第六一話 岐路 六
・適当用語解説
一杯:船の速度です。
壊れても構わないという程度でエンジンを動かすということです。
数値に単位の付いていないものにはメートルを補って下さい。
爆ぜた風の一つがミサスの背中を突き飛ばした。乗り出していた上半身が手摺りの向こう側へ押しやられる。一方で、それを掴んでいた両手が必死に食らいついた。そうする間にも足元の甲板は揺れに揺れ、飛び散ってきた無数の破片がすぐ脇を追い抜いて数メートル下の海面へと落ちていった。
やがてそれらが収まっていく。どうにか堪え切ったミサスは手摺りの内側へと体を戻した。そして左斜め後ろへ振り返る。
視界を遮る大量の硝煙は、前艦橋のぼんやりとしたシルエットを中心に充満していた。それも風に流され、徐々に晴れてきてはいる。
ミサスはすぐ前方のワイズへリングへともう一度だけ向き直り、次いで後方の彼方――アイビス艦首に対し七時の方角――に見えるスターリングの小さな艦影を見やった。心なしかワイズへリングから砲撃を受ける前より少し大きくなっている。相変わらず続いている散発的な砲撃の着弾範囲も、このアイビスを中心に狭まってきているかもしれない。
だがミサスはいつまでもそれに捉われていなかった。薄まりつつある硝煙の中、前艦橋へと走り出していく。かと思えばその視界中央には右舷側、三時の方角の遥か向こうに浮かぶウォールラスの影を掴まえていた。その粒程の艦影は一向に近付いてきている感じがしない。
鼓膜の傍でまだうずくまっている爆音の余響、鼻腔へ流れ込んできた火薬のきな臭さ。そのどちらにもいまいち反応し切れていない僕の意識に、禍々しさだけが染み渡っていく。
前艦橋の左側壁――錬鉄製の外板――には大きく浅い窪みが二つ、三つ出来上がっていた。そのうちの一つは半円であり、上半分は窓枠を境に切り取られている。残っていた筈のガラスも全て割れ落ちていた。ドアの向こうから聞こえてくるのは喚き声一つ。
ミサスは中へ入っていく。
室内の硝煙は、外より濃かったかもしれない。その上、焦げた肉と血の臭いまで混ざり合っている。
そんな中、部屋の前方に二人の士官だけが立っていた。舵輪を握っている者、その右斜め前で伝声管に呼び掛けている者。
二人の所へ足早に歩いていくミサスの目に、遺体となって床に倒れ伏している者達が映る。恐怖を味わう間すらなかったであろうその煤けた顔に、手向けるべき言葉は思い浮かばなかった。
腰程の高さにある伝声管から顔を離した彼が、ミサスに気付いて振り返ったその時。
三人の左側、すぐ傍へ落ちてきた砲弾がダアァンッと炸裂した。とうに手遅れであると思う間も余裕もなく彼等は反射的に床にしゃがんでいた。……しゃがむことが出来ていた。爆発したのは艦橋の外側だったのだ。ほぼ同じタイミングで他の十数ヶ所、甲板やら外板やらにも被弾したらしい。艦体が再び大きく軋んで揺れた。
ミサスの目の前で四つん這いになっていた彼が青ざめた顔で、それでも早口に説明する。
「左舷後部の外板に亀裂が入ったらしい。
浸水が始まってる。手の施しようがないとぬかしてきやがったっ!
