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月の刻限  作者: ゆいぐ
第三章
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第七四話 歯車 十

 ジョストのチャレンジングマッチに勝利し、選手控え室で新たなカード――絵柄は車輪。メッセージは『ⅩⅡ―ⅩⅢ・カルノレア城内』――を受け取った僕ら5人は指定通り城内に入った。尖塔アーチを多用する厳かな感じの広間で観光客に混じっていたところで警備兵らしき制服の男に声を掛けられ、2階へ案内される。そこから幾つもの通路と広間を抜けるうちに観光客はおろか警備兵さえいない小部屋に連れていかれた。部屋の隅に下り階段があるのだ。不愛想な案内人と別れた僕らはそれを降っていった。


 今まで付き合わされてきたローラーコスター、観覧車、劇場、ジョストを思うと今回は石造りの迷路といったとこか。圧迫感のある狭い石段に蝋燭の明かりが心細い。ゆっくりカーブし始めた階段をひたすら降りてくにつれ方向感覚が麻痺していく。


 あの道化師がこの先にいたとして、やはり戦うことになるんだろうか。果たして今の僕が剣を取ってその戦闘に加わっていいんだろうか。かえって足手まといにならないか。


「ねえ、ミサス」


 前を行くリーンの声が少しこわばっている。


「……ん?」

「さっきの劇場でのことだけど」

「……」

「私は今記憶喪失の貴方に、その身を挺してまで守ってもらいたいなんてこれっぽっちも思ってないんだからね。誤解しないでよね。」


 彼女の華奢な背中にポニーテールが小さく揺れている。


「そんな余裕があるならミサス自身の安全を優先してほしいの。少なくとも私はそう思ってる。忘れないでよね」


 苦笑いしてしまう。返す言葉が見当たらない今の自分に。


 しばらくして僕らは狭い一室に着いた。ただ四方は隙間無しの石組みの壁。これでは先へ進みようがない。視線を下にやると床の石畳、その石板の幾つかには絵柄が彫り込まれている。何の気なしに触ってみるとスイッチのように押し込むことが出来た。


「……この絵柄が刻まれた石板。押せるな」

「ホントね。でも……それだけみたい。手を離すと勝手に戻るし」


 少し考え、もう一度床を見回してみる。絵柄は水滴、風、木、炎、水滴、稲妻……。何となくルールが分かってきた。


「この為のカードらしいな。確か炎の絵柄のカード、観覧車だったかで手に入れてたよな」

「あ、ユイグ持ってたわよね」

「ん、ああ。この通りちゃんと持ってきたぜ」


 ユイグが内ポケットからそのカードを取り出す。確かに炎の絵が描かれていた。

 僕は想像半分でその先を続ける。


「同じ絵柄の石板が幾つかあるから、同時に押すと道が開けるとかじゃないかな」


 なるほど、と皆はそれぞれに炎が描かれた石板――と言っても僕の他はユイグとチタンの傍にあっただけだが――に手を当て『せーのっ』で押し込んでみた。

 突如として壁の向こう、床下のそこらかしこからガガガガ……と騒々しい機械音が鳴り出す。部屋の外でギアとギア、それに連なるシャフトが噛み合い回り出したのか、耳をふさぎたくなるやかましさだった。同時に足元に振動が伝わり……最後にズゥゥ……ンと一際大きく鈍い衝撃の後、元の静けさを取り戻した。

 見れば床の一隅にまた降り階段が出現している。随分と大掛かりなギミックを造ったものだ。

 とにかく先へ進むしかない僕らは再び石段を降りていった。


 次の部屋に着くと同じ要領で今度は正面に開いた通路を進み、その先の小部屋でまた同様に……いくかと思いきや行き詰まった。そういえばカジとチタンはホークショーでカードを1枚取り損ねていたのだ。当然に押すべき絵柄が分からない。

 ややあってカジが口を開いた。


「どれか一つ絵柄を選んで押してみるしかねえか……」


 チタンとリーンも同意する。


「これも一般客用に作られたアトラクションなら大したペナルティは用意されてない可能性もありますしね」

「そうねえ……私も賛成。ミサスは?」

「……」


 選択肢なんか無いに等しいじゃないか。そう分かっていながら、僕は頷けずにいた。

 その肩をユイグがぽんぽんと叩いた。


「ミィ、そんな深刻な顔すんなって。そもそも俺らを始末したいなら今迄のゲームをさせる必要なんて無いわけだしよ。……まあそれでも心配っていうなら万が一に備えて石板押す奴以外は部屋を出とこうぜ」


