第六七話 岐路 終
その後。ミサス達は向かいの宿でアイザー、レックスのリザーブレーションを回収し終えると、また別の大通りへと向かった。そうしてその通りを西へ、続いて別のそれを南へ、更に数本のそれを西、南、西と進んでいき……やがて市街西の外れへと伸びていく畦道に入った。昨夜、ミサスがアノを乗せて自転車を漕いだあの道だ。
周辺は畑ばかり、街灯も僅かばかりの夜道を進み、ミサス達はようやく目的の平屋へと辿り着くことが出来た。
肝心のアノは変わった様子もなく、待っていてくれた。『変わった様子もなく』というのは相変わらずやつれた顔で、という意味だ。まあ、無理もない。
彼がたった一日とは言え頼みとする仲間と離れ、いつ忍び寄ってくるかもしれない敵味方の兵士に注意を払い続けたこと。更にはその警戒を行う自身の意識に対しても、疑惑と懸念を拭い切れずにいたであろうこと。加えて、ミサス達が無事に迎えてに来てくれるだろうかという不安に苛まれ……と数え上げてみれば、その心労の程が窺い知れようというものだ。
そんなアノに追い討ちをかけるようにケーケの死が伝えられたのであり。茫然自失としたアノはそのショックを受け切れずにいるみたいだった。
勿論そのアノをマアヴェ達が慰めようとはした。ただ結局のところ、彼女達はその十分な時間を持ち合わせていなかったのだ。
時刻は既に深夜二時を回っていたと思う。にも拘らずミサス達は家屋の中で随分と遅い夕飯――クラッカーとラスク、ビーフジャーキーに数種の乾燥野菜、あとは苦いだけの珈琲だ――を済ませると、軍服から私服へ着替えただけで、他には一切の休憩時間をとりもせずにその民家を発った。
他方、彼等の計画の全容を知らない僕にとっては、この後どのようにしてスタンフォークを離れるのかということが最大の気懸かりだった。
スタンフォークからは北方へと続く線路が伸びている。しかしこの非常時に定刻通りの運行があるとは思えない。それどころか汽車そのものが走っているかどうかも怪しいところだ。仮に走っていて、しかも掴まえることが出来たとしても、いつ誰に見咎められるかもしれない彼等がその汽車へ乗り込むことは非常に危険な行為に思える。
そうしてみるとあと考え付くのは昨日の朝街中で見たトラックだ。あれの一台でもどこかに乗り捨ててあればそれを何とか動かして……。だがそこまで思案したところで、僕はウォールラスを降りてからこの方、そのトラックを一台も見かけていないことを思い出した。
既に出だしからして八方塞がりになっている気がする。
そんな僕の心配をよそに、アノがいた民家を後にしたミサス達は北西に向けて歩き出した。
再び林道である。依然として続く重苦しい沈黙も、一足踏み出していく度に募る疲労も、瞼にのしかかってくる眠気も皆ごたまぜだった。ごたまぜに纏ってミサスは進んだ。彼等も後に従った。
途中、マアヴェに手を引かれていたヨウが遂に寝入ってしまったのでジャンが背負った。ジャンの荷物を代わりに持ったミサスが情けなくも靴擦れを起こしバニルの肩を借りた。ミサスの荷物をラモンが、バニルの荷物をアノが持ち、そうやって夜通し歩いた。
そしてゆっくりと昇り始めた陽が木々の闇を照らし始めた頃、その緑と茶色の向こうに砂浜が見えてきたのだった。半島の西海岸へと出たのだ。
そこから先は……、まあ概ねうまくいった。
沖に停泊していた一隻の小型帆船。それに乗ってこの争いの地から逃れようとしていた数名の民間人――近くに漁村があったのだ――をミサス達は見つけた。
ミサス達は軍人であることを勘ぐられながらも、交渉を尽くし、最終的にその船に乗せてもらうことが出来た。
出航はそれから間もなくのことだった。
一応指摘しておこう。逆に言えばあと僅かのところで置いてけぼりを食うとこだったわけだ。
