダントを渡す。魔法陣の上に置かれた魔石が、一瞬ぴかっと光った。これで登録されたらしい。
「討伐の証として、尻尾を集めてきてください。前歯は売り物になりますが、破壊せずの退治は厳しいので無理をせずに」
丸暗記したと思わしき言葉を述べ、女が頭を下げた。つくづく愛想のない女である。
「頑張るんじゃぞー」
一方、支部長の爺は気楽そうに手をひらひら振っていた。憎めない爺だ。
テレンスさんに譲ってもらった、練習用の剣を持ってきてよかった。とはいえ、刃はきちんと研がれている。これでテレンスさんと手合わせをしているのだが、一度だって怪我をさせた事がない。だからなのか、あまり実力があるとは思っていないのだ。
上には上がいるとは言うが、近くにいる人が規格外だとどうしようもない。
薬草や簡易魔法陣などの所持品は持っていない。ギルドで働くとすれば、持っていないのは不安要素だ。例え、それがEランクの仕事であっても。でも俺には、まだそれを手に入れるだけの金はない。格好は、狩りの時の服装なので多少耐久性はあるから大丈夫だろう。
俺は少し考えて、取り敢えず魔鼠とやらを見に行くことにした。無理そうならば、テレンスさんから金を借りるしかない。
街外れの廃墟に向かうべく、俺は冒険者として歩き始めるのであった。
依頼の現場は、これぞ廃墟と言わんばかりの場所であった。
周辺の住民に尋ねてみたところ、20年程前まではどこぞの豪商の御屋敷だったとか。没落なのだか引っ越しなのだか分からないが、人が立ち去って以来誰も管理するものがおらず、魔鼠が住み着いてしまったらしい。魔物としてはレベルが低くとも、戦う術を学んでいない住民では危険で、ギルドへ依頼したんだそうだ。
とはいえ、ギルドでもランクが低い上に面倒臭い依頼ということで受けようとするものがいないので、ここ10年近く放置されている状態なのだそうだ。あの支部長、誰もやりたがらない仕事だからオーケーしたのではないだろうか。
苦虫を噛み潰したような顔になっているだろうことを自覚しつつ、緩い傾斜の丘を登って行く。馬鹿となんとかは高い所が好きなのだろう。
視線を上げれば、薄汚れた元御屋敷が目に入る。あそこに行くと思うと気が滅入りそうになった。トリステン家といい勝負だ。
街外れというのは本当に街の外れの小高い丘の上にあるということだった。来るだけで若干疲れながらも、廃墟の外観を眺める。人が住んでいない割には、どこか生き物の気配があった。恐らく、魔鼠のものだろう。しかし、これは十数匹というレベルではないような。
鼠算式に増えている可能性が、あるのだろうか。やめてほしい。
げんなりしながらも、廃墟の周辺を見て回る。ざっと見た限りでも、魔鼠の通り道と思わしき穴が見つかった。それを1つ1つ塞いでいく。袋の中の鼠状態を目指している。逃げられて、後々戻ってきたら面倒臭いからな。
一番手っ取り早いのは廃墟ごと処分することなんだが、まあ色々権利関係で無理なんだそうだ。大人って面倒臭い。
豪華だったであろう扉の前に立つ。ほとんど塗装が禿げていて、元の色は分からない。ゆっくりと扉を開ける。埃の匂いと、獣の匂いが微かにした。扉を開けた瞬間、廃墟の中にあった気配が、ざっと動いたのを感じる。周囲を見渡せば、対象は見えない。それでも、かなりの数がいるのが分かる。
「出てこいよ。逃げ道は塞いだぞ」
俺の声に呼応するように、かちかちという歯を打ち鳴らす音が聞こえた。その音は木霊するように、廃墟中に広がっていく。
――かちかちかちかちかちかちかちかち。
――かちかちかちかちかちかちかちかち。
