第六二話 岐路 七
適当用語解説
・キャプスタン:錨鎖やマストのロープを巻き取る器具。
大型のひき臼の上面から半径方向に取っ手が何本だか
伸び出ていて、それを掴んで回すことで巻き取れます。
イメージとしてはそんな感じです。
・ベンチレーター:円筒状。通風管と同義。
・グースネック:ガチョウの首のように湾曲してるもの。
・カッター:艦船に積み込むボート
十数分前に艦尾で爆発を起こしたアイビスはその細長い艦体の大部分が海面下に沈みつつあった。僅かに顔を出しているのは舳先のみである。その大きく斜めに傾いた黒い艦首――まるでワイズへリングの右舷中程に噛み付いているかのような――も海中へ没するのは時間の問題に思われた。
そして。そのアイビスに並列するように、ワイズへリングの艦尾右舷へ接舷してきたのがスターリングである。それに乗艦していたセーラー達は大挙してワイズへリングの後ろ甲板へ乗り移ってきた。彼等はそこで戦っていたクロイン兵をあっという間に飲み込むと、その奔流のような勢いをもってミサス達がいる前甲板へも押し寄せた。お蔭でミサス達が掴みかけていた勝利の二文字は、再び逆巻き始めた乱戦の渦の中へと消えていった。つい先程まで一緒に戦っていたバニル達の姿は入り乱れる敵味方の中に紛れ、見つけようもない。
一人となったミサスは盾代わりに背中を預けていたキャプスタンの下を離れ、舳先へと少しづつ移動していった。無論、敵は通してくれない。目の前に立ち塞がる者は斬り捨てた。背後から不意を衝こうとしてくる者は返り討ちにした。
ようやく目的の場所に着いたミサスは白の手摺りを背に辺りを見回す。だが、三人は勿論のこと、小隊のメンバーすら見つけられない。
艦尾側から寄せた新手にバニル等が攻め立てられたとすれば、この舳先側へ退いてきている可能性が高かったのだが。当ては外れたらしい。
ただ敵の増援もさることながら、経過していく時間そのものに僕は焦りを感じ始めていた。つまり三人の体力を心配していたのだ。ミサス達クロイン側は既にアイビス艦内での戦闘を経ている。その上でこのワイズへリングの戦いに臨んでいた。対してスターリングから乗り込んできたフウスの新手は海戦の当初からスタミナを温存し続けてきた連中である。戦闘が長引けば長引くほど味方が、あの三人が追い詰められていくことは火を見るより明らかだった。
ミサスも当然分かっていたに違いない。いつまでもそこに留まってはいなかった。彼等同様に激戦を乗り越えてきたその体に鞭を打ち、再び強引な前進を始める。今度は右舷の手摺り沿いに艦橋側へ、つまりアイビスが突っ込んでいる箇所の方へ向かう気らしい。
そうして、それまで右斜め前に聳えていたフォアマストを真横に捉え始めた頃。つまりミサスが左手に伝ってきた手摺りの緩やかなカーブが終わった辺りで。
彼の正面、十数メートル向こうで金属が弾け飛ぶような大きな音がした。直後に何かが海面へ落下する音、水飛沫の音も。
見れば、沸き返る白波の中心にアイビスの艦首が沈もうとしていた。すぐ隣でも逆立ちした小さなカッターが同じ渦の奥へと引き摺り込まれていく。ワイズへリングの右舷縁に支索で固定されていたものらしい。
ただ、その哀れな最期に周囲の者達が視線を奪われていたのはほんの少しの時間だった。すぐに命の取り合いが再開され、ミサスもまた喧騒の端を進みだす。
争いの激しさはしばらく衰えそうもなかった。それはクロイン側がまだ持ち堪えている証でもあったのだが。
まったく、どこもかしこもひしめき合っていたのだ。敵も味方も、生者も死者も。
ミサスの数メートル先、手摺り沿いに立つベンチレーター――胸の高さ程もある灰色をしたグースネック式――の足元には、自身でこさえた血溜まりに座り込み、もう動かなくなった者がいた。その手前に並ぶ別のベンチレーター脇では、それを挟んで剣を突き合わせている者達がいた。更に手前、つまりミサスのすぐ目の前には、右舷側の手摺りからフォアマスト天辺に向けて張られた四、五本のワイヤーがあり、その根元に己の身と銃剣をからませたまま息絶えている者がいた。
その虚ろな視線を潜り抜け、セーラーを斬り、血溜まりの骸を跨ぎ、ミサスは進んでいく。巧みな剣捌きを見せてきた両腕は酸欠気味に、それを支えてきた足腰もおぼつかなくなり始めているものの、進んでいく。
そうして今度は、こちらを向いてきた銃口目掛けミサスが剣を振り上げ……!