しかもだ。仮にここで船を見つけられなかった場合、ミサスは仲間と共に民間人に成りすまし、徒歩でまだ動いている鉄道の沿線を目指す気でいたらしい。その距離が五キロで済むのか五百キロを超えてしまうのかは知らない。ただそれを実行に移していたとして、両軍の兵士に怪しまれることなくこの戦線を、つまりこの半島を脱け出せたかどうかは、先程も触れた通り甚だ疑問だ。何せ着ている私服は真新しいのに腰に提げる武器、足元の軍靴が刀傷やら血、泥にまみれている。つまり頭隠して何とやらの様は彼等がどこでどう生き抜いてきたのかを如実に物語っていたのだ。そう、ただの民間人に訝しまれる程に。
ただまあ、ベストとは言い難くてもベターな方法であったのかもしれない。少なくともこれより上等な脱出ルートは今の僕には描けない。
兎にも角にも、彼等はようやく心身を休ませることの出来る場所へと辿り着いたのだ。
彼等に宛てがわれた部屋は船室というより船倉に近かった。そこは足の踏み場もない程に積み荷――クローゼット、本棚、チェスト、スツール、机、化粧台といった家具の類から、毛布、衣類、更にはロープで縛られた紺や藍のブロードの風呂敷包みといったものまで――で溢れて返っていた。室内を照らすのは天井に吊られた一個のランタンのみだった。
だがこんな有り様でも、こんな場所でもどれだけ良かったか。ここには目の前で斬り合う敵味方もいない。すぐ脇へ撃ちこまれる砲弾の爆風もない。巨体を従えて突っ込んでくる敵艦の舳先も、突如として落下してくるマストの先端も、肺と喉を苦しめる煙も、頬に跳ね飛んでくる火の粉も、……ここにはもう一切無い。無いのだ。
艦船にいた時以上に揺れ軋む、そして窮屈極まりない船室の中で、どうにか中央にスペースを作り、そこへ張ったハンモックに身を横たえていったミサス達。彼等がその胸一杯に抱いた失意ごと深い眠りに落ちていったのはそれから間もなくのことだった。
* * *
時はまた少し流れて、同日夜半。
ミサス達は部屋の中央へと持ってきたダイニングテーブル――小さめのものを無断借用している――を取り囲んでいた。ちなみに彼等のすぐ後ろには積み荷が迫っているので、皆椅子を使うことも出来ず立っている。例外は扉を背にしていたヨウだが、用意した椅子の上に立っているという意味では同じだった。
その彼等の足元では、時折思い出したように床がゆっくりと僅かに傾いていく。踵に感じていた体重が爪先の方へぐうっと移動し、といった具合に。当然その変化に伴い、天井から吊るされたカンテラも小さく振れた。
カンテラの火は弱い。そのオレンジ色の薄暗がりへと七人は顔を寄せていた。彼等の手元、テーブル中央にあるのは一枚の地図。
スタンフォークがある半島のすぐ左を指差したバニルが説明していく。
「知っての通り、俺達が乗ってるこの帆船は半島の東沿岸を北上してる。
このまま順調にいけば、明日の夜明け前にはこの付け根の辺りに着くそうだ」
ラモンが質問を挟んだ。
「この船はそこで乗り捨てられていくんですかね」
「捨ててくかどうかは聞かなかったが、少なくとも海岸伝いに東へ、とは考えてないそうだ。
つうわけで俺達もこれから先のことを確認しておきたいと思う……」
バニルは地図の路線をなぞりつつ説明する。
「シダクへ帰る道は大きく分けて二つある。
一つはツロイス経由で最短距離を北上する東側ルート。
もう一つはフェンザム経由でベルラッド方面へ出てからシダクに至る西側ルート」
東側ルート、西側ルート……聞き覚えのある言葉に僕は頭を捻った。
バニルの話は進む。
「俺等がこれから行くのは東側ルートだ。
理由は幾つかある。
一つ目はクロイン側の動き。
彼等の防衛拠点は半島の西側、つまりフェンザム側に多い。
従って兵力の再結集を図る彼等はフェンザム側へ後退すると考えられる。
二つ目はフウス側の動き。
フウス側が半島の北へ攻め寄せたとしても、その進軍はツロイスで鈍ると思われる。
そこより北は山岳地帯だからな。
更に考えてみると、
