第六三話 岐路 八
「ワイズへリングが砲撃してきた際、本艦側へ変針することを考えなかったのか」
「考えました。
しかし四隻の位置取りから、ウォールラスに救援を願ったところで
収容作業の間に共倒れになる可能性が高いと判断しました」
分からない。
「なぜ衝角攻撃を選んだのか。
接舷後に移乗攻撃という手段を選び取れなかったことは、
貴君が冷静さを欠いていた証左に他ならないのではないか」
「接舷を実行するには時間、距離的な余裕がないと判断しました。
アイビス自身、ワイズヘリングをやり過ごす為に
リゲル少佐が微速の指示を機関室へ出した後であることも認識していました。
切迫感はありましたが錯乱していたわけではなかったと思います」
エンジンルームから響く僅かな振動音。遠くの海面で跳ねる散発的な着弾音。頭上へと落ちてくる感情を交えない声。紙面を走る鉛筆の音。
「つまりワイズへリングが沈む可能性を考慮しつつも、移乗の指示を出した」
「はい。……そうであっても無理な収容を求めるよりは両艦の
「質問にのみ答えればいい」
乾き切ってしまったミサスの瞳がただ手元を見ている。組まれた両手は指一本動く気配がない。
足元で僅かにしなる床板には消え入りそうな光が差し込んでいた。彼の軍靴にまでは届くことのない光が。
「ウォールラスがワイズへリングへ接舷にくるという事態までを想定していたのか」
「可能性の一つとして認識していました」
分からない。どうしてこんな結果になってしまったのか。
「質問は以上だ。
本件における君の振る舞いは軍規則第二十六条一項に該当する恐れがある。
ゆえに同規則第二、三項を適用し、以後はその身柄を拘束するものとする。
本艦がスタンフォークへ着艦した後、
君は戦線の後方へ移送された上で軍務審査会にかけられるであろう。
その旨、心得ておくように」
「……」
ややあって、垂れたままであるミサスの頭を冷やかなな風が一撫でした。数名の足音が遠ざかっていき、ドアが開く音。次いで閉まる音が。
バタンッ、と短く響いた。
それに反応したかのようにミサスが顔を上げた。正面のドアの裏で鍵の掛かる音が小さく響く。
背もたれもない丸椅子に腰掛けていたのだ。あとは吊り床が一つかかっているだけの、細長く白々しいだけの部屋。床を照らしている光は舷窓から深く差し込んでくる西日だったらしい。ここは当然にウォールラス艦内の一室だ。数百メートル先の海面を打ってくる弾着は敵艦隊のものだろう。
そう、戦闘はまだ終わっていない。敵艦隊の射程圏外へ逃れるべく、そしてスタンフォークへ帰港すべく、おそらく出し得る限りの全速度をもってしてウォールラスは海上を駆けている最中だ。無理がたたってエンジンルームのシリンダーが焼け付くかもしれない。もしくは艦尾外板への被弾によって浸水が始まるのかもしれない。そんな危機的状況があれからずっと続いている。
無論、乗組員へは『第一種戦闘配備』とやらが布かれている。彼等はこの窮地の中で身を竦ませながらも懸命に操艦に当たっているに違いない。
そして同じ緊迫感を抱える陸上部隊の面々もまた、艦内の一ヶ所に集められ抜刀待機を命じられていた。この先、万が一にもウォールラスに訪れるかもしれない反転の時、最後の特攻に備えて。バニルとジャン、それからラモンも臨時で再編された一部隊の中に紛れている筈だ。
けれど一人、ミサスはこの狭い室内にいる。アイビスの操艦――ワイズへリングへ衝角攻撃に踏み切ったという独断――について責任を問われたのだ。今さっき言い渡された通りに話が進むなら、どこか遠方の内地で審判に服するということになる。当然に仲間達とも別れることになる。仲間……達。
どうしてケーケが。