銃剣の主は何とジャンだった。
「ミサスっ!」
「……ジャンっ」
振り上げていた剣を下ろすミサス。苦しそうに喘ぎつつも銃剣を降ろすジャン。おまけに、ジャンと背中を預け合っていたのはバニルだった。気付いた彼もすぐにこちらへ振り返った。
……良かった。
だが、その後にミサスが続けた『ケーケは!?』の問いに二人は頭を振った。そう言えば他の小隊のメンバーも見えない。
ジャンが喋るのも億劫そうに、途切れがちに呟いた。
「あいつ……一人で突っ走ってなきゃ……いいんだけど。
アイビスでの戦闘の後、『悪くねえ』とか何とか……意気込んでたから……」
同じように肩で息をするミサスがバニルと顔を見合わせる。ミサスが先に口を開いた。
「探そう。俺は右舷沿いに……来たんだ。
左舷側……はまだ見てない」
「そうか。……じゃあそっち、をぉ……ぉ!?」
応えていたバニルの足元、いや、ワイズへリングの甲板全体がぐらりと揺れた。揺れ自体はすぐに収まったものの、それだけで事は済まなかった。床自体に傾斜が付いてしまったのだ。ほんの数度だろうが確かに艦尾側へ、傾いている。
バニルがミサスを見てくる。
「……おい」
「ああ……。とにかく早いとこケーケを……探そう」
またしても不吉な予感が僕の脳裏を覆い始める。始めるが、ここはケーケを探す他ない。
今度はバニルを先頭に、次いでジャンが続いていく。ややあってミサスもその後に付いていく、筈が足を止めた。そうして何を思ったのか元来た方へ振り返ろうと身を捻り……。
「ミサスッ!」
バニルの咄嗟の呼び掛けにミサスが慌てて向き直る。すぐ先でジャンが、バニルがそれぞれにもう敵を迎えていた。しかもジャンは弾丸のストックが既に尽きていたらしい。ガチガチと軋む銃身の中央で必死に相手の刃を受け止めていた。
急ぎ加勢に入ったミサスがジャンの相手に剣を振り下ろす。避けられた。更に踏み込んでその頭上へ一撃。そうして今度はジャンと共にバニルの相手を突き殺した。
そこからはもう脇目も振らず、三人はひたすらに敵中を押し進んだ。
弾切れとなったジャンの銃剣に止まらず、バニルの剣はあちこち刃こぼれを起こしていた。ミサスのそれはこびり付いた脂に刃先が滑り始めていた。それでも相変わらず敵は横から沸き、後ろから降り、前を阻んでくる。
ミサスの心臓は悲鳴を上げ、不規則な収縮を続けてきた手足の筋肉は痙攣を起こしかけていた。そしておそらくバニルとジャンも。
しかし彼等が必死になればなるほど、僕はその先のことが気に掛かって仕方なかった。ケーケを見つけることが出来たとして、その時にこのワイズへリングはまだ動けるのだろうか。この今、足元の甲板は僅かとはいえ傾いたまま元に戻っていない。それが意味する事実は一つしかないように思える。
ともかく。そうこうしているうちにようやく左舷側の手摺りに近付いてきた。
……しかし、ケーケの姿は相変わらず見当たらない。
それでも手摺りに一方を守られ、三人はようやく大きな息をつくことが出来た。もっとも息切れも疲労も容易には回復しない。
バニルが汚れた顔を重たそうに上げ、辺りを見回しつつぼやいた。
「……ちきしょう、何でいねえん……だよ」
ミサスが最初にキャプスタンから移動した時に行き違いになったのだろうか。
ジャンが躊躇いがちに口を開いた。
「まさか……もう……」
バニルがすぐ否定する。
「んなワケねー……だろ」
「……そうだよな」
そんな二人を見つつ、ミサスが決断した。
「仕方ない、もう一度艦首側へ……戻ろう」
無難な選択だ。考えてみればケーケ自身もはぐれたミサス達を探す筈である。こちらとしても元いた前甲板を重点的に探すべきだろう。