クロイン側がツロイスを落とされた場合、それを奪還するには
兵に山越えをさせなきゃいけなくなるってことだから……。
フウス側がツロイスを落とした後は
フェンザム方面へ転進していく可能性も割とあるんじゃないかって思う」
説明の後半をマアヴェが言い換えた。
「つまり私達からしてみるとツロイスより北側へ逃げ込めるかどうかが勝負ってことだね」
「ああ。
昨日海戦の勝敗が決したことで、この先鉄道の運行がどうなるかは分からない。
けど、それは西側も北側も同じだ。
ならあとは危険な障害物が少なそうな方を通っていこうってことだ」
僕はシダクでネムの父から話を聞いた時のことを思い出していた。
あの時点で既に物資や人員が前線の西側へ集められつつあるという状況になっていたのだ。ということはクロイン側もフウス側もフェンザム方面へ戦線を移動させていったということなのだろうか。……いやしかし、その前の段階でツロイス方面で一戦あったのかもしれないし。
と、発言しようもないことを考えていたところでふっと思い当たった。
……そうだ。ネムの父の言葉だったのだ。東側ルート、西側ルートという単語は。そしてあの時感じた既視感はこの時の記憶によるものだったのだ……うん。
一人納得している僕に気付く筈もなく、バニルは三つ目の理由を加えた。
「あとはラモンの行先がサンタニアだということにもよる。
これは勿論昨日になってから追加された理由だが。
ともかく頭数が増えるのは有り難いからな」
初めて聞いたのだろう。マアヴェが意外そうに言った。
「へえ、ラモン君南部出身だったんだ」
ヨウも続いた。
「段々近付いてきたね。でもまだもうちょっとかかるか」
ラモンが慌てて否定する。
「あ、いえ。親類の家があるんです。
実家に帰っても親はいませんし。
前から親しくしてもらってた人なので頼ってみようかと」
「そっか……」
マアヴェがしんみりと言う。自分達と重ね合わせたのかもしれない。
やがてバニルがまとめにかかった。
「ともかくそういう感じで良いかな」
あっさりとまとまりかけたかのように思えたその時。それまで黙っていたジャンが不意に口を挟んだ。
「ゴートンとクルイの配属先は……ビンザードだったよな。
一昨日のミサスの話だとあいつらはあいつらで
バニルの知り合いの連中の力を借りて軍を抜けるって話だったけど。
俺達が西側ルートを取れば合流して一緒に帰れるんじゃねえのか?」
最後にジャンはバニルではなくミサスへ視線を移す。
ミサスは黙ったまま俯いた。と言うか、組んでいる両腕の力の入り具合からして自身の意志を押さえ込もうとしているように思えた。
代わってバニルが答える。
「まあ……そうなんだ。
ただ俺達がフェンザム方面からその先へ行くのにどれ位の日数がかかるか分からない。
あるいはゴートンとクルイがビンザードを出てフェンザム側へ来るのに要する日数も、な。
そうすると返って互いの足を引っ張る結果にもなり兼ねないんだ。
最悪クロインの戦線を突っ切ってかなきゃいけない中で
それはやっぱり厳しいんじゃないか」
「んん……。
じゃあ、とりあえずフェンザムを通過して、
どっか後方の安全な町で待ち合わせってのはどうかな?」
ジャンは食い下がる。
一方でミサスの眉間にまた皴が寄っていく。が、それでも何も言おうとしない。
結局またバニルが答えた。
「それは俺達も考えたが……」
バニルは少し言い難そうに続けた。
「単に早く無事を確認したいからってのは、この際ルート選びの理由にカウントしない方がいいんじゃねえかな……」
一見冷たい台詞にジャンがやや気色ばむ。
「あいつらのことは放っとけってのかよ」
「そうは言ってねえよ。
ただ、頭数を増やすのも危険なルートを行くからこそ意味のあることで
危険なルートを行った後に増やしてもしょうがないって言ってんだ」
「……んんん……。
何かやり方は……ねえのかな?
