第六九話 歯車 伍 ―― 出会い ――
適当用語解説
・トレーサリー:アーチ型の窓の上部等にはめ込む装飾用の細い石の部材。組子。
情報収集を終えた僕達三人はカジ達との待ち合わせ場所に向かっていた。通りには人の数が増え始めている。若いカップルや子供の手を引く家族連れなんてのが殆どだ。観光客がホテルでの朝食を済ませて街に繰り出してきているのだろう。
ただその様子は賑やかに華やいでという雰囲気ではなく、淑やかに色付いてという感じだった。例えば、黄土色の整然とした街並みに合わせるかのようにフォーマルな服装をしている人が多かったとか、その彼等の足音、話し声なんかのテンションが朝ならではの低さだったとか、道端に露天商の類が一人としていなかったという感じだ。
とまれ、待ち合わせ場所であるトラム広場に僕等は入ったのだ。
頭上の空が大きく開けていた。気怠さを残した青に薄い綿雲が幾つも浮かんでいる。おまけに陽が少し高くなったせいもあるだろう。広場を取り囲む建物達の壁が黄土色から砂色へと様変わりしていた。それらを含めた上でのデザインなのだろうか。逆に足元の石畳は暗色のグレー、かつツルリとした手触りのものへと変わっていた。
それにしてもやたらと広い。式典やイベントの際に利用されているのかもしれない。万単位の観衆が入りそうである。視界を遮りそうな物も街灯とブロンズの立像ぐらいしかない。
とりあえずそのブロンズ像へ僕達は向かうことにした。
すると、幾らも行かないうちに一人の女性が歩み寄ってきた。ココア色をした制服に制帽だ。年は僕等と同じか少し上ぐらいである。朗らかに挨拶してきた。
「おはようございます、失礼ですが観光の方ですか?」
「……ええ、まあ」
僕は応え切れずに曖昧に返した。すると制服の彼女はにっこり笑って言う。
「良かった。実は今、ニューイヤーイベントの案内をしてるんです」
『ニューイヤーイベント?』と聞き返すリーン。彼女は慣れた感じで答える。
「一月一日の午後六時からこのトラム広場でちょっとした催しがあるんです。
ですから御都合が合うようでしたら是非いらして下さい」
彼女は言葉の後に茶色いチケットを三枚、僕に渡そうとした。
どうしよう。当然僕等はここに長居するつもりはない。おまけにアノとリーンともすぐに別れなくちゃいけない。受け取ったところで意味ないんじゃないだろうか。そんな風に戸惑っていると、僕の前にリーンがずいっと出てそれを貰ってしまった。
笑顔のリーンを僕は右肘で突いた。ついでに囁く。
「おい、そんなの貰ってもいつここに戻ってこれるか……」
皆まで言い終わらないうちに僕の顔面をリーンの左掌が押し退ける。
リーンは彼女にお礼を言い、そのままこの町のことへ話題を移していった。
……はあ。こうなってはもう黙っていよう。僕はアノの方へ振り返り肩をすくめてみせた。アノの表情が僅かに綻ぶ。
それから先はしばらく女の子同士の会話、というかお喋りが続いた。制服の彼女は駅員だったらしい。対するリーンも人見知りしない質だから――断言してもいい――二人はすっかり打ち解けてしまっていた。
そのお蔭でというかそのせいで。制服の彼女が広場北側に建つ駅舎の時計を見上げ、『いけない、すっかり油売っちゃった』と呟いた時にはもう、僕とアノはこの町のガイドだってこなせる位の情報通になっていた。
ただまあ、話自体は割と参考になったかもしれない。
中でも興味を持ったのはこの広場の南側に聳えるトラムズ大聖堂のこと。近場の観光スポットのうちでもとりわけ有名な建築物らしい。歴史的文化遺産というやつだ。既に今ここから見えているそれには何となく惹かれるものを感じた。
「おじさん達との待ち合わせ時間にはまだ少しあるし、折角だから行ってみる?」
リーンが制服の彼女を見送った後で、僕の心を見透かしたかのように声を掛けてくる。
僕は『うん』とも『ああ』ともつかない言葉で頷いた。その割にはリーンとアノに先立って歩き出す。
一体あの大聖堂の何に惹き付けられたのだろう。単に外観だろうか。ぱっと見、遠目には他の建物達に紛れてしまっていると言えなくもない。周囲と同じ砂色だ。あとは大きさが違うけど。ただそれだって広場の南側一帯を占めていて、他の建物より気持ち高くなっている――しかも高くなっているのは中央部分だけでそれもせいぜい頭一つ分てところ――という程度だし。