と、進み始めようとしたミサスにジャンがストップをかけた。
「わ……りぃ、……ちょとまっ……て」
よく見ればジャンの顔は疲れを通り越して青白くなっていた。元々、その小柄な体格は接近戦に向いていない。加えてミサスやバニルと異なり一人銃剣で敵の刃を受けてきたのである。その負担は二人以上だったに違いない。
無論、ミサスとバニルも体力の限界が近付きつつあった筈だ。
加えて、幸いにも一方は手摺り、つまり海である。
ミサスはほんの少しだけその場に留まることを決めた。ただ当然に各々武器は下ろさない。ミサスとバニルはジャンを守るように間に挟む。そうして三人は、すぐ傍で戦う敵の武器がいつこちらへ向いてくるかと警戒しつつも何とか息を整えていった。
それにしても。間違いない、甲板と海面との距離がさっきより近くなっている。二メートル近くあったそれはもうミサスの背丈位にまで縮まっている。
フウス側は誰一人としてこの状況に気付いていないのだろうか。連中に目立った動きはない。甲板の上では依然として数多の雄叫びに悲鳴、けたたましい金属音、散発的な銃声が飛び交っていた。
少ししてジャンが『よし……いける』と自分に頷いた。その息はまだ切れている。
ミサスの体も相変わらず重い。筋肉も強張ったままだ。
しかし、手遅れになる前にケーケを探し出さねばならない。こうしている今も右手一本で剣を振るっているであろうケーケを。
意を決して再び舳先へ向かい始めた三人。しかし大して進まないうちに再びその前進は止まってしまった。
轟いてきたのは、ワイズへリングの艦首に対して一時の方角。遠方の海上に一発の着弾があったようである。
ミサスがすぐに耳を澄ます。……しかし砲撃音までは聞こえてこない。
そうしている間にも更に数発、同じ方角から着弾音が上がった。
音源とは僅かにずれた方向へバニルが顔を向ける。
「向こうだ……」
『それら』を認めた彼の眉間に僅かな皴が寄っている。ジャンとミサスが続いて見やった海上の遥か彼方、二時の方角には、横一列に並ぶ七、八隻もの艦影が小さく見えていた。左翼で戦っていた筈の僚艦とも、スタンフォークを出た後に分かれた艦隊とも、数が合わない。
ジャンが呻いた。
「何だよあれ……」
敵の増援。そうとしか考えられなかった。
無茶苦茶だ。無茶苦茶すぎだ。この状況、タイミングでしかもあの数。こんなんでどうやってスタンフォークへ生きて戻れっていうんだ。何だ、何から先に対処してけばいい……ケーケは……ケーケをすぐ見つけないと。けど問題は沈もうとしてるこの船と向こうに見えた敵の援軍と、それからスターリングの連中
「ウォールラスだ」
ミサスが冷静に、短く告げた。彼はバニル達と全く別の方向を指している。このワイズへリングの艦首から見て十時。要するに敵の援軍と海面の着弾点を結んだ延長線上、にその人差し指が向いている。
そうだ、まだウォールラスがいたのだ。ここで戦い続けるクロインの兵士達にとっておそらく唯一の援軍である、その彼女は大分こちらに近付いていた。距離はまだ一キロ以上あるだろうか。だが確かにこちらへ向かってきている。どうやら先程の砲撃も彼女を狙ったものと思われる。
ウォールラスの接近に気付いた者はミサスが最初だったのか、そうでなかったのか。そんなことはどうでも良かった。ただ、死地の底へと押しやられ、その登り口を探し、足掻いていたクロインの兵士達が大きく息を吹き返したことは確かだった。
もっともそれは、彼方の援軍、艦隊を認めたフウス側とて同じことで。