最初の砲撃でここにいた士官達はほぼ全滅だ。
スターリングだって後ろから迫ってる。
船が沈んじまう前にウォールラスに何とか合流して救援を……」
ミサスは立膝を突いて聞いていたのだが、話の途中で舵輪へ手を伸ばした。やはりしゃがんだままの姿勢でそれを握っていた士官の手を強く振りほどき、左回しに、つまりウォールラスへ向かう方角とは逆側に変針するよう舵を切っていった。ミサスの視線の先は前方に並ぶ左端の窓の向こう、空をバックに密集して立ち上っていく幾筋かの黒煙に向けられている。角度的に艦体は見えないものの、大きさ、つまり近さからいってワイズへリングのそれだろう。
ミサスは二人の士官の慌て振りを無視しつつ、右前の壁面に屈んだままの体を寄せた。そうして壁に並ぶ伝声管の中から素早く選び出した一つの蓋を開ける。他方、伸ばし切った左手は舵輪を固定したままだ。
伝声管の口に自分のそれを近付けるや否や大声を発した。
「艦橋だ。衝角攻撃へ移行するから速力を一杯まで上げろ!
急げッ!」
続いてその右隣、左舷砲列甲板用の伝声管。
「艦橋より。ワイズへリングに乗艦してるのは敵だ。
砲座は各個に応戦しろっ」
速やかに指示を飛ばしていくミサスに堪りかねたように二人が肩を掴んできた。
「正気かッ!
スターリングが後ろに迫ってると言ったろう!
この状況で前後から砲火を浴び続けたら一たまりもないぞ!」
「三千弱のとこまで来てくれている僚艦を捨ててまでして敵艦の奪取に望みをつなぐなど馬鹿げてる。
このアイビスに乗艦している二百数十名の部下の命がかかっているんだぞ。
この船が浮いていられるうちにウォールラスの後方に回り込み、
砲戦の合間に収容してもらう方がどう考えたって確実だっ」
(ミサスに余計な手間をかけさるな……!)
ミサスの視線の先は相変わらず外の黒煙にあったものの、言葉だけは返した。
既にそれはかなり近くまできている。
「そこまで長い砲戦の合間などない。
傾き始めるアイビスの甲板から二百数十名を引き揚げてもらう最中に、
そのウォールラスと共倒れになるのが落ちだ。
砲火だってワイズへリングへ移乗するまでの間だ。
ウォールラスに向かって走る距離とは比べるべくもない。」
ミサスは言うだけ言って三つ目の伝声管に顔を寄せた。プレートには第一エリアとある。
外ではアイビス側からの砲撃音も上がり始めていた。
もう黒煙がすぐ目の前まで迫って……!
「こちらは第七小隊隊長のミサス伍長である。
現在負傷中のリゲル少佐に代わり指揮を執っている。
手短に言う。
本艦は眼前のワイズへリングに乗艦している者共を敵とみなし、
これより衝角攻撃を敢行する。
各員はこの今より衝突のショックに備えよ。
その後は副隊長の指揮に従い対象艦へ突撃すること。
なお、突入後の持ち場は先程のアボルダージュにならうものとする。
討たれた同胞の無念を思え。騙し討ちされた屈辱は今ここで晴らしていけ。
同時にワイズへリングの奪還こそがこの危地を脱する唯一の道と知れ。健闘を祈るっ」
最後の言葉を早口にねじ込んだ直後、前方の舳先から走り出した雷鳴の狂騒が艦橋を貫いてきた。床が、側壁が、天井が激しく大きく振れる。立膝のまま、ミサスは舵輪に突っ伏した。あとの二人も前のめりに手と膝を突く。遺体がごろごろごろっと転がってきた。
とは言え、数十分前に体験したそれ――サヴィッジシールがアイビスに突っ込まれた時の衝撃、よりは幾分ましだったのかもしれない。
ミサスが鼻を押さえつつ顔だけ上げる。前面左端の窓、その向こうにワイズへリングの黒い艦尾が僅かに見えていた。どうやらアイビスの艦首はワイズへリングの右舷中央に食らいついたらしい。
まずは良し。これからだ。これから……。
間もなくして、ミサスの視界正面を二分するメインマストの向こう、艦首楼の入口から堰を切ったように味方連中が溢れ出てきた。怒涛の勢いで前甲板へと駆け上っていく。それを追い掛けるようにこの艦橋の両横をまた別の連中が走り抜けていった。艦尾側で待機していた者達だろう。
それらを見つつ、ミサスは両隣の二人へも指示を飛ばした。
「アンタ等は後艦橋へ行ってくれ。
向こうの連中がまだ無事だったら隊長を失った小隊の指揮担当を決めるんだ。
その後は突撃に加わってくれていい」
やや呆気にとられている二人をミサスは急かした。
「早く!」
(行けッ!)