ケーケは……シダクで生まれ育ち、ミサス達と共にそこで人生を全う出来ることを約束されたごく普通の子供だった筈だ。腕節が強いから喧嘩や力仕事なんかの時に頼りになる、でもそれでいて仲間思いの、どこにでもいそうな、ただそれだけの子供だった筈だ。そんな彼が一体いつ、誰を傷付けたというのだ。誰の恨みを買うことが出来たというのだ。あの頃の彼、つまりミサス達とこの戦争は何の関係もなかった、絶対に。何の関係も。
どう見たって理由がない。他人へ憎しみを抱くように仕向けられる程の理由が。殺し殺されの憎しみ合いに引き摺り込まれなければならない程の理由が。あまりに不条理で、理不尽に過ぎる。
サヴィッジシールの砲郭で見た穏やかで優しげな笑顔も、ドレスバイルのナイトカフェで大事そうにオルゴールを取り出していた横顔も、ベインストックの兵舎で自身の拳をじっと見つめていた黒い瞳も、全部その理不尽と不条理の渦の中へ飲み込まれてしまった。もう二度と上がってくることの出来ない渦の底へ。
……間違っている。こんなのは何もかも、端から端まで全部間違っているんだ。全くもっていして有り得ない。どう考えようとも意味が。
分からない。
いくら悶えても脱け出せない悲しみに、答えを探し出せない問いに何時間付き合っていたのだろうか。その間、数発の被弾があったような気もするし、誰かが廊下を走っていく気配もあったように思える。だがよく覚えていない。
自分の世界に入り込んでいた僕とミサスを動かしたのは、それらと比較にならない程の激しい横揺れだった。そしてそれに見合うだけの大きな低い轟音も。
僕が気付いた時には、もうミサスの体が丸椅子ごと床へ投げ出されていた。こんな時でさえルール通りに伝わってくる激突の痛みに舌打ちしたくなる。だがやはり、それはどこか曖昧で鈍いものに思えた。
漆黒の床がすぐ目の前にあった。全身にその冷たさが沁み込んでくる。背中に感じる室内の冷気もむしろ心地いい。そして暗然としたこの薄闇も。いつの間に日が落ちていたのだろう。
やがて突っ伏しているミサスは両拳を握って自身に引き寄せた。そして首から上を僅かに持ち上げて……。しかしそれだけだった。
ぽとり、と一粒の雫が視線の先に落ちる。少しの間の後、更に数滴。
それを見た彼の拳が一層強く握り込まれる。掌に食い込んでくる爪ごと、その両手は小さく震えていた。それから肩も、背中も。
けれど次第にその震えは止み、力を込めるだけの気力もないとばかりに両拳も解かれていった。そうして垂れた前髪が床に触わり、次いで額が床に埋まっていく。
同時に虚脱感のようなものが僕の中に溢れてきた。そうなんだ。もう、いいのかもしれない。
今、おあつらえ向きに新たな着弾音とその衝撃が艦体を揺らしてくれている。鼻先には何か物が焼ける臭いまで漂ってきた。それから廊下を走っていく複数の足音、怒声。
もう、いいのかもしれない。だってケーケはもう。
死んでしまった。
ああ、そうだ。ついでに付け加えておかないと。残念ながら僕の記憶は未だ回復していない。
いや、この閉鎖的な空間を抜け出す為の出口らしきものは見つけたんだ。それは確かだ。ただどうにもその『扉』が開かない。それを開けるだけの力、つまり意志の強さみたいなものが今の僕に不足しているのかもしれない。それとも何か鍵みたいなもの、要するに記憶を失う直接のきっかけみたいなものを知る必要があるのかな……。ともかく今の僕じゃ上手くやれないんだ。
もっともそれだって、もうどうでもいいのかもしれ――
突如、何かをぶち破る激しい音が室内へ飛び込んできた。直後に小さな木片がミサスの頭へコツンコツンッと降ってくる。どうやらドアが蹴破られたらしい。流れ込んできた少量の煙と同時に、廊下の照明の光が後頭部へ差してくる。