即ち、最後の山場を迎えた甲板上での戦闘は一気に激化した。
当然、ミサス達にも新たな敵が斬り掛かってくる。
今さっき、僅かな時間で体内に取り込んだ酸素はあっという間に消費されていった。一人斬り、次の相手を斬り、また次の敵にかかった時にはもう元の疲労がミサスを襲っていた。当然と言えば当然である。それでも、無理に無理を重ねてでも、ここは乗り切ってもらわねばならなかった。
ミサスは眼前の敵と一旦距離を取り合う。呼吸をる。
だがそれを乱すように後ろのジャンが不安げに声をかけてきた。
「……なあ」
返す余裕はない。それでもジャンは続ける。
「……弾着音、近くなってないか」
いや、標的とされているウォールラスがこちらへ近付いてきているのだ。当然の成り行きだろう。
そう思いつつも一抹の不安が過ぎる。少なくとも敵艦隊がスターリングを認識してさえいれば、砲撃はそろそろ中止されるべきだ。にも拘らずその勢いは一向に衰える気配がない。
状況の異様さを目の前の敵達も、そして味方も感じ取ったらしい。剣戟の響きの中に上がっていた無数の喚声に気の迷いのようなものが混じり始めていった。
突如として、ミサスが相手をしているセーラーのすぐ後ろを、別のフウス兵が艦尾に向かって駆け出していった。さらにその向こうでも同様の者達がちらほらと見え始める。
そして遂には、甲板上の者達の危惧を肯定するかのように、一発の砲弾がワイズへリングのフォアマスト上部に炸裂した。
上空に広がった硝煙から火の粉と木片が降ってくる。終いに、何本もの支索を手足のように従えつつ、折れたマストの先端が落下してきた。それらが床でダアァンッと跳ねる。
被弾による損傷は今更という程度だったが、被弾したという事実そのものが知らしめる意味はここで戦いに身を投じている者達に少なからず衝撃を与えたに違いない。
背中を見せる敵の数が少しづつ増え始めた。ほんの二、三ではあるが『退けッ』や『退却ッ』といった声も上がっていく。無論、いずれもクロイン側のものではない。
ミサス達にとって今の状況は窮地に違いないが、ウォールラスへの乗艦を目論む彼等にとっては好機とも言える。そういう認識を僕は抱きつつあった。
だが。戦場から削げ落ちた者達は所詮メッキに過ぎなかったのだ。
ミサスの眼前で今こちらに切っ先を向けているこの男も、周囲の敵達も、優に半数近いフウス兵がそこ――クロインの兵士達の目の前、を動こうとしなかった。
海面を打つ着弾音が響き渡ってくる。気合いの掛け声なのか悲鳴なのかも分からないもの達がミサスの耳を素通りしていく。
正面からこちらを睨み返してくる男の両目。その殺気溢れる視線が、ミサスの目元からやや下へずれた……瞬間。喉元へ押し込まれてきた相手の切っ先を横へ打ち弾く。そのままこちらへ泳いできたグレーの胸元を、返す刃で左へ斬り裂いた。男は呻き声一つ上げぬまま、ミサスの後ろへ倒れた。
留めていた息を大きく吐き出したミサスの傍へバニルとジャンが寄ってくる。そのバニルがミサスの右肩を軽く叩いてきた。
「見ろ、あれ」
バニルが指差したのは後方だ。艦橋、メインマスト、後ろ甲板で戦う敵味方のさらに奥に、スターリングの舳先右舷が見えた。それは漆黒の絶壁とでも言えばいいのか。両艦の甲板には既に三、四メートルの高低差が生じており、その断崖に垂らされた十数本のロープに数十人のフウス兵が群がり出していた。ロープを登ろうとする数人の上から数人が重なり、それすらも足場にしようと更に数人が覆い被さっていく。結果として、元の甲板や海へ落ちる者が出たり、ロープそのものが切れたりと悲惨な様相を呈していた。
