第六四話 岐路 九
ミサスのすぐ前を行くバニルが歩速を緩めることなく説明を始める。その声は彼の袖越しに伝わってくるのでやや聞き取り辛かった。
「今このウォールラスはスタンフォークの数キロ南にいる。
浅瀬に突っ込んだらしい」
先程の大きな横揺れはそれだったのか。
バニルは続ける。
「これはおおよその把握なんだが、
西北西へ逃げるこのウォールラスに対し
フウスの艦隊は真東、それよりやや北側から追撃をかけてきていたみたいだ」
説明の後に、日の入りと艦橋からの指示を元にしたとバニルは付け加えた。
彼の解説は続く。
「彼我の艦速に大した差はなかったみたいだな。
だがこの船の右斜め前方に小さな明かり、多分スタンフォークの城塞のだ。
それが見えてきた辺りで舵を更に北側へ変針し始めたところ、
敵の射程範囲を掠めちまったらしく被弾が増えていった、というわけだ。
結局この船はスタンフォークの近くまで迫ったものの勢いを増す敵砲に耐え切れず、
乗員の安全を優先して最も近場の海岸へ緊急避難した、という次第だ」
四人は幅広い通路に出た。と言っても二、三メートル程だが。バニルは迷うことなく左へ歩いていく。
斜め後ろに続いたミサスが小さな咳をしてから尋ね返した。
「じゃあ味方連中は……」
振り返らぬままバニルは答える。
「ああ。かなりの数がもう船を降りて岸を目指してる。
何せ後ろからフウスの艦隊が迫ってるからな。
こっちへ来る時にデッキを通ってきたんだが
まだこれから脱出しようとする奴等でかなりの騒ぎになってた。
被弾箇所から上がった炎と煙に追い立てられて大混乱さ。
勿論、指揮系統もな。
……まあだからこそ、俺達も好きに動けたわけだが」
「……すまん」
「気にすんな。
お前がいなきゃ始まらねーんだから」
「……」
「ちなみに岸までの距離はせいぜい一、二百メートルってところだ。
デッキにカッターの一隻でも残されていれば有り難いんだが」
仮にカッターが無ければ泳いでいくしかないのだろう。そうなると季節と時間帯からして寒中水泳になることは疑いようもない。衣服も体もずぶ濡れになる。上陸した先のことを考えると……やはりそれは避けたいところではある。
と、バニルが前方を指差した。
「あの階段だ。ちょっと煙が濃くなってきたな」
煤けた霧の向こうに黒っぽい影が見える。おまけにその階段の出口、つまり上の階から煙が流れ込んできている様子も見て取れた。若干ながら火の粉も降り落ちてきている。
その階段が近付いてくるにつれ、ミサスは両方の目を細め、次いで左眼を閉じていった。瞳へ張り付いてくる無数の黒い微粒子に耐えられなくなったらしい。既に瞼の裏側がゴロゴロしている。
終いには弱く浅めに繰り返していた呼吸さえも止めざるを得なくなった。酸欠のせいないのか煙に含まれる一酸化炭素のせいなのか意識が朦朧としてくる。おまけに昼間の疲労がのしかかってきたようだ。目の前の階段が歪曲し始めた。
……これは、意外とまずい状況か? と思った時にはもう、階段を登り切っていたらしい。
出たそこはもう夜空の下、つまりデッキだった。
艦内にいる時には分からなかった砲撃音が遠方から幾つも聞こえてきていたのだが、喫緊の課題は呼吸だった。幸いそれを再開し得る位には清浄な空気が残っている。ミサスは新たな酸素をどうにか補給出来た。
次いで、戻ってきた意識でもって周囲を見渡す。
最早消火は不可能だろうと思わせる程に、甲板のあちこちへ炎が燃え移っていた。
ミサス達がいる場所はウォールラスの右舷縁中央だが、そこより後ろ側の状況が特にひどい。つまり後艦橋、ミズンマスト付近、そして後ろ甲板、だ。炎がそこらかしこで手を繋ぎ互いの火勢を重ね合って、燃やせるものの全てを燃やし尽くそうとしている。あの大火では中に残っているのは精々(せいぜい)炭クズぐらいなものだろう。
