第六六話 岐路 十壱
やがて。ベランダから部屋へ戻っていくヨウとラモン、マアヴェと入れ違いにジャンが出てきた。
見たくないものを見てしまった、思い出したくないものを思い出してしまった彼の左手――紙箱を握り締めている左手が、パンツへ強く押し当てられていく。歯を食いしばる彼の横顔が、悲痛に歪んでいく。
そして、そんなジャンを見るミサスの背中にも一滴の脂汗が伝い降りていくのが分かった。
バニルに引かれるようにして、ミサスはどうにか部屋へ戻った。
窓際の床には点けっ放しの懐中電灯が放られてしまっている。
放った当人がいるベランダへ、バニルは呼びかけた。
「おい、ジャン。
そろそろ行くぞ!」
だが、その横顔は返事をしなかった。
僕と同じ不安を抱いたのかもしれない。バニルは床の懐中電灯をラモンに渡し、ヨウを連れて下へ行っているように伝えた。そうしてその一方で彼は、後に続こうとしたマアヴェを引き留めた。居てくれるように頼んだ。
バニルは再びベランダへ出ると、ジャンを引っ張ってきた。もう懐中電灯は無かったし、おまけにガラス戸を背にしていたのでジャンの表情はよく見えなかった。ただその声は微かに震えていたと思う。
「俺……、俺さ。みんなには悪いけど、やっぱりさ」
その続きは聞きたくなかった。言ってほしくなかった。
しかし、駄目だった。
「軍に戻るよ」
ミサスが唾を飲み込んだ。
バニルが努めて冷静に、返す。
「なに言い出すんだよ、今更。
ウォールラスで話したろ。俺達がここで出来ることはもうないって。
ケーケの為にしてやれることは、ここにはないって」
対するジャンもまた声を落とし、弱々しく反論した。
「……ケーケの為に戻ってやりたいんだよ。
あいつの為に。フウスの奴等と戦って死んでいったあいつの為に……」
ジャンはそのままふらふらと歩き出していく。直後、その右肩へバニルの手が伸び、行かせまいと掴んだ。
「あの状況だぞ、今から行ったところで何が出来るってんだよ」
「いいんだよ、何も出来なくたっていい。
ケーケの為に……。ただケーケの為に行ってやるんだ」
その名前を口にした時だけ僅かに力がこもり、ジャンは静かにバニルの手を払った。そうして唖然とするバニルを置き去り、ミサスの横も通過していく。
瞬間、ミサスの右手がぴくっと動いたのだが。その手は結局何も追わなかった。
ミサスが何を考えているかは僕にも分かり、多分そのミサスより相当にマシな精神状態であるに違いないバニルですら、もう立ち尽くすことしか出来ずにいた。
まるで昨晩のやり取りを繰り返すように、ジャンは部屋のドアへ向かって進んでいく。
結局こうなるのか。どうにもならないのか。僕がそう諦めようとしたその時。
ドアに向かって手を出そうとしたジャンの前に、マアヴェがすっ、と立ち塞がった。
しかしジャンは怯まない。
「どいてくれよ」
普段とは明らかに異なる荒んだ言い様に、彼女が冷徹に返す。
「どかない」
ジャンは項垂れた。そうして小さく呟く。
「……どいてくれって」
「どかない」
全く同じ語調で返ってきたその言葉にジャンが激昂した。
「どけってッ!!」
だが。彼女はぴくりとも動かなかった。
ただそこへきてようやく、悲痛な感情を露わにした小さな声を絞り出した。
「……行くなら、撃っていきなさいよ」
「え?」
彼女はジャンの右腰にあるそれをきっと指差して叫んだ。
「……その腰に差した銃剣で私を撃ちなさいって言ってるのッ!」
「何を……!?」
言い放たれたジャンはもとより、バニルもミサスもその成り行きを見ているだけだった。それ以外にどうしようもなかった。