しかも、その断崖自体が徐々にワイズへリングから離れ始めていたのである。スターリングの指揮系統に混乱があったのか、艦長の判断かは分からない。ともかくスターリングは砲撃の巻き添えとなることを避けるようにワイズへリングから後退しつつあった。
一方、離れていくスターリングを見届けたかのように、ワイズへリングの周辺の海面が騒がしさを増し始めていく。付近に立ち上がる水柱の数が徐々に増えていった。
信号灯での連絡に限界があったのか、不備があったのかは知らない。とにかく、新たにこのエリアへ参戦してきたフウスの艦隊にとって、元々クロイン艦であるこのワイズへリングが敵艦とみなされたままであることはもう疑いようもなかった。
艦尾側へ数度傾いたままのワイズへリング自身、後ろ甲板は海面と殆ど変わらない高さまで沈みつつある。
他方、バウスプリット付近まできたミサス達の行く手にもフウス兵が立ちはだかり続けている。さらには後方からも、スターリングを見送ることしか出来なかった連中が戻りつつある。その血走った彼等の目にはもう。ミサス達、クロインの兵士しか映っていないようだった。
ミサスの背中を預けるバニルが苦々しげに呟く。
「コイツ等……。
手前で選び取ろうとしてるモノが何か分かってるのか。
……おかしいだろ、どう考えたって」
泳いででも遠ざかっていくスターリングを追い掛けろ。的になりつつあるこのワイズへリングから早く離れろ。そう僕も言ってやりたかった。けれど。
恨んでいただろうか。
ケーケが口汚く罵っていたように、このフウスの連中もミサス達のことを、クロインのことを恨んでいたのだろうか。そうだとしたら……救いがない。救いがなさ過ぎる。
もしかしたら同じ風なことが脳裏に過ったのかもしれない。目の前の相手にとどめを刺しにいったミサスの手元が、狂った。
相手の心臓目掛けて突き出した切っ先は、手応え虚しく右端の衣服だけを貫いた。前に出過ぎたミサスの上半身を支え切れずに腰が、砕ける。グリップから左手が、離れる。すぐ真上に相手の顔が迫った。その刃が降ってくる、次の瞬間。
そいつは何者かに背中を割られ、ミサスが突いている左膝の隣に倒れ込んだ。
「ケーケッ!」
遅れて駆け付けたバニルとジャンがほぼ同時にその名を呼んでいた。続けてジャンがため息と共に零す。
「無事だったのか……」
「ったりめーだろ。傷一つだって負っちゃいねーよ」
そのあっけらかんとした顔は普段の彼とほとんど変わらなかった。いくつもの掠り傷等はあるものの深手を負った様子はない。
そこまで確認した僕もまた大きく息を吐いた(つもりだ)。やっぱりケーケだ。そう簡単にくたばるようなタマではないのだ。
バニルも軽口をたたく。
「まあ、そんなもんだろーと思ってたけどな」
「いや、それでも一応は心配しとけよ」
二人は笑い合っている。ただ、それも束の間のことだった。ミサス達を取り囲む勢いでフウス兵は数を増やしつつある。周囲も未だ乱戦模様だ。気を抜くのはここを脱してからにすべきだろう。
四人は最後の力を振り絞り、敵と渡り合っていった。
その間、ミサスは出来る限りケーケを気遣った。自身の相手を斬り捨てたすぐ後に加勢に入り、また別の相手を遠ざけた隙に彼の動きが異常ないことを確認し、といった具合に。しかしどれもが杞憂に終わった。
ケーケの右腕の筋肉はジャケットの袖がはち切れんばかりに盛り上がっていた。逞しい足腰がその攻撃に十分なスピードを与え、時には敵の渾身の一撃を難なく躱させた。懸念の種だった左手は何のトラブルも露見せぬままに、剣筋の、動作の支点としての役割を確実に果たしていった。むしろその控えめな左手の動きがあって初めて到達し得るレベルの動きにさえ見えたぐらいだ。それ程に滑らかで無駄を踏まない所作であり、とりわけ終盤で彼の勢いを止められる者は殆どいなかった。