 ユイグの言ってることは極めて妥当だ。僕はどうにか自分を納得させた。


 少し皆で話し合った後、押してみる石板は『蛇』と決まった。チタン、カジ、僕の3人が担当の石板に手を当てる。ユイグ、リーンは通路に戻り待機となった。


 カジが少し固い表情で僕とチタンを見る。2人が頷いた後、タイミングを合わせて石板を押し込んだ。

 再びあの騒がしい機構が駆動し微振動が部屋を覆っていく。すると何と床全体が斜めに傾き出した。僕ら3人はあっという間に立ってられなくなり尻もちを突くとズルズルッと滑り出していった。指を掛ける場所も無い石畳の上で焦ってあがいたが傾きを増してく滑り台に抗いようがない。小さな悲鳴が室内に満ち、リーン達がいる入り口と反対側の隅までずり落ちていった。

 どうなることかと冷や汗をかいたのだが、結局罰ゲームレベルの演出だったらしい。傾斜はやがて止まり床はゆっくりと元に戻っていった。そして水平になったところで機構音も止まった。


 部屋に戻ってきたリーンとユイグは呆れ気味に僕を見下ろす。


「実験ご苦労様」

「天井が落ちてくるとか壁が迫ってくるとか、もっと面白いヤツ期待してたんだけどな~」

「……。まあ笑って済ませられる程度で良かったよ」

「の割にはミィ、顔がひきつってるなぁ」

「……」


 言われてどうにか口角を上げた。


 その次に選んだ『鼠』も外れはしたものの現れた偽りの周回ルートを1周りさせられただけで終わり、続いて選んだ『馬』でこの部屋をクリアすることができた。


 再び狭い通路を直進していく。心なしか少し下り坂になっているか。

 先頭のカジとチタンは2回続いた肩透かしに少しだれ気味なものの固くなってる様子はない。二人に倣うつもりで僕も軽く深呼吸した。

 この後、道化師と戦うことになるにしても奴はユイグを指名していた。更に他の敵がいたとしてもカジとチタンは僕より数段腕が立つ。こんな状態の僕が無茶をして彼等の足を引っ張ることこそが一番避けるべき事態なのかもしれない。

 僕はもう1度深呼吸をしてみた。過度に警戒して余計な疲労を重ねるのも愚かしい。どうやらここも数あるアトラクションの1つぐらいに思えば良さそうだ。


 やがて、『短剣』のカードによって難なく次の部屋をパスした僕らは最後のカード『車輪』を使うべき部屋へと辿り着いた。僕はそっとため息をつく。大したトラップは無かったが、思ってたより長い道のりだった。


 絵柄の石板近くにいたカジ、チタン、リーンがしゃがみ、同時に石板を押し込む。例の如く部屋の外で機構が動き出す。今度は正面の壁で重たげな石戸が持ち上がっていく。

 それを待つ僕の心が波打ち始める。この先でようやく対面というわけだ。僕は腕を組んでから首を軽く回してみた。


 直後。ダンッという音と共に足元の床が(ひら)き、僕らは落下した。


 突然の出来事に頭も体も全く付いていってなかった。あっと思う間もない。左手首を肩が外れるかと思う程の力で引っ張り上げられ、落下は止まった。遥か下の闇に飲まれたリーン達の悲鳴が遠のく()に、僕と僕を吊るしてる(ぬし)は振り子の様にして斜め下へ突っ込んでいく。先にあるのは壁の薄明かりに浮かぶ鉄柵に囲まれた足場だ。


「…………!!」


 咄嗟に丸めた体でもって勢い良く壁に激突した(のち)、どうやら目当ての足場へ落ちたらしい。地面の有難さに感謝しながらもしたたかに打った腰をさすっていると左手首に細い鋼線のようなものが巻き付いてることに気付いた。すぐ隣にはユイグが。


「いや~、はははは……。びびったなぁ。

 いきなり過ぎてミィ一人捉まえるのでやっとだった」


 相変わらずの軽い口振り、慣れた手つきで鋼線を(ほど)いていく。

 それを見る僕は、さっきまで当たり前に会話してた三人がいきなりいなくなったという事実、それだけ受け入れるのがやっとだった。


「おい、ミィ。ぼーっとして大丈夫か? どっか打ったか?」

「……い、いや」

「ホントに大丈夫かぁ? 