――かちかちかちかちかちかちかちかち。
反響して聞こえるその音は、耳が痛くなりそうな程大きくなっていた。どこが音源かは分からない。どこもかしこも、音源なのかもしれない。何匹いるのかすら、分からないのだから。
ふと。
歯を打ち鳴らす音が掻き消えた。それこそ、一瞬の間に。聞こえるのは、おれの息遣いと外を吹く風の音。不自然な程の静けさが屋敷を覆う。
――かさ。
右後方から音が聞こえた。その瞬間、剣を抜き突き出す。剣を握る手に重い振動がきた。見れば、貫かれた魔鼠が息絶えようとしていた。
――かさ。かさ。
――かさかさかさ。
その1匹を合図にするかのように、他の魔鼠たちが動き出す。次々と突進してくる魔鼠は、まるで矢のように早い。歯をむき出しにして襲ってくるため、食らいつかれれば肉を持っていかれるだろう。何十匹という魔鼠を切り捨てていく。時には服を噛み千切られた。それでも、これくらいならばなんとかなる。
テレンスさんとの手合わせでは、これよりももっと速く重い攻撃ばかりだった。
突進してくるとはいえ、所詮は魔鼠だ。これといって特別な威力があるわけではない。取り敢えず、駆除するのみ。
時に切り捨て、時に避けながら、粗方の魔鼠を狩る。周囲には、錆びた鉄の様な血の匂いと、腐敗臭が噎せ返る程充満している。魔鼠の腹を裂いたときに、中身がばら撒かれた様だ。
暫く剣を振り続けていれば、魔鼠たちの勢いが衰えていく。そしてまた少しすれば、魔鼠たちの突進は収まった。振り続けた腕が若干重かったが、一応怪我はない。それよりも、匂いがきつかった。剣を振って血を払う。
ちらりと周辺を見渡せば、怯えたらしい魔鼠と目が合った。
見逃してやりたいのは山々だが、魔鼠は繁殖力が高い。ここで数匹でも見逃せば、すぐに元の状態に戻ってしまう。剣から弓矢に持ち替え、逃げようとする魔鼠を1匹ずつ射っていった。
見える範囲の駆除を終えれば、1つずつ部屋を見て回る。
一応家具はほとんどないため、普通の鼠の様に隠れる場所は少ない。逃げ回る魔鼠を片っ端から駆除する。鼠の穴を見付ければ、きちんと塞いだ。もし中にいても、暫くすれば餓死するだろう。鼠が開けられない様にしてあるので。
魔鼠の死骸はロビーに集めておく。流石にこの数の魔鼠の前歯を持って帰るのは一苦労だ。第一、尻尾だけで手いっぱいになるだろう。一度、ギルドに尻尾を納めてからでももう一度来るしかない。やはり、鞄を買わなくては。
最後に辿り着いたのは、厨房だった。一番、大きな気配がここにある。鼠と言えば厨房と言わんばかりの王道な住処であった。脈打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸すれば、酷い匂いが鼻の中に広がる。思わず鼻を押さえた手は、魔鼠の血に染まっていた。魔物とはいえ、いい気分ではない。
目を閉じて、一呼吸置いた。
世の中が甘いだけではないのは知っていた。底辺に生きていると思っていた。上には上がいることは知っていた。でも、下があるということは目に入っていなかった。違う世界だと、思い込んでいた。これからは、上に行くしかないのだと、思っていた。
底辺なんて、ないのだ。堕ちるものは只管堕ちていく。底に着けば上がるだけだ、なんて詭弁だ。そこが本当に底辺だと思い込んでいるだけなんだ。周りを見れば、そこにすら上がれない者もいるというのに。
俺は底辺だと思っている場所から堕ちた。そこよりも深く淀んでいる場所も垣間見た。だからこそ、俺は這い上がる術を示されているのなら、それに縋らない訳にはいかない。