だからこそ、ウォールラスがその艦首左舷をワイズへリングの前甲板――こちらも艦首左舷だ――に擦り付けてきた時、ケーケは四人の中で最も敵深くに押し入っていた。次いでケーケの傍で戦い続けていたミサスがいる。ジャンとバニルは更にもう少し接舷部分の手摺りに近付いていた。
ちなみにこの時点で、ワイズへリングの艦体は艦橋より後ろがもう海面下へ入ってしまっている。従って、ワイズへリング側にとっての接舷箇所、つまりウォールラスへの登り口は実質前甲板の左舷側だけだった。尚、そこに立つ者は両軍共に四、五十名程までに減っている。
依然として敵と切り結んでいるミサスの背後から、押し付けられた金属同士が擦れ合う激しく耳障りな音が上がり始める。いつまでたっても止む気配はない。ウォールラスがこのワイズへリングの左脇を通過しようとしているのだ。すれ違いざまに外板に垂れたロープを掴み取れということなのだろう。
全長百メートル近い艦体が速度を落とせるだけ落としていたとして。その通過時間、即ち接舷時間は一分かそこらしかないように思える。
もっとも七、八隻の敵艦に距離を詰められつつある彼女の焦燥を思えば、ここへ来てくれただけでも十分な働きと評価すべきだろうが。
一方、ミサスはここへきて今日一番にしぶとい敵を相手にしてしまったらしい。攻めれば退かれ、退けば追ってくる。そんな厄介な男を前に流石の彼も手を焼いているようだった。
そうこうしている間にも後ろから『急げーッ!』だの『早くッ!』だのといった声がしきりと降ってくる。
と。ミサスの目の前のその男が遂に突っ込んできた。
出し抜けに左脛目掛け振り込まれてきた相手の軍刀、の僅か先へブレードを滑り込ませる。床へ突き立てたミサスの剣と敵のそれが激しくかち合って交差した。直後、そいつの剣先に左足を乗せて踏ん張り、床に刺したブレードを引き抜く。勢い暴れた刃が向こうの左肩を斬り付け、更に右上へと流れた瞬間。刀身は反転も煩わしいとばかりに、一気に逆方向へ駆け降りた。ちなみにこのやり取りの間に二度、ミサスはグリップを持ち替えている。
ミサスは急ぎ後ろへ振り返る。数メートル先にある右舷縁の手摺り。そこへ接舷中であるウォールラスの黒い外板――三メートル程の高さはある――に垂らされた十数本だかのロープに、それ以上の数の味方がしがみ付いていくところだった。見ている間にもその絶壁ごと、左方向へゆっくりとずれていく。
「ミサスッ!」
その絶壁の手前、手摺り付近から叫んできたのはバニルだ。ジャンもいる。
ミサスは咄嗟にケーケの方へ向き直る。彼はまだ敵と剣を交えている最中だった。それを目にしたミサスはもうバニル達の方へ振り返ることなく返事した。
「問題ないッ! 先に登れッ!」
同時にケーケの相手に突っ込んでいった。
そのまま勢いを殺すことなく敵の上半身を派手に蹴り飛ばす。その先へ転がっていったそれに目もくれずケーケに叫んだ。
「退くぞッ!」
頷いたケーケに先んじてミサスは踵を返し、駆け出した。
まだその両脇で戦闘を続けざるを得ない者達を置き去りにして、使用限界をとうに越えている心臓と全身を酷使して、二人は走りに走った。
目の前の黒い絶壁はもう右端の艦尾を迎えつつある。そこに垂らされた最後のロープ。それがミサスの正面を今、ゆっくりと通過していくところだった。