 ……ま、いいや。見てみ。リーンちゃん達が落ちてったのは多分あの部屋だ」


 僕は言われるままによろよろと立ち上がってユイグの隣の鉄柵に、もたれかかった。

 薄闇をまとう下層、蟻の巣の様に上下左右無秩序に石造りの迷宮が伸びている。その隙間を埋める様に、あるいは同化して幾つもの巨大な歯車やラック、ロッド、蒸気エンジンの一部らしいはずみ車、鉄骨建材、配管等が設置されていた。

 その複雑怪奇な寄せ集めの中央の部屋をユイグは指している。


「あの部屋の天井部分、今は閉じちまってるけど開いてたんじゃねーかな。

 水に落ちる音を聞いたから、おそらく……」

「水……?」

「ああ。小さい音だったが確かに聞いた。

 もっともあの高さ。打ちどころが悪きゃ万が一もあるかもだけどな~」


 『万が一』って……、いや、それ以上に。


「カジ達を助けに行かないと……、カジは泳げないんだよ」

「おお、そりゃ初耳だ」

「だからっ」

「けど、とりあえずはリーンちゃん達が何とか対処してくれてると信じるしかないだろーな。何とかこうして残った俺達が」

「とにかく早く、早く急がないと……」

「オイオイ、落ち着けって。つーか声震えてるぞ、しっかりしろよ」


 声が震えてる? 僕が?

 薄暗がりに見えるユイグの細目は笑っているのかいないのかよく分からない。


「だからさ、残った俺達がヘマを踏むとそれこそ一貫の終わりだろ? ここは慎重に、かつ迅速に、一致団結して奇跡の救出劇といこうぜ。なっ」


 何度目か分からないがまたユイグが僕の肩を叩いている。

 僕は、事態の急転に呆気に取られてたというより、動揺してるのか? 

 確かに……確かにユイグの言う通りだ。慎重、迅速にリーン達を助け出さないと……。


「……分かった」

「よーし。そうと決まれば、まずは……」


 今いるここはメンテナンス用の足場なのか。背後にある狭い入り口から通路に入れる。


「ん~。通路沿いに闇雲に進んでみるのもいいが、もっと確実に手っ取り早くいくとしようぜ」

「どう、するんだ」


――僕とユイグは(ただ)れたような黒煉瓦の壁を這うダクトや鉄骨のボルトに足や手を掛け下へ下へと降りていった。

 途中、すぐ頭上の簡易通路――鉄柵に網状鉄板の――を慌ただしく走っていった数人の警備兵を息を(ひそ)めてやり過ごす。当然ながらこの地下施設が無人でないことを、敵がいることを改めて意識して僕はぎゅっと目を(つぶ)った。


 どれぐらいの時間が経過したか分からない。命綱も無い中でとにかく必死だった。ユイグが再び鋼線を使ってくれないことなど気付きもしなかった。

 やがて、目指していた足場にどうにか降り立った僕とユイグは機構の中を所狭しと伸びる簡易通路を足早に進み、リーン達が落ちたと思われる石部屋の一つ手前の部屋の前まで来た。