呑まれたのは急転した事態にか、それとも即断即決を続ける目の前のミサスにか。ともかく二人は返事をして艦橋を出ていった。
ミサスはそんな彼等の背中に目もくれず、壁際の伝声管に再び取り付いていった。『一杯』と指示したばかりのエンジンルームへ新たな目標値――微速――を言い渡し、射撃を始めて間もない砲列甲板の兵卒達――左舷前側を受け持っていた連中、にはそこを退去して移乗攻撃へ加わるよう命じていく。
一方で今度は、左側にある伝声管の方から呼び掛けてきた。
『左舷……第二区画より!
浸水が止ま……ない! ここはもうダメだッ!』
若干ひび割れた声はその背後に水のほとばしるような音を負っている。ミサスが顔を寄せて応じた。
「分かった。そこはもう放棄して前艦橋へ上がってきてくれ」
と、傍の床に折り重なった遺体の山がごそごそと動いた。やがて二人が重たそうに起き上がってくる。そのうちの一人――軽い出血が見られる左側頭部を押さえている男、はリゲル少佐だった。
気を失っていただけらしい。運の良い人だ。
まだ朦朧としているように思われる彼等の意識にはばかりもせず、ミサスは現状の要点をかいつまみ伝えた。説明の最後に機関士、砲手、負傷兵等の移乗のタイミング判断、そして操舵を託す。
それで自分の役目は終わったと思ったらしい。ミサスは一人艦橋の外へ飛び出していった。当然、突撃へ加わる為だろう。
先程の二人同様、リゲル少佐達がミサスの選択に納得していたかどうかは分からない。ただそれを議論する意義と時間はなかった筈だ。
ミサスはせり上がった前甲板への階段を駆け上がり、舳先右側へと突き進んでいく。
アイビスの艦首先端、その右舷側は、ワイズへリングの右舷中央からやや後ろ寄りの舷縁に乗り上げている、かのように見えた。だが実際のところは違ったらしい。両艦がそれぞれに有している甲板同士の高低差――一メートル弱もあった――がそう見せているに過ぎなかった。ただ、今海上に見えている限りのこの様相をもってして先程の激突音を説明するのは、いささか無理なように思えたことは断っておく。
舳先を囲む手摺り、その上端は頭を垂れるように前方へ歪曲していた。一斉に踏み上ったクロインの兵士達を支え切れなかったらしい。そしてその手摺りの前では、まだ飛び込み先を決めかねている十数人が残っていた。下は相当に混み合っているのかもしれない。ミサスはその列の左端、バウスプリットの付け根近くに立ち、抜刀する。
眼下に見渡せるワイズへリングの構造はフォアとメインのマスト二本の間に設置された煙突、それから艦橋、そしてサヴィッジシールのような一枚甲板――前と後ろの甲板がせり上がっていないタイプのもの――から成り立っていた。
ミサス達が今立つアイビスの舳先。その真下に当たるワイズへリングの右舷中央からなだれ込んだ味方連中は、その戦闘範囲を二本のマスト周辺にまで押し広げてはいた。ちなみにその更に外側、つまり甲板の前部と後部には下へと続く階段が見てとれる。
敵の兵種はダークグレーのセーラー、それから紺のアンダーシャツに白プロテクターの陸上部隊が混じり合っていた。対するクロイン兵は例のダークグリーン一色である。現在の戦況は……クロイン側が押しているようにも見えるが、両甲板の端にある階段からフウス側の新手が湧き始めている。すぐに形勢を判断するには、両軍の人数がやや多過ぎた。