死をも厭わないというマアヴェの気迫を前に、ジャンの背中は明らかに動揺していた。
やがて彼女が、その手を降ろす。そうして目の前でうろたえているジャンの、心と体の隅々へ沁み通らせるように、丁寧に、ゆっくりと言い聞かせていった。
「あなたはね、ジャン君。
あなたは、優しい人なの。そうあろうとする人なの。
友達が傷付けられたからって、誰かを恨んだり、誰かに仕返したりすることで
その悲しみを紛らわそうとする人じゃないの。
それよりも同じ痛みを抱える人の傍に寄り添おうとする人。
そもそもこんな場所へ来ていなかったら、
みんなを明るい気分にさせてくれて、楽しくさせてくれる、
そういう気遣いをしてくれる人なの。
そういう優しさをもった人なの。
あなたは本来そういう人なの」
「……」
「そんな当たり前のこと、ミサ君やバニル君、アノ君。
……それからケーケ君だって、知ってる。
ううん、あの頃のみんなだって分かってた!」
張り上げたままの声で、彼女は。やっぱり断言した。
「そんなあなたの進むべき道は、ここにいる私達と一緒に行く道以外ないの。
それ以外の道なんて絶対にないんだから……!」
その最後の言葉から一呼吸置いて、まだ足りないとばかりに彼女は鋭くジャンを睨んだ。……のだと思う。
まるで押されたようにジャンが一、二歩後ずさった。
行きたければ、私を殺してから進め。マアヴェは確かにそう言っている。
その表情は暗がりに隠れて分からない。だが声は聞こえてくる。彼女のいつにない必死さが伝わってくる。そしてそんな彼女を間近にしているジャンは、ミサスやバニルよかよっぽど、それを感じ取っている筈だった。
「……」
遂にジャンは、その場にべたっと座り込んでしまった。そうして俯いたまま、なお、誰ともなしに鼻声で言い散らした。
「だって。……だって、これじゃあケーケの奴が。
ここにケーケを一人残してくなんてあんまりだよ……」
そんなジャンを追うようにしてしゃがみ込んだマアヴェが、言葉を重ねる。穏やかに、温かく。
「あの悲しい戦場に彼はもう……いないよ。
きっとこれから先、ケーケ君は私達と一緒にいてくれる。
今私がシダクのみんなを感じられるように。
ケーケ君のこともいつかきっと……」
シダクのみんなを感じる。残念ながら現在の僕にはまだそれは出来ない。そしておそらくミサスも。
ただそれでも、何を求めたらいいのか、何に向かえばいいのかを、彼女はおぼろげながらに示そうとしてくれている気がした。
彼女は下を向いてしまったままのジャンに合わせるように、少し首を傾ける。そうして呼び掛けた。
「だから、もう一回はじめからやり直そう?
私やミサ君、バニル君やアノ君がいるから。クルイやゴートン君ともまた会えるから。
どうしたらシダクのみんなの、ケーケ君の悲しみを癒してあげられるかを考えよう?」
そうだ。終わりのない報復の応酬ではなく、別の終着点がどこかにある。
昨晩にミサス自身も触れていたじゃないか。
もう僕はただ、マアヴェの言葉に耳を澄ますだけだった。
「きっといつか、いつか必ず。
ケーケ君が心の底から笑ってくれた……って、思える日が来るから。
そんな瞬間に絶対辿り着けるから。
ミサ君と私が……導いてみせるから」
そのカウントに、慌てたような調子でバニルが付け加える。
「俺もいるよ」
ミサスがクスッと笑った。どうやらこっちはもう大丈夫らしい。
それからミサスはジャンの傍らへ歩み寄り、しゃがむ。その丸まった肩をぽん、と叩いた。
「ジャン。俺も頑張るから一緒にやってみよ。……な」
ジャンは鼻をもう一度すすると、こちらへ振り返らぬまま、かろうじて頷いてくれた。