 中に人の気配がないことを確認し、静かに入る。


「へ~、ここは警備兵達の詰所みたいだな」


 ユイグは大分声のトーンを落としてるものの口調は軽いままだ。一方で僕はかなり神経過敏になってたと思う。

 石畳には皮の敷物、壁面には盾と剣が掛けられており質素なベッドに長椅子、長机、その上には果物が籠に盛られていた。


「さて、と。方角からしてそっちのドアの先がリーンちゃん達が落ちた部屋っぽいな。

 う~ん、無事でいてくれりゃいいなぁ……」


 ユイグは正面にある2つの木扉のうち左を指すと、歩き出す代わりに首を捻ってぺらぺらと喋り始めた。


「ただ人質はもう初めっからガキ達で十分用が足りてる筈なんだよな。だからこそ俺達はここまで敵の指示通りゲームに付き合わされてきたわけだしな……」

「……」

「あれかなあ、もしかしたら俺ら全員生け捕りにしてどっかへ売り払うなんて線も……可能性としてゼロじゃないかな~、なんてちょっと考えてんだけどな」

「……」

「ここまでずっと向こうのペースだ。腹立つよなぁ。ミィ、お前だってせめて一暴れして敵に思い知らせてやるって思ってるだろ?」

「……まあ、……な」


 僅かな間が空いた気がしたが、ユイグは大きく頷く。


「うんうん、そりゃそうだよなあぁ」


 僕は努めて様々な感情を殺し、声を少し張った。


「……とにかく、もうすぐそこなんだ。……急ごう」

「だったな。よ~し、気合い入れてこうぜ」


 僕とユイグは左の通路を進み、突き当たりで足を止めた。

 角を曲がった先はもう目的の部屋だ。だがやはり、しんとしている。衣擦れの音一つしない。僕とユイグは顔を見合わせ、慎重に歩を進める。


 大部屋に、入った。……無人だ。ただ室内中央に石造りの巨大な柱がある。


「これが多分水槽なんだろう。獲物が落ちてくる時だけ天井を開いておいて、中に落ちたら閉めて溺れさせる、ってとこじゃねーかな」


 ユイグの小声は相変わらず淡々としていて、僕は恐る恐る巨柱を見上げた。上部には何本もの太い配管が伸びてきている。


「さ、て。とりあえず敵もいないから俺らは最悪の事態が起きちまってないか確認しないとな。どうしたもんかな」


 『最悪』の事態。僕はリーン達3人が水中に漂ってる姿を想像して、慌てて打ち消した。

 ユイグは部屋の隅に備え付けられた計器類やレバー、ハンドル等ごちゃごちゃした装置の所へ歩いていく。


「これで何か操作すんのかな~? けど変にいじくって派手な音でも出るとなぁ。

 ミィ、お前、やってみる?」


 僕は頷くことも首を振ることも出来ずにただ顔をしかめた。どうしていいか分からず『水槽』の周りを歩く。……裏側へ。何とそこには小さな入り口が開いていた。石畳は濡れているものの中の水は抜かれた後らしい。

 すぐユイグに声を掛けた後、僕は意を決して『水槽』の中へ踏み込んだ。


 小部屋程の広さを持つそこは石壁も石畳も濡れてこそいたが、排水溝がある他は何も無かった。水びたしのリーン達が転がっていた、等ということはなかった。ただ天井はどこまでも高く、ぴっしりと閉じている。仮にこの中を水で一杯にされ閉じ込められたとしたら、脱出が不可能なのは明らかだった。


 外に出てユイグに伝える。


「中は空だった。誰もいない。けど壁や床は濡れてたからユイグの言った通り水で満たされてたんだと思う。とにかく他の場所を探さないと……」


 そこまで相槌を打っていたユイグが遮った。


「それなんだけどな。どうやらさっきから話し声が漏れ聞こえてきてるっぽい。奥の通路の方だ」

「えっ!?」


 耳を澄ましてみるが……僕には何も聞こえない。


「確かだよ。しかも話し声の一人は、リーンちゃんみたいだな。もう一人は……声が小さいなぁ」

「本当かっ!? なら早く行こうっ」

「うんうん、分かってるって。くれぐれも、慎重に、な」


 僕とユイグは水槽の部屋を後にし奥の通路へ入っていった。

 少なくともリーンは無事なのか? カジとチタンはどうなったんだろう。逸る気持ちに足が()く。

 2つ目の角に差し掛かったところ、僕にもようやくリーンの力のこもった声が聞こえてきた。もう通路の先に部屋の明かりが見える。


「……私達には……っていうの!?」

「それは……してわざわざ……のも最終的に我々の要求に応じ……」


 リーンに答える声は劇場で(まみ)えたあの道化だ。

 聞き耳を立てつつ僕とユイグはもう部屋の入り口傍まで来ていた。壁に身を寄せ、話の先を聞く。


「一体ミサスに何させるつもりよっ」

「ここで彼女達と殺し合いをしてもらいます」

「殺し合い……ですって? ……そんなことに一体何の意味があるっていうのよ」

「それは貴方の関知するところではない」


 どういうことだ? 全然分からない。僕達のことをあれだけ散々振り回してきた敵が最後に企んでいたのは、この僕に、殺し合いを、させる、こと……?