それどころか、ミサス達がいるここも炎に飲まれるのは時間の問題に思える。
ああ……今触れておくべき事とも思えないのだが……。こうして状況把握をしている際にミサスの動きが少しぎこちなくなったような気がしたのだ。僕自身も同じそれに注意を逸らされたように感じたのだが。『それ』が何だったかを思い出すだけの時間は与えられなかった。
と言うのも傍にいたラモンが一声を上げたからだ。
「セーラーですッ!」
ラモンが差したのはミサス達の正面、二、三十メートル先の前甲板だった。船の先端に向かって右舷縁がカーブし始めた付近、その手摺りにセーラー二人が取り付いている。もっとも見えているのはその紺の右肩と背中だが。
奥にいるセーラーはその手摺りに右足を掛けることろだった。手前の者は手摺りに取り付けられた何かの機器、そのハンドルを回しているようだ。
甲板の惨状と人気のなさからして、あの二人が味方連中の最後尾なのかもしれない。しかも折良くカッターに乗り込もうとしている? であればまずこちらに気付いてもらう必要がある。
ミサスが『おい! そこの二人ッ!』と呼び掛けた。だがその間にも奥の彼が手摺りの向こう側へ降りていった。続いて残った一人も手摺りに右足を掛けていく。
多分、甲板を焼く炎、外板へ寄せる波、それから砲撃の音に邪魔されてこちらの声が届いていないのだ。
一転、バニルが隣にいるジャンの名を鋭く叫んだ。
だが、肝心のジャンの反応が鈍かった。呼ばれて初めて我に返ったような顔だ。その両手からバニルは銃剣を取り上げる。そして前方にいるセーラーの方へ照準を素早く合わせ……引き金をひいた。
結果、放たれた弾丸がセーラーの手元、その手摺りへ命中したらしい。顔を青くした彼がこちらへ振り返った。勿論バニルが狙ったのは彼自体ではなかったと思われる。
驚きと警戒の表情を浮かべるその男の下へ、四人は炎と炎の隙間をかいくぐり駆け付けた。
「あ……危ないではないかっ」
抗議してきた男に対し、その右肩を軽く二、三度叩いただけのバニルは手摺りへ取り付き身を乗り出す。そうしてそのままの姿勢で残りの三人に告げた。
「カッターだっ」
その言葉にミサスとラモンも手摺りへ寄っていった。ウォールラスの甲板を燃やす炎に照らされ、三、四メートル下の海面が薄暗いながらも見える。
そこには確かに一隻の小型ボートが浮かんでいた。カッター上で携帯カンテラを掲げるセーラーが一人、ミサス達を見上げている。
ラモンがほっと一息ついて言った。
「あの大きさなら自分達も乗れそうですね」
安堵の色を浮かべたミサス達へ隣のセーラーが再び抗議を重ねてきた。
「な、何も……撃ってくることはないではないかっ」
かなり恐怖させてしまったのかもしれない。そんな彼にミサスが『悪かったな』と返して質問を付け加えた。
「あんた、機関士か何かか?」
「そ……そうだ。艦内の最下層の第二エンジンルーム担当だ。
場所的に脱出が遅れたのだ」
そう答えつつも、男はジャンとラモンに先を譲ってくれた。ジャン、ラモンの順に手摺りの根元に結ばれたロープを伝い降りていく。
そのセーラーに今度はバニルが尋ねた。
「よくカッターが残ってたな」
「あ? ああ。こいつはワイヤーを巻き降ろす途中で止まってたんだ。
ギアの噛み合わせが何かの衝撃でちょっとおかしくなってただけなんだろうが。
先に行った連中は故障したと思って諦めてしまったらしい。
何せその時は敵艦隊からの砲撃もこの甲板に集中してたようだし。
大分混乱してたんだろう」