……モネを見ていると、底にいると思い込んでいた頃を思い出す。そして、醜く縋る前のあの女を。今の状況がモネにとっては底辺かもしれないけれど、もっと深い所で足掻いている奴もいる。雁字搦めの奴もいる。それを、知らなければいけない。知らなければ、あの女の様になってしまう。
俺には這い上がる術を与えられた。モネも這い上がりたいと願うのならば、それが可能になるよう術を残しておきたい。だって、半分だけだけど血の繋がった兄弟だから。ご主人様には甘い奴だと鼻で笑われるだろう。それでもいいと思う。這い上がる意思がなければ、堕ちていくだけだと俺は知ったから。
たった3年しか過ごしていないけれど、下の3人は可愛いし、モネだって放っておけない。知ってしまったから。少なくない時間を過ごしてしまったから。俺を産んだ母親は愛せなかった。醜いとさえ思った。
ご主人様の事は分からない。俺達に這い上がる術を示し、知識や技術を与え、奴隷にしながら理不尽な命令は出さない。きっとあの子の事だ。無意味なことではないのだろう。何か、目的があるのだろう。その時に、きちんと利用出来るよう俺達は力をつけなければならない。
あの子に利用される事。
それが、俺の、俺達の這い上がる術。
でもその一方で願ってもいる。
この厳しいけれど穏やかな生活が、ずっと続けばいいとも。
ぎいっと鈍い音を立てて扉を開けば、奥には大きな物体があった。ぴくぴくと小刻みに動く姿に、恐らく生物であろうと見当は付く。だが、サイズが明らかに魔鼠のものとは違った。およそ、大人の腰くらいの大きさだ。立ち上がれば、それよりも大きいだろう。小刻みに動いている相手がぴたりと止まる。
そして、ゆっくりと振り向いた。
それは、2つの首を持つ巨大な魔鼠であった。6つの目が、ぎょろぎょろと俺を見下ろす。ぢぢぢぢぢと、奴は鳴いた。びたんっと太い尻尾が打ちつけられる。大きな前歯は黄ばんでいるが、鋭さは衰えていない。生臭い吐息が俺の顔を撫ぜる。
見たこともない魔物だった。魔鼠は、街の裏で生活していればたまに見る事はある。でも、これほどまでに大きく異様な魔鼠は初めてだった。魔物についての知識は特にない。知らないだけで、よくいる存在なのかもしれない。見た事ある、程度で調べもせずに来たのが間違いだったのだろう。
それでも俺は、恐怖を感じていなかった。
剣を抜き、握る。
何となく、分かった。
こいつより、俺は強い。
剣を構えて切りかかった。
「終わった、か」
目の前に横たわるのは、絶命した大きな魔鼠。剣を振って血を払い、鞘に納める。体を一通り動かし、特に怪我がない事を確認する。魔鼠は、大きいからなのか、動きが早くなかった。一撃一撃の攻撃は重いのだろうが、スピードがあれでは当たらない。脇腹を一閃。それで終わりだった。
どうしたものかと溜息をつく。体は血だらけだし、持って帰るのにも魔鼠の死骸は多過ぎる。もちろん、大き過ぎるのもいる。取り敢えず、魔鼠達の尻尾だけ切り落とすことにした。
それを一通り集め、巨大魔鼠のも切り落とす。俺の胴体くらい太いのではという大きさだった。体は近くの川で軽く洗う。血まみれの上着に関してはもうどうしようもないので、軽く血を絞って尻尾を入れるのに使った。
これ以上はどうしようもない。全裸で街中を歩く訳にもいかない。変態にはなりたくない。
高い服ならば、浄化の魔法がかかっていてそれほど汚れたりはしない。購入を考えた方がいいだろう。
俺は溜息を吐いて、太い尻尾を脇に抱え、他の尻尾の包みを肩に担ぎ、廃墟を後にした。
閲覧ありがとうございました。
6/17 17:30 一部訂正