まあ裏を返せばその目立たない違いが分かる程にこの広場の建物達は均一な高さを有しているのだ。付け加えると、この広場も縁に限ってライトグレーの石畳が敷かれているそうだ。それはさっき歩いてきた大通りで使われていたのと同じ石材である。
繰り返すが、そういった小さなアクセントを際立たせる程に端正な街並みなのだ。この町をデザインした建築家の嗜好が窺われる。
ああ、そう。この町の外観設計をした人というのが『トラム』さんであり、広場の立像も彼の功績を称えたものらしい。
ただその晩年はあまり幸せなものではなかったらしい。なんでも一人息子がマフィアに加わった挙句に事件を起こしてしまったとかで、その賠償に財産の大部分を当ててしまったそうだ。現金に留まらず美術品や家具、何から何まで。
そして、気力をすっかり失いかけていた晩年の彼が最後の力と思いを込めて図面を引いたのが、今ようやっと目の前にしたトラムズ大聖堂ということだった。
ずんぐりとしたやや横長の建造物だ。四階建てらしい。ただその階層を意識させない外見だった。
まず建物の下から上までを貫く細長い矩形の柱が四本、自身を強調するかのように前面にせり出してきている。
その柱によって仕切られた五つの壁面には一つづつ大窓が設けられていた。両端の窓はくり抜き型、あとの三つは藍色のはめ殺し型だ。五つの窓は柱同様に階層を無視して最上階まで一続きに伸びており、その先端は蓮の花弁のように尖っていた。尖塔アーチと言うらしい。ちなみにトレーサリーのデザインは曲線をもって交差する葉脈のようだった。三枚の葉を立てて山形になるよう重ね並べ、その葉脈だけを取り出した感じ、と言えば伝わるだろうか。
最後に建物正面のシルエット――フェサードと呼ばれている――の上端部分について述べておこう。要は破風付近だ。
この『上端部分』もまた、説明の始めに触れた四本の柱で五分割されている。そして各辺の傾き具合は柱を境に変化していた。左端からなぞっていくと、水平に右へ進んで柱にぶつかり、続いて右斜め上へ進んだ後に柱と共に垂直に立ち上がり、また右斜め上へ進み……頂点を過ぎた後は左右対称に、という具合だ。なお、中央で山なりになっている二辺には王冠の上端を模した棘状の黒い装飾が施されている。またそれに合わせるように各柱の先端も四角錐になっており、破風を突き抜けて聖堂の上へとはみ出していた。
中々に趣深い建物だ。
つい見惚れてしまっていた僕はいつの間にか先を越されていたらしい。リーンとアノに続いて堂内へと入っていった。
ちなみに入口は聖堂中央に構える黒い鉄扉一つだ。開け放たれているこれにも当然のように尖頭アーチが採用されている。
堂内は高さ方向と奥行きに関して広く造られていた反面、横幅に関して狭かった。
光沢のない薄いグレーの床がずっと先まで一直線に伸びている。両脇には藤編み座面の一人掛け椅子がぴしっと並んでいた。片側につき五掛ける十程の席数だ。更にその両サイドには側壁としてのアーケード――列柱の上端を尖頭アーチ等で繋げたもの――が立ち上がっている。黄土色やベージュの煉瓦を組み上げたものだ。そのアーケードの上に装飾壁や採光窓が積み上げられ、やがて天井に達している。天井はぼかした感じの黄土色をしたトンネル型。そこに、熊手の先っぽ同士を突き合わせたような線模様が見える。茶色いそれは補強材とのことだ。さっきの制服の彼女談。
その補強材が並ぶ天井をなぞりつつ視線を奥へ動かしていく。やがてそれは止まった。
つまりこの細長い部屋の奥に仕切りとして立つ尖頭アーチ、その真上へと続く壁面に大きな四角いレリーフが彫られていたのだ。塗装までされている。紅蓮の体をもった獅子。
……獅子。同じ絵柄を以前、あの男の背中に見た。あの金髪の男、ロア。思えばロアを見たことがきっかけで僕は夢を見始めたのだ。それはつまり僕の体があの男に反応したということ。体は……覚えていた? やっぱり僕が記憶を失ったことにもあの男が絡んでいるのだろうか。だとしたら放っておいていい筈がない。
