第五九話 岐路 四
【適当な用語解説】
バウスプリット:船の最先端から前方斜め上へと突き出たマスト
フィギアヘッド:艦首像です。女神の胸像とかのやつ。
ハンドレール:手摺り
ケースメート:砲郭
砲列甲板:砲郭の隔壁がないものだと思って下さい。
舷側砲:舷側に並べられた大砲
サヴィッジシールのバウスプリットは潔くもその付け根からへし折れていた。木製とはいえ両腕で抱えられる位の太さをもっていたそれがだ。おまけに艦首の先に見えていた筈のしなやかな右腕――フィギアヘッドたる人魚がキャンドルを掲げていたのだ、は影も形もない。ぞんざいな扱いに愛想を尽かして海中へと帰ってしまったらしい。
舳先左舷はアイビスの突進を躱し切れずに内側へと押し込まれていた。錬鉄製、厚さ百十ミリにも及ぶ装甲を備えていた外縁は本来有していたであろう曲線をいびつに裏返している。
ミサスはその歪んだ舷縁を律儀に従う白いハンドレールへと右足を掛ける。アイビスの右舷前甲板は僅か数十センチ下だ。
ひらりと敵地へ乗り込んでいく彼の視界右端、数メートル下の海面には大きな影ができていた。
位置的に海面下には両艦のラムが存在する筈であり、スペース的には併存し得ない筈である。つまり海中で一個の鉄塊と化していると思われた。体当たり攻撃を旨として装備されたその突出部分が今回の激突において最大の損害箇所であることは最早疑いようもない。
ともあれ、敵側の前甲板に移ったミサスは味方の中へと分け入っていく。
サヴィッジシールに残してきたセーラー達には申し訳ないが、炎と煙から逃れられたことは一先ず有り難かった。
と、いくらも進まないうちにミサスの前進は止まった。その閉じた隙間にはかき分ける為の両手を差し挟む余地がなかった。無理に押し進めば舷側にいる味方を海へ落とすことになり兼ねない。それほどに目の前の人垣は密だった。
前方、つまり艦橋側からは激しくしのぎを削り合う者達の怒声や金属音が無数に、間断なく上がっている。無論、時には銃声も。これはどうにも非効率な戦闘だったと言わざるを得なかった。ここにいる者達はそれらを耳にして拳を握るぐらいしかやることがない。
けれど、それほど悠長に構えていられる場合でなかったことはすぐ思い知らされた。
ミサス達が立ち尽くしていたアイビスの前甲板、その左舷側のさらに向こうから二つの砲撃音が突如轟いた。割と近くだと思う間もない。
直後、艦首の方と左舷側で爆発音が上がり、ミサスの足元の床板がズウゥゥンと震えた。驚き振り向いた彼の数メートル後ろで、硝煙が風に流され視界が開けていく。デッキ床には大穴が空き、その周囲には木片と炎が散らばっていた。倒れ伏す味方の背中も見える。それらは今さっき彼がかき分けてきた背中達だった。
撃ってきたのはレイヴンの艦首が有する二門の主砲だ。僚艦がクロインの手に落ちつつある様を見過ごせなくなったのだろう。ただもう一発の砲弾は下の砲郭、おそらく主砲のケースメートへ飛び込んだらしかった。
着弾点付近にいながらからくも被害を免れた連中へミサスが矢継ぎ早に指示を出す。
「近くにいる者は負傷者をサヴィッジシールに移せ!