そう言いつつ彼は手摺りの手動巻き取り機を軽く叩いた。要は滑車だろう。
「そういうわけか。まあしかし助かったぜ。
すまなかったな、驚かせて……ああ、先行けよ」
バニルが男に先を譲った。そうして、バニル、ミサスも後に続く。
最後のミサスがボートに乗り込んだ後、それは岸を目指して動き出した。両脇のオールを漕ぐのはラモンだ。
一方。バニルは手早くもセーラーの一人が持つカンテラに難癖――『炎が小さくなってるんじゃないか』と訝しんでみせたのだ――を付け、それを受け取った。そうして彼は揺れるボートの上でさり気なく座り直し全員に背中を向ける。やがて頻りと調べるような仕草をしているその背中の向こうで。
船上に灯っていた唯一の明かりがフッと消えた。
それから先は、というかそれから先もバニル一人がせわしく働いた。
彼はボートの上で騒ぎ始めた二人のセーラーをなだめすかした。そうして海岸に着いた末、当然に先を急ごうとした二人に向け、ジャンの体調が崩れたとわざとらしく喚いてみせた。
結果として、胡散臭そうにこちらを見るその二人を、さらには周囲の砂浜にまだへたり込んでいた他の味方数名――ミサス達より先にウォールラスを降りて寒中水泳をやり終えた連中――をスタンフォークへ向けて先に出発させることに成功した。
どちらかと言えば狡猾さというより懸命さが滲み出て見えるような、そんなバニルの芝居にミサスはただ黙って従っていた。他方、そのミサス以上に反応が薄かったのがジャンだ。無理やり浜辺に寝かせられた彼は、大声を出すバニルにも安否を気遣うかの如く頭の傍へ両膝を突いてみせたミサスとラモンへも視線一つ返さなかった。暗がりでそう見えただけだったのだろうか。
ともかくそういうわけでミサス達は他の味方から注意を向けられることもなくスタンフォークへ向かうことが出来た。
徒歩で四、五キロの道のり。ひたすらに林道だ。
他方、既にフウスの艦隊はその標的のリストからウォールラスを外していたようだ。闇の中轟いてくる幾つもの弾着音はもうミサス達の前方からしか聞こえてこない。そして、その着弾地点に立ち上がる同じ数の白煙が四人の行く先を指し示していた。
無論、四人から数十メートルと離れていない地点に砲弾が降ってくる時もあった。細い道にはその幅いっぱいに残っている真新しい弾痕もあったし、その脇に立ち並ぶシイやブナの根元に幾つかの遺体も転がっていた。
しかしそれでも四人は足を止めなかった。ただひたすらに先を急ぐ彼等の胸の内には、やがて上陸してくるであろうフウスの連中や、スタンフォークで待っているであろうマアヴェ達のことがあったに違いない。
そうして駆け足に近い歩速で三十分強も行った頃。
左右の木々もまばらとなり、前方には微かな明かりが見えてきた。更にはその左脇に佇む民家らしき建物も。近付いていくにつれ、その家屋の向こうにまた次の明かりが見えてくる。どうやら町の端に辿り着いたらしい。戻ってきたのだ、スタンフォークへ。
その後は無人の民家と畑に沿ってうねる畦道を一、二キロ程歩き、ミサス達は市街を南北に貫くメインストリートの一つ、その南端にようやく行き着いた。
フウス側は夜を徹してでもこのスタンフォークを落とすつもりでいるらしい。艦砲射撃による着弾音、そしてそれに対抗するスタンフォーク側からの砲撃音がひっきりなしに轟き渡ってくる。その方角からして砲戦の中心があの城塞であることは間違いなかった。市街南東に位置する埠頭、そこから海側へと突き出た、あの要塞じみた建造物だ。