 戸惑う僕の思考は、初めて聞く威圧感を伴った低い女の声で打ち切られる。


「てゆーかねぇ、あれで元兵士って、冗談でも笑えないわ。文字通り戦場にいたってだけみたいね」


 僕は恐る恐る室内を覗き込んだ。だだっ広いだけの殺伐とした部屋の奥の方に少し年のいった女――二重立ち襟のブラウスにロングベスト、パンツいずれも黒で固めたベリーショート――、そしてあの道化、更には2人のチンピラ風の男達がおり、その足元には何と鎖で手足を縛られたリーン、チタン、カジが転がされていた。

 リーンは顔だけを上げて女に食い下がる。


「記憶喪失だって言ったでしょ! まともに戦えるわけないじゃないっ!」

「ふん。それなりに武器の扱いに長けた、修羅場をくぐってきたって人間に限ってなら頭が寝てても体が反応するなんて例珍しくないんだよ。ま、あの坊やはそのどちらでもなかったようだけど」


 取り巻きの男達がひとしきり(あざわら)った後、女は続ける。


「しかしまあ、こっちとしては事が運び易くなって願ったりだよ。ただでさえ余計な手間が増えてイラついてるっていうのに、こんなつまらない仕事……」

「ふふ。貴方は相変わらずですね、ヴェラ。

 ただし油断は禁物ですよ。少なくともあの細目は結構楽しませてくれそうでしたし」

「ふんっ。

 殺しが楽しめるか否かでしか見れない野郎よりか、よっぽどまともなつもりだけどね」

「これは手厳しい。貴方の野心ほどあからさまでないつもりですがね」

「勝手にやりなよ。指示に入ってもないイレギュラーを始末したとこで何の手柄にもならない」


 そこまで聞いた僕は再び石壁の影に身を潜ませた。

 まだ室内を窺っているユイグが小声で呟く。


「カジのおっさん、気ィ失ってんのかなぁ。全然動かねえな。溺れた時に水を飲んだか、水に落ちた時に頭でも打ったか……。もし生け捕りにされてたなら敵にバレないよう助けるってのも考えてたけど、これじゃちょっと無理みたいだなぁ」


 そういえばチタンは顔を上げていたが、カジは鎖で縛られてうつ伏せのままピクリとも動いていなかった。キトの連中とやり合った時も、西大陸へ行った時も、ジョストの時も、僕をずっと助けてきてくれたカジが……。


「にしても理由は相変わらず不明だが(てき)さん(がた)(じか)のバトルをお望みらしいなあ。しかもどちらかというと俺じゃなくてお前との」


 ユイグがさも興味深そうに僕を横目で見ている。

 何でなんだ。カルノーレヴェリーの連中がゼロ教団と裏で関わりを持っていて、子供達を誘拐して人身売買をして……そういう話だって言ってたじゃないか。何でわざわざ手間をかけて人質を増やしてまでして僕なんかと殺し合う必要があるんだよ。よりによってこんな状態の僕と。僕はやりたくないんだよ。僕のこの黒い感情を……。何で――


「なあ、ミィ」


 いつの間にか正面に立っていたユイグは両手で僕の右手を取る。それを静かに僕の帯剣の(グリップ)へと持っていき、握らせた。柄の冷たさが掌の熱を侵していく。

 僕はただもう恐ろしくて、恐ろしくて仕方なくて、顔を上げてユイグを見た。けれどそこにあったのは、いつもと変わらない酷薄に歪む笑顔で、その口元を小さく吊り上げたまま彼は囁いた。


「今度は逃げられないなぁ」


 短い言葉が、鋭利な刃物の様に心に突き刺さる。


 僅かな沈黙のうちに僕は両眼一杯涙を溜めていた。そして、それが溢れ出してしまったらもう動けなくなってしまうように思えて。どうしようもうなくなった僕は、ユイグを振り払うと思考の整理も終わらないまま部屋の中へと足を踏み入れていった。


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