他の者は消火に当たれッ!」
あるいは彼等が恐怖を抱く暇を奪おうとしたのかもしれない。
ただし効果は後方の連中に限られた。ミサスより前にあって立ち止まっていた筈の人垣が少しづつ動き始めてしまったのだ。
半ばパニックを起こした前方の者達それぞれが、自身の前に立つ者の背中を押し始めたのだろう。無理もない。先程サヴィッジシールの艦内で耐え凌いだ恐怖、終わった筈のそれを今一度眼前で、かつ明確な形で味わわされる羽目となったのだから。
ともかくそういうわけで、既に最前で戦闘中の者達に多少の被害を要求しつつもクロインの兵士達は、ひいてはミサス自身も前進を再開することが出来た。それは良きにつけ悪しきにつけ、事態の進展を意味していた。
それから先、幸いにもレイヴンの砲郭は沈黙していた。その一方で今度はアイビスの後ろ甲板の方で砲撃音が上がり始めていた。白兵戦を選んだのはあくまでサヴィッジシールの勝手であり、それに付き合うつもりはないというアイビス側の意思表示だろうか。やむを得ずといった具合にサヴィッジシールの後部砲郭の方で応戦の轟音が上がり始める。
両者の間隔は互いに砲手の顔を見合える程に近くなっていた筈だ。その恐ろしい接近戦はどう考えても長くもつわけがなかった。
やがてミサスは前甲板の後ろ端まで行き着き、再び行く手を阻んできたハンドレールに取り付いた。
今ミサスが立っている前甲板は、中央甲板より一階層分せり上がっていた。後ろ甲板も同じ造りである。フォア、メイン、ミズンという三本のマスト、それから一本の煙突、二つの艦橋に至るまで全てが中央甲板にあった。
クロイン側は現在前甲板の制圧を終え、中央甲板にある前艦橋の手前辺りまでねじ込んでいた。
この前甲板の真下にある船室、艦首楼の開け放たれた木製扉の中からも剣をぶつからせる音が聞こえてくる。
ミサスは迷わずハンドレールを乗り越え、二メートル程下の中央甲板へと飛び降りた。そのまま室内へと進入する。中でやり合っていたのはフウス側のセーラー二人とクロイン側の二人だ。
ミサスは両の手で柄を握り込む。その右上腕部を口元へと引き寄せつつ、最も近くにあったグレーの背中へと無言で向かう。腰を落としつつ息を小さく溜めた後に、対象のすぐ右斜め前に向かって。
ダンッ、と大きく踏み込んだ。抜け掛けに鋭く振り下ろした切っ先から床へぱっと血の花が咲く。歩を止めることなくもう一つの背中へ突き進む。足を速める。その歩きざま、こちらへ振り返った首筋から左斜め下に斬って落とした。どちらも即死である。
肉、骨、臓器を区別なく走った刃先。両手を伝ったその生々しい感触はやはり耐え難いものだった。
ブレードにこびり付いた血を払っているところへ、残った二人が抜き身の剣を逆手に控えて駆け寄ってきた。ミサスに礼を述べつつ一人が教えてくれる。一応顔見知りらしい。
「助かりました、伍長。
バニルさん達は自分等の隊と共に
下層の左舷側にある砲列甲板の制圧に向かいました。
そこの階段です」
言われてミサスが見てみれば、部屋の左隅に下へと降りる階段が見えた。同時に右側の階段と部屋の奥へと続く扉も視界に入る。そして彼が来る前から床に倒れ伏していた別の遺体達も。それを目にした彼の鼓動が少し早くなる。
ケーケ達は無事だろうか。
ミサスが頷くと、二人が先導するように左端の階段へ向かった。当然後に続く。
迷わず艦首楼内へと入っていったミサスにはどうやら当てがあったらしい。おそらく小隊の持ち場は事前に伝えられていたのだろう。
急ぎ階段を降りていった先でも戦闘は既に始まっていた。幅三、四メートル、長さ三十メートル程の細長い室内で三十人強が斬り結んでいる。かなり窮屈な乱戦模様を呈している。ミサスは階段の途中で足を止め、低い天井ぎりぎりのところから全体を見渡していた。
ここも上と同様に床から天井まで木製だ。左舷側、つまり海側には四角いくり抜き窓と舷側砲が一定間隔で並んでいた。にも拘らず、至るところで斬り交えている黒や茶、ときにはブロンドといった頭と白刃の光もまた、総じて左舷側に寄っていた。反対側の壁面を避けるよう、そちらには誰も近付こうとしないのである。当然、その壁沿いに綺麗な通路が出来上がっていた。
理由はすぐ知れた。問題の壁面は棚一杯に置かれた砲弾で黒一色に埋まっていたのだ。万が一そちら側に倒れ込みでもして砲弾の信管を作動させたら大惨事になるというわけだ。同じ理由で誤射や跳弾を恐れてか銃を使っている者も少ないようだった。随分とまあ危険な戦場を割り当てられたものである。
ミサスはそんな不満をおくびにも出さず、ひたすら目を凝らす。やがてその視線は室内前方にちらっと見えた銀髪頭で止まった。ここには同じ髪の色の者はいなかったんじゃないだろうか。こういう場合便利なことこの上なかった。
階段を降り切ったところでは、既にミサス達に気付いた敵のセーラー一人が斬りかかってきていた。先に降りていた二人が応戦しつつ、まだ段上にいるミサスに呼び掛ける。
「ここは大丈夫ですからっ。
伍長はバニルさん達のところへ行って下さい!」
ミサスは『すまないっ!』と答え、床に飛び降りると同時に砲弾側の通路を駆け出した。走りつつ目を細めた先、バニルと背を預け合うラモンの顔をどうにか見分けることが出来た。だがここから確認出来る範囲ではそれが限界のようだ。
顔の横から飛び出してきた軍刀を剣で弾き、脚へと突き出された銃剣を躱しつつミサスは駆けていく。
ケーケとジャンはまだ見えない。おそらく彼等の近くにいる筈なのだが。
残る距離は僅か数メートルというところまでミサスが来た辺りで、その先にいたバニルが渡り合っていたセーラーの軍刀を跳ね除けた。バランスを崩したその懐へバニルはすかさず入っていき、袈裟斬りにする。
その、動作の終わりを狙った別の敵の軍刀をミサスの剣先が下から弾き上げた。更にもう一歩踏み入り、その刃を横なぎに深く払う。額を割られたそいつは仰け反ってその場に倒れた。
「ケーケとジャンはッ!?」
叫んだミサスにバニルが大声で返す。バニルがここまで高揚しているのは珍しかった。
「下だッ!