ミサスはどう思ってんだよ。やっぱり一昨日の話通り東ルートをって思ってんのか?」
そうなのだ。いい加減バニルにばっかり任せてないでミサスが話に参加すべきだ。バニルにしたってゴートンとは親しかったようだし、東側ルートを推すのは辛いに違いない。一方で西側ルートに拘るジャンもうっかりすると昨夜の轍を踏み兼ねない勢いだ。失敗上等でやるだけのことをやろう、少なくともそんな破れかぶれで突っ走らせてはならない。
ミサスだってそれらのことは分かっている筈だ。おまけにマアヴェからも『皆を導く』と期待をかけられたことも踏まえれば、ここはいつも通りにしっかりとリーダーシップを取るべきだ。
ややあって、そのミサスは躊躇いつつも口を開いた。
「ジャンの言う通り、ゴートンとクルイのことは心配だ。
……ただこっちはアノとヨウのことがある」
続けていくうちに、その口は重くなっていく。
「計画した通りに動いていけるかどうかだって分からない。
自分達の面倒も見切れない俺達が……ゴートン達のところへ駆け付けようとしても……」
そうしてミサスの言葉は途切れてしまった。
あるいは、ケーケの死がミサスの頭の中で渦巻いていたのかもしれない。死は近いものだった、死は簡単に訪れるものだった、そういう意識がミサスを迷わせているのかもしれない。もしも自分の判断ミスでゴートンやクルイの身に何かあったら……。今となってはその結果がリアルに感じられて怖いんじゃないだろうか。
あるいは、感情的になりかけているジャンはともかくとしても、西側ルートを切り捨てられる程の間違いを見つけられずにいるのかもしれない。
気が付けば。ミサスの苦悩を感じ取ったかのように皆俯いてしまっていた。とりわけアノは我が身を恨むようにしてその顎を胸に埋めている。
そうして沈黙に覆われた室内には、床底から遠慮がちに伝ってくる船木の軋む音と板壁越しに届いてくる穏やかな波の音だけが残った。
一度決めたら最後、もう引き返せない。誰も責任を取ってくれない。その重圧とミサスは戦っていたのだと思う。
しばらくしてミサスは組んでいた両腕を解き、両手をテーブルに突いた。
そして途中で投げ出したままになっていた言葉の先を拾っていった。
「……冷静に、見極めなきゃいけない。
ゴートンとクルイも含めて、全員が無事シダクへ生還出来る、
その可能性が少しでも高い道を」
ミサスは大きく息を吸った。その後……僅かに声を震わせて、言った。
「東側ルート。
俺達は東側ルートを行こう」
ミサスは皆を見回していく。バニルは勿論、マアヴェもアノもラモンも異を唱えなかった。
やがて最後にミサスはじっとジャンを見つめた。
ジャンはちょっとふてくされたような顔で顎を掻いた。そして後ろのクローゼットに背中を預けると渋々とぼやいた。
「……分かったよ。
ミサスもそう決めたんだったら、もう従うよ。
それにこのまま意地張ってたらマアヴェの雷がまた落ちてきそうだしな」
マアヴェがほっとした顔で苦笑いした。
「何よ、雷って。あれはジャン君のことを思ってねえ……」
「まあまあまあ、ここは一つ俺の顔を立てると思ってお二人さん」
調子よくまとめようとするバニルにジャンが抗議した。
「何だよ、最後の美味しいとこだけ持ってこうとすんなよ。
大体バニル、お前はなあ――
不意に、そのジャンの声はフェードアウトしていった。暗がりに照らし出されている目の前の空間、その中心から順に、あっという間に色褪せていく。色だけではない。形も温度も臭いも、全てが褪せていった。その漂白はバニルのとぼけた声もマアヴェの笑顔もアノもラモンも、何もかも飲み込んでいった。部屋一杯に広がっていった。
そうして最後に……僕の意識だけがそこにまだあった。無色、無音と化したその空間の中で、僕はまたあの違和感を覚えていた。ただそれはもう、大分はっきりとしたものだった。嫌悪、焦燥、多分そういった類のもの。それだけを知って、僕の意識もまた、漂白されていった。
* * *