……二ヶ月前メイアにいた頃の僕とはもう違う。多分記憶が戻るのは時間の問題だ。意識を集中すればすぐ手の届くところに失くした欠片の存在を感じられる。そう、たった一枚の壁を隔てたぐらいの近さにあるのだ。もうすぐ。もうほんの僅かで取り戻せる筈なんだ。
そして元の僕に戻ることが出来れば、掲げるべき大義だってもっと明確なものに……。
僕は胸の奥のざわつきを鎮めていった。
そういえばあの獅子に惹かれたのだろうか。そうなのかもしれない。
と、前にいるべきリーンとアノがいなくなっていた。
今見上げていたレリーフが掲げられた尖頭アーチ、その手前の椅子に座っている人達も違うし、尖頭アーチのずっと奥、同形のステンドグラスが見える方にいるまばらな人影の中にも二人はいない。
僕は後ろへ振り返った。すると。
何だ。いた。入口の近くでリーンは見知らぬ老婦人と立ち話をしている。アノもその傍にいた。
待つのも退屈なので、僕はゼスチャーでリーンに他の部屋を見てくると伝えた。アノは来ないらしい。
まあいい。ゆっくり見学させてもらうとしよう。
入口側へ戻り、左右に伸びている通路の先を交互に見る。
ちょっと迷ったが何となく左側へ進んでいった。
左手に近付いてきた一室は無視してそのまま直進する。そうして次に見えてきた部屋に入ってみた。
……?
雰囲気が一変した。室内は薄暗い。そして何よりも壁と天井の色が黄土色から白へと変わっていた。
その他の見た目は先程とほぼ同じだ。床は薄いグレーだし細長い。両脇には椅子が並べられているし、左右のアーケードもその上の装飾壁、採光窓、それから天井の形も同じである。
けれど、まるで違う部屋だった。冷たさ、重苦しさが全体を覆ってしまっている、そんな感じだ。僅かな救いは右側のアーケードの奥に見える壁面の窓から斜光が幾筋か差し込んでいたことだ。ただそれも気休め程度でしかない。
あるいは室内に観光客が誰もいなかったことも無関係でなかったのかもしれない。
観光客が誰もいなかった、と言った。観光客には見えない人間はただ一人いたのだ。その人は部屋の最奥で両膝を突いて頭を向こうへ垂らしていた。背中の詰襟マント、薄い灰色のそれは堅気の外套とは雰囲気が違う。いかにも旅慣れた感じにくたびれている。加えて床に広がる長い裾先からは黒光りする細い鞘が覗いていた。
その人のことも、それからその人が跪くその先にある物も気になって、僕は静かに歩を進めていった。その僅かな足音に反応するように向こうでマントがゆらりと立ち上がり、こちらへ向き直る。そうしてすぐに歩き出してきた。爪先をあまり上げない感じの歩き方だ。
そういう次第だったから、細く高い天井の室内には僕の足音ばかりが響いている気がした。
顔を見られる程に近くなっていき、男だと分かる。亜麻色の前髪が幾つかの束を作るようにして目にかかっている。殆ど揺れることのないそれは、差し込む斜光の下を通る度に淡く柔らかい艶を巻いていた。
けれど。その明るい色に包まれた彼の真意に気付けたのは、それこそ二人が左肩をすれ違わせる寸前だった。
自身の生をその苦悩で覆い、絞り込んだかのような表情。
一目見ただけで、それは僕の脳裏に強く焼き付いた。
遂に視線を合わせることはない。彼はずっと己を見つめていたみたいだったから。
人はあんなにまで底深い憂いを抱けるものなのか、それ程までの苦しみに身を沈めねばならない目に遭うことがあるのか。ケーケという友人を失ったばかりである、今の自分でさえそんな風に思わずにいられなかった。そうして、理解出来ないという気持ちのまま僕は歩みを止めることなく進んだ。
やがて背中に聞こえていた彼の小さな足音が全く聞こえなくなった頃、部屋の最奥、彼が先程まで跪いていた場所に行き着いた。
他所より僅かにせり上がったその壇上には木造りの説教台らしきものがあったのだが、そこには先客が五人ばかしいた。白い石像だ。その簡素な格好からしてこの聖堂が作られた頃より更に前の時代の人達と思われる。
彼等は互いの顔を寄せ合い盛んに何かを議論していた。そして。
どうしてだろう。彼等の視線はすべて、台を挟んで向かいにいる僕の方へ向いていた。