アイザーとレックス達もなっ。
此処はいい!
行ってやってくれッ!!」
ミサスは返事をする間も惜しみ、再び駆け出した。もっとも階段はすぐ先だ。
息を切らし始めたミサスの中で、僕は微かな不安を抱き始めていた。メイアでキルとクリスを探して走り回った時もこんな気持ちだった。いつだって嫌なものだ、本当に。
ミサスは狭い階段を駆け下りていく最中、先程と同様に室内を眺め下ろした。上に比べてやや薄暗くなっただろうか。倉庫のようだった。部屋の長さはさっきの半分程だったが、幅が倍以上あった。おそらく艦幅と同じだけあるのだろう。
部屋の両側に大樽と木箱が幾つも積まれている。乗員達の食料や飲み水らしかった。
戦っている者達の数は……さっきより多いか同じ位か。
だが今度は目当ての頭を見つけられない。仕方なくミサスは階段を降りた。
斬り合う味方に加勢することもなく、ミサスはその間を縫うように駆けていく。
どこだ。……どこに。…………早く、早く見つけないと。
いない……………いないっ。 ………………い……。
ミサスの足がぐっと止まる。
いた!
十数メートル先、部屋の隅の方に背中を預け合うジャンとケーケが見えた。敵はセーラーが三人。
二人の無事な姿に一安心した僕は直後、別のことに気を取られた。僕と同様焦りを感じ始めていた筈のミサスが足を止めたのも多分それのせいだった。
ケーケの左腕。それは傷を負う前と何ら変わらずに動いているように見えたのだ。
ただそう思ったのも束の間で、その後すぐ事実を理解した。柄を握る左手にはやはり力が入っていない。にも拘らずその腕の重みを切っ先の方向転換時に限って利用しているようだった。ある時はブレードに付き過ぎた勢いに流されることに抗う右手に付き合わせ、また別の時には相手の刃を受け流す際の太刀捌きを手伝わせ、といった具合に。
けれどそれにしたって、あの左腕はそこまで素早い反応に付いていくものなのだろうか。嬉し過ぎる誤算に僕は思わず舌を巻く。
しかも今、敵と向き合うその横顔は大胆不敵にも口元に笑みを浮かべたではないか。
それに気付いたミサスも負けじとするかのようにニッと笑った。不安と焦りが吹き飛び、体中に力がみなぎっていく。収まり切らなかった分は無意識の咆哮となって室内に響き渡った。躍動する四肢は弾丸の如くミサスを加速させ、そのまま敵中へと突っ込ませた。
突如上がった叫び声に意表を突かれ、敵が慌てて振り返る。ギョッとした顔が眼前に迫った。
挨拶がてらとでもいうようにその一人を斬り伏せ、ミサスはケーケの隣へ躍り出た。後ろのジャンが息を切らせつつもまだ十分に張りのある声で余裕を見せる。
「へへ。
遅いぜ、隊長」
「すまん」
ミサスは答えつつちらと横目にケーケを見る。集中しているのかその視線は正面の敵を見据えたままだ。しかし口元には相変わらず太太しい笑みが零れていた。
ともかく、よく持ち堪えてくれていた。本当に。
と、不意に艦内が揺れた。一度だけだ。次いで微小な圧が体にかかってくる。方向からしてアイビスが後進を始めたようだった。サヴィッジシールがまだ無事であるなら両艦は互いから逃れ始めたということだ。そういえば後方から響いてくる砲撃音はいつの間にか無くなっていた。
何がどうなっているのか分からなかったが、ミサス達がその活路を開くにはこのアイビスを制圧するしかないということだけは確かだった。しかも出来る限り、早く。
「少し急いだ方が良いらしい。
二人とも、まだやれるか?」
ミサスの問いに背後のジャンが力強く答え、ケーケが無言で頷く。聞くまでもなかった。
直後ケーケが飛び出していく。
それからものの数分の間ではあったが、三人、中でもケーケはその豪勇を遺憾なく発揮した。この室内における個人戦闘の勝敗は、彼等に近いところから先に決していったのだ。つまりそれは、この三人が自分等の目前の敵を真っ先に倒し、その近くにいた味方へ優先的に加勢していったということを意味していた。アボルダージュの前、グレスリーがその激励の中に含めた『力戦奮闘』を文字通りやって見せたのだ。