つまるところあの城塞が持ち堪えている間にミサス達はスタンフォークを出る気なのだろう。幸いにも四人が北進しているこの大通りにまでは敵の攻撃もまだ及んでいない。だだっ広い路上は細々とした明かりを掲げる街灯が並ぶのみで、人っ子一人見当たらない。四人の小声による会話から、マアヴェとヨウに落ち合う場所が近いことも知れた。どうやらこのままいけば、今述べたミサスの思惑通りに事は運びそうである。
やがて四人は通り沿いに聳える背の高いホテル、その脇に伸びていく小道へと折れていった。そうしてまた少し広くなった路地へ出る。そこでミサスはラモンに見張りに立つよう頼んだ。
更に三人はその通りを歩いていく。両横に並ぶのは民家ばかりである。
先頭を行くミサスの表情がやや強張ってきた。僕は遅まきながら思い至る。ラモンには見張りを頼んだのではなく遠慮を願ったのかもしれない、と。
やがて幾らも行かないうちに周りの家とは多少趣の異なる建物の前に着いた。二階建てだ。街灯の明かりは遠い。薄暗かった。
ブティックか何からしい。そうだと思ったのは入口の両脇にディスプレイ用と思われる窓が大きく取られていたからだ。もっともその窓の内側にはシャツの一枚も飾られておらず、梯子のような形をしたディスプレイハンガーが二、三残っているのみだったが。
入口の開き戸――同様にガラス製であるものの、中はカーテンが閉まっていて見えない――の前に立ったミサスは念の為か辺りを少し見た。彼等が歩いてきた方の逆側、そちらに広がるのは闇ばかりで人の気配はやはり感じられない。
やがてミサスは緊張した面持ちで、ガラス戸をコンッコン、と軽くノックする。それから僅かの間を置いてもう一度。同じリズムでノックした。
少しの間、三人の沈黙が続く。
だが。聞こえてくるのは遠方の砲撃音ばかり。中からは何の反応も返ってこない。
四人の間に流れる空気が張り詰めていく。
ミサスが右手をさっきより強く握り締めた。それを再びガラス戸の前へ持っていく。……そうしてもう一度ノックしようとしたその時。ガラス戸の奥から人の足音が聞こえてきた。それはすぐにこちらへ近付いてくる。
ややあって鍵を外す音、そして扉が開き、マアヴェが顔を出した。
「みんな!」
安堵を浮かべる彼女を見たミサスの顔からも、焦燥の色だけは除かれていった。
何も知らない彼女が続ける。
「良かった……。
ミサ君もバニル君も」
彼女はその視線を三人目のジャンで止めた。
「……ジャン君……来てくれたんだ。
ありがとう……」
嬉しそうに目を細める彼女に、ジャンがどんな表情を返していたのかは知らない。もしかしたら目さえ合わせていなかったのかもしれない。
そうして彼女は、最後にいるべき筈の仲間を求め、探した。
だがその視線の先は周囲の薄闇を徒に彷徨うことしか出来ず……やがて目の前のミサスへと戻ってきた。
その不安を湛えた瞳に直視されたミサスが俯き、消え入りそうな言葉を絞る。
「……ごめん」
「……え?」
ミサスがぎゅっと両目を閉じた。そうして、言う。
「ケーケは……」
告げるべき事実を言い表す次の言葉が、容易に出てこない。バニルとジャンもその続きを引き継ごうとはしなかった。
やがてミサスはゆっくりと目を開いた。そして顔を上げられぬまま……口にした。
ケーケの死を。
数秒の沈黙の後、ジャンが鼻をすすり上げた。
下を向いたままであるミサスの視界、その上隅にかろうじて入っているマアヴェの軍靴が弱々しく向きを変えた。その二つの踵にミサスがもう一度、苦しそうに呟く。
「……ごめん」
彼女のそれが滲んでいく。闇に溶け込んでいく。
やがてそんなミサスの耳元へ、屋内へ向けて発する彼女の声が聞こえた。
「……ミサ君も……バニル君も、ジャン君も」
鼻を詰まらせた、涙にまみれた声だった。
「……つらかったね」
その労りの言葉を、彼女は誰よりもケーケに掛けてあげたかったんじゃないかと思う。