再び銀髪頭を探し始めたと思われるミサスの視線が、せわしなく彼等の頭上を走っていった。それからすぐだ。その視線の先、とは全く別の角度から迫った高速の弾丸がすぐ真横を突き抜けていった。えぐられたジャケット、右上腕部の布地の内側で、皮膚に走った赤い線があっという間に熱を帯びる。だが大した痛みではない。
ミサスも怯まなかった。むしろ射線が容易に交差し得るこの高台に立ち続けた己の不覚、それに対する警告ぐらいに扱ったのかもしれない。即座に身を翻した。同時に剣のグリップを握り込んだ右の逆手、その腕にもう一方の腕をクロスさせる。あとはもう、自身という的を小さく絞るかのように手足を縮めながら、その銃口目掛け飛び降りていった。
両腕の隙間から頬に吹き上げた風も、下腹部に込み上げた浮遊感も、意識出来たのはほんの僅かな時間だった。落下時に全身にかかってくる加速度。その全てを乗せた切っ先が、着地に合わせて対象の頭蓋奥へと一瞬にして押し込まれた。倒れ伏した遺骸の額を踏み付け、それを引き抜く。その際両手に絡み付こうとする感触が、僅かに残っていた落下の余韻を無下に塗り潰した。
次弾を込める暇などある筈もない。
幸いミサスの小隊メンバーはすぐに見つかった。目当てにしていたシンボルはフォアマストの影になっていたらしい。ケーケとジャンもすぐ傍で剣を振るい弾丸を撃ち放っていた。加勢したミサスがその場の戦局の流れを引き寄ていく。
そうして数分も戦い続けただろうか。僅かに空いた手の隙を縫うように、バニルが声を掛けてきた。その余裕を見せる顔も返り血と汗に汚れている。呼吸も少し荒くなっていた。
「あの状況にしては中々の……指揮官振りだったぜ」
「一応小隊長……だからな」
真面目に答えるミサスの息も切れ始めている。それでもバニルは『そういえばそうだった』ととぼけてみせた。
しかし、ミサスの鼻筋を伝っていく汗は冷たい。まだこの苦境が続くことを覚悟している、その緊張の表れだろうか。というか彼の体調に気が回る程には僕も平静を取り戻しつつあったのかもしれない。
順調だ。今のこの状況は、どうにか順調に進行していると言っていい。戦況はほんの少しづつだがクロイン側に傾きつつある。ワイズへリングの舷側砲はまだアイビスの艦尾付近を狙い撃ちしているが、それはもうどうでもいいことだ。左舷後方に迫っているであろうスターリングの砲撃も殆どなくなっている。あとはこの戦場を押し切れれば……。
そう僕が意識した矢先、アイビスの艦尾で大きな爆発音が轟いた。改めてミサスとバニルが見上げた先では、今度こそ確実に、その艦首が上向きに傾き始めていた。つまり炎と煙に包まれている艦尾側が沈みつつあったのだ。
リゲル少佐達はもうこちらへ移乗してきていただろうか。
不意に、僕の脳裏にオーストリッチと共に沈んでいった僚艦の姿が思い出されていった。ミサス達はもう戻るべき船を失ったということだ。分かっていたことだが前に進む以外に生き延びる術はない。
それを思ってか当のミサスが口を開いた。
「急ごう。
スターリングもこの先どう動いてくるか分からない。
それから左翼側、他エリアの戦況の行方も」
「だな」
バニルが頷く。二人は再び敵中へと突っ込んでいった。
ミサスは、ケーケの左側を補助し、ジャンの装填の隙を守り、バニルと共にその敵陣を切り崩していく。いつしか四人の攻防は緊密な連携を生み出し、その窮地の連続を切り抜けていった。そうして最後にはスターリングがワイズへリングへ接舷し、大勢の新手がなだれ込んできて…………。
僕とミサスは三人を見失った。