ただ僕は、その乱戦がミサス達の手によって終息された後に一抹の不安を覚えていた。ケーケが示した強さ――見ているこちら側に左手を怪我していること等微塵も意識させなかったその強さ、は何ていうか……勇敢に過ぎる……悪く言えば身を省みない、そんな危うさをはらんでいたように感じたのだ。昨日彼が安宿でミサスにぶつけた台詞。『割り切ることは出来ない』というあの言葉、その『割り切れない』部分の感情を体現して見せたかのような、そんな戦い振りだった。
この部屋より一足先に戦闘を終えていたバニル達に急かされ、生き残った勝者達はそこを後にした。無論、全員がそれ相応の代償を負っていたし、二度と陽の光を仰げなくなった者も多数いた。
集団の最後尾にいたミサスが階段を登っている最中に、ふと振り返る。下にいたのはもうケーケだけだった。ケーケは血と汗にまみれたその左掌を自身の目の前で閉じたり開いたりしてみている。何だか不思議そうなものを見るような顔つきをしていた。
「ケーケ、行くぞ」
ミサスの声にケーケは視線を上げぬまま、どこか上の空で『ああ』と返事をした。
その後、艦橋側の戦闘に加勢すべく砲列甲板まで上がってきたミサス達数十名の前で、一つの事態が動いた。
左舷側の海上数百メートル先で、海を割るような爆発音が上がったのだ。
思わず足を止めた彼等は舷側の砲筒達が顔を出す、それぞれのくり抜き窓へと殺到した。見れば、敵艦のオーストリッチがクロイン側のフリゲートを巻き込み、海の藻屑と成り果てていく無残な姿が遠方にあった。
大きく斜めに傾いた甲板――それももう海上に顔を出している部分は僅かとなっていたが、は噴火口を思わせる巨大な炎と煙に覆われ、そこに生ある者の決していないことをこちらに知らしめていた。当然にそれすらも沈んでゆく。
周囲の海面には木片や外板の残骸、それにしがみついて必死に助けを求める兵士達の哀れな姿があった。そしてそれらさえも。再び起こった爆発に巻き込まれ、小さな火山弾のように空へ跳ね上がった後、四散して落ちていった。
海面に小さな水柱が立つ。その白き墓標は陸上のそれとは明らかに異なる命の終わりを寂しげに掲げていた。
窓にしがみつく味方より少し後方でその様子を見ていたミサスの表情が悲痛に歪む。
アイビスを一刻も早く制圧し、ミサス自身の、そして仲間達の活路を切り開いていかねばならなかった。
ただ、この悲壮な炎と煙の裏側には、彼等の心を再び活気付けてくれる一つの事実が遺されていた。
沈みゆくオーストリッチの爆炎と猛煙をゆっくりと迂回するようにして、クロインの装甲コルベットがその雄姿を見せてくれたのだ。勿論無傷ではなかった。むしろ幾筋もの煙を上らせ、激しく擦れた跡を残すその舳先右舷、傷んだ前甲板は、激戦を潜り抜けてきたミサス達自身とどこか似た空気をまとっていた。
ともあれ何ものにも代え難い戦友の生還に砲列甲板の彼等は大いに威勢を取り戻した。
更にはそんな彼等の元へタイミングを計っていたかのように、上の甲板から吉報がもたらされた。伝令の兵士のみならず二十数名の砲兵も同行してきている。
「伝令! ……伝令ですっ。
小隊長を務める方、何方かおられませんか」
その声にミサスともう一人の男が前に進み出た。
おそらくこちらの戦況次第でとんぼ帰りを余儀なくされることも覚悟していたのだろう。伝令の彼は大分リラックスした様子だった。そして告げる。
「リゲル少佐よりの言伝です。
本艦は二つの艦橋、機関室、及び後部砲列甲板の制圧を完了した。
同艦はこれよりサヴィッジシールの援護、即ちレイヴンの追撃に向かう。
ゆえに第七、八小隊の隊長二名は前艦橋へ来られたし。
あとの者は副隊長に従い、前部中央の第一区画へと移動されたし!」
誇らしげにそう伝えた彼の前で、ミサスの後ろにいた味方連中は一斉に歓声を上げた。