ミサスは手摺りの一ヶ所を乗り越え、そのロープを右手に掴んだ。次いで引き寄せたそれを左手にも握り、右足を外板に掛ける。そうして手摺りの上に残っていた左足を引き揚げた。
右手、左手、右手と素早く登っていく。ウォールラス自身の振動でロープごとその体が左右にやや振れる。
上から差しのべられたバニルの手が届くところまで来て、ミサスは手と足を止めた。右後ろへ振り向いて甲板を見下ろす。
ミサスが踏み越えた手摺りの上に今立ったケーケが、その左手をこちらへ伸ばしてくるところだった。
外板に体を向けるミサスも自身の右腕を伸ばす。そうしてケーケの左手を掴もうと力強く握ったミサスの手を。
逃れるように、すっとその左手が落ちた。まるで糸が切れたみたいに、肩の付け根から、ケーケの左腕はぶらんと垂れたのだ。
ミサスの瞳孔が大きく開き、止まった。伸ばし切った右腕の先、握られた拳の中に残った空気はただ冷たい。
そしてその向こうには、手摺りに立ったまま俯くケーケがいた。当然に距離が生まれていく。
ケーケは動かし辛そうに、その左掌を僅かに持ち上げ、じっと見ていた。自身の意志に反したそれを、受け入れるでも拒むでもなく、ただ見ていた。
二人の間隔が少しづつ、確実に離れていく。もうミサスとケーケの間には一メートル以上の海面が広がってしまっている。
固まったミサスを一瞬でも許さないとばかりに、バニルがハンドレールから身を乗り出して叫んだ。
「跳べッ! ケーケッ!!」
その声に我を取り戻したように、ケーケはミサスを見上げてきた。ミサスと交差する視線の先で、彼の目元が僅かに綻んだ。
それからほんの数秒。上から手を差し伸べたままのミサスと、それを見上げるだけのケーケが在った。
やがてケーケは再び左手に視線を戻す。そうして、何かが吹っ切れたようにふっと小さく笑った。
そのまま後ろの甲板へ飛び降りる。こちらへ背中を向ける。あとはその左手に、たった一つの仕事をさせた。
ゆっくりと持ち上がったそれが、ケーケの黒い頭の隣で二、三度、左右に振られ。
その手が下がるのを待つことなく、抜き放った剣を掲げたケーケは雄叫びと共に、まだ甲板上で戦い続ける敵中へと突っ込んでいった。
そうなってしまって初めて、遠のいていくその背中へミサスが声を限りに叫んだ。
「ケーケッ! おいッ!!
ふざけんなッ!! ケーケッ!! ……おいッッ!」
離れていく、ワイズへリングの甲板が。
遠ざかっていく、そのダークグリーンの背中が。
目の前の敵と斬り結び始めたその小さな背中に、横から別の敵が覆い被さっていった。ろくに間も置かず、目の前の相手も突っ込んでくる。それを右手に握った剣で打ち払い、食らいついた右側の敵を力なく押しのける。そうしているうちに今度は左側から別の敵が重なり……。
それを最後に彼は甲板上へと崩れ落ちた。
このウォールラスを狙ったものなのか、それとも沈みゆくワイズへリングの前甲板を狙ったものなのか、幾つもの砲弾が両艦を隔てる海へ飛び込んでくる。
それから間もなくして、ミサスの視界の隅で大分小さくなっていたそこに一つの砲弾が命中するのが見えた。
……やがて硝煙が吹き流されたその海面にはもう炎と煙しか残っていなかった。
ジャンが頭上で何か喚き散らしている。
ロープを掴んだままでいるミサスの頬を、冷たい涙が伝っていく。
ケーケを追いやったもの。
それへ向けられた僕の感情が、黒く濁りはじめ、淀みだしていく。
そしてその変化が、記憶を失った後ではなく、以前に味わったものであることを、思い出す。
長いこと僕を閉じ込めてきた空間。探し続けてきた出口。そこを閉ざした扉の前へ辿り着いたことを、僕は知った。