その眩しさに目を細めつつミサスが重たそうに顔を上げた。その情けない有り様のミサスと僕を薄煙の中から見下ろしていたのは……バニルだった。
しゃがみ込んできた彼が這いつくばったままのミサスと視線を合わせる。多分ミサスの顔が涙で濡れていたからだろう。それを見た彼もつられるように鼻を小さくすすった。けれどそれでも彼はミサスに手を差し出してきた。
それから目を少し逸らし、おどけるような軽い口振りで言う。
「もうここらで終わりにしていいのかな、なんて俺もちょっと考えたんだけどな」
そこから先は一転、真っ直ぐミサスを見て、強い口調で続けた。
「あの三人を待たせっきりにしとくのは、いくら何でも寝覚めが悪過ぎんだろ」
スタンフォークの空家で不安げにミサスを見ていたアノ。安宿の屋上で勇気付けてくれたマアヴェ。そして彼女に手を引かれていたヨウ。三人の顔が次々に思い浮かぶ。
……そうだ。あんな状態のアノと子供一人をマアヴェだけに任せてしまって良い筈がない。そんなの無責任過ぎる。ここでふさぎ込んでちゃいけないんだ。
ミサスの拳が再び固く握り締められていく。
そうしてバニルへ向けてゆっくりと右手を差し出していった。
だがその手が不意に止まる。
「ジャンは……?」
そうだ。ケーケの為に軍に残るようなことを言っていたジャンはどうしたんだ。まさか彼はまだ……。
そんな僕とミサスにバニルは首を振って否定してみせた。ついで少し振り返ってその目線を左後ろへ送る。
入口の脇からのそのそと俯きがちに、小さな人影が出てきた。
……ああ……ジャンだ。バニルと一緒に来てくれたのだ。
その表情にはまだ多分な陰りを帯びている。だがそれでも彼はおずおずとミサスに切り出した。
「バニルに、言われたんだ。
……あいつの為にも、俺達がシダクへ帰らなきゃいけないって。
俺達がやるべきことは、ここにはもう……ない……って」
その途切れがちな言葉に迷いを振り払えていない様が見てとれる。
そんな彼をミサスもまた辛そうに見つめ返した。だがそれも数秒のことだ。
やがてミサスは差し出されたままになっていたバニルの手を取った。バニルがそれを力強く握り返す。二人は立ち上がった。そうとも。アノ達の下へ行ってやらなきゃいけない。シダクへ、帰るんだから。
と、廊下の一方からドタドタと一つの足音が駆けてきた。入口から顔を出して見れば息を切らしつつこちらへ向かってくるラモンが見えた。
バニルがちょっと得意そうな顔で付け加える。
「最後のゲストだ。勿論途中までだが俺達に同行すると言ってくれた」
バニルには敵わない。この時のミサスもそう思っていたんじゃないだろうか。少なくとも僕は感嘆するより他なかった。ミサスと僕がここでうずくまっている間に二人を説得してくれたのだ。そして僕等もまた、そんな彼に引っ張り上げられた。こんな時に、何てヤツだ。
ミサスはやってきたラモンに驚きと喜びが混じったような小さな笑みを浮かべている。
ラモンは咳込みつつも報告してくれた。煙が少し濃くなってきたかもしれない。
「大丈夫……です。
もう殆どの者達が退避したよう、です。誰もいません……でしたから」
彼の言葉の直後、再び艦内に強い衝撃と音がビリビリと伝わってきた。バニルが舌打ちしてミサスを見る。
「歩きながら説明する。付いてきてくれ」
ミサス達は薄く張った煙を嫌うように口元を押さえつつ、バニルを先頭に細長い通路を歩き出していく。
その廊下は両手を広げれば左右の側壁に届きそうな程に、早足に上下する頭がその天井を掠りそうな程に、狭く息苦しい。あるいは僕やミサス達の心を押し潰さんとする絶望もまた、それに与していたのかもしれない。




