第五八話 岐路 参
・適当な用語解説
スコッチボイラー:円缶と同義で使ってます。
石炭を燃やして中の水を加熱し
蒸気を発生させる円筒の缶みたいなもの。
四翼スクリュー:四枚の羽根を持つスクリュー。
取り舵:左に舵を切ること。の意で使ってます。蛇足で左舷という意味もある。
乾舷:海面から甲板までの高さ。
ラム:衝角と同義。
レイヴン(英語):カラス
オーストリッチ:ダチョウ
アイビス:トキ
身動きもままならぬ艦内に留め置かれ、その頭上を掠め飛んでゆく死神の鎌に首をすくめてきたミサス達。そんな彼等にとって、最後の忍耐の時間が訪れた。
艦橋から艦尾付近の機関室へと下った目標出力は最大戦速。つまり最大戦闘速度である。サヴィッジシールはそのエンジンルームをフル稼働させていく。
ちょっとした部屋程の大きさもあろうかという八基のスコッチボイラー、その下部の炊き口へと火夫達がスコップで石炭を放り込んでいく。円缶内で発生した高温の燃焼ガスが、二基ある横向きの大型シリンダー内へ勢い良く流入する。直径二メートルもある筒内で爆発的に高まった圧力は、一メートル半のストロークを持つピストンを強く押し出し、その直線運動のエネルギーがクランクシャフトを介して回転力へと転化する。結果、幾つかのギアを中継ぎにして伝播された動力が、艦尾に二基設置されている四翼スクリューの回転速度を仕様上許される最大値へと上昇させていく。
ミサス達は腰を低く落とし、開いた両足の爪先に力を込める。そうやって捕まえた通路の床を何とか離さないようにして、猛然と加速していくサヴィッジシールの中に居続けた。
ひっきりなしに艦体を震わす砲弾の激突音、すぐ傍の海面を穿つ数多の着弾音を後方へ置き去りにしてサヴィッジシールは敵中へ突っ込んでいく。
だが。その速度はターゲットの敵艦『レイヴン』の数百メートル手前でぐうっと殺がれていった。アクシデントではない。拿捕を理想とする移乗攻撃にあって、敵艦の腹にこちらの舳先右舷を食い込ませる為のやむえを得ない減速行動だった。それと同時に、艦は僅かに取り舵を切っていく。
前方に体重を持っていっていたミサス達は、それが仇となって大きくよろめいた。多くの者が武器を杖代わりに踏ん張る。膝を突いてしまった者も数名いた。けれどそこまできて、彼等の忍耐はようやく終わりを迎えた。
兵卒達の最前、デッキ付近の階段で前方を窺っていた一人の将校が振り返り、折り畳んだ右肘を振り上げる。その先の握っても開いてもいない手が、そのまま素早く弧を描いて前方へ振り下ろされた。直後、四百数十の頭上に一声が轟く。
「突撃ッッ!!」
その言葉尻は、狭い艦内で反響し合った兵士達の喚声と靴音に掻き消された。
押さえ付けてきた戦慄きと武者震い。両者が入り混じって生み出された狂気がその発露を求め、唯一の出口を目指す。兵士達は大挙して階段を駆け上がった。
集団の中ではやや後方にいたミサス達も押し合い圧し合い、デッキへと至るそれを登っていく。上から差す光の色が、煙の臭いが、ものの数秒のうちに濃くなっていった。そうして最後の一段を、蹴る。
甲板上に広がる光景に、僕は思わず息を呑んだ(気分だった)。
薄く張った黒い煙幕の向こう、前甲板のそこらかしこで火の手が上がっている。床板は所々に割れ、裂け、あるいは陥没していた。一方で、二十数人のセーラー達が消火器を抱えて走り回り、時々大声で呼ばわっている。そしてその怒声や火の粉が降りしきる中、三、四十メートル先にあるデッキ前方目掛けダークグリーン一色の背中達が走り抜けていくのだった。右前方に接近しつつあるレイヴンに接舷するのも時間の問題だろう。
ミサスはその列に加わることなく、階段を上がったところで脇に避けて立ち止まっていた。隣には今さっき号令を下したリゲル少佐がいる。無論、後から後から上がってくる者達の列は途絶えない。ケーケ達小隊のメンバーもまた、とっくに先へ行っている筈だった。
ミサスが左腕を口に当て、煤煙に潤み始めた目で艦の外を見回す。ちなみにこの黒煙にはサヴィッジシール自身が噴き上げたものも多少は含まれていたのだが、まあそれはいい。
九時から十時の間の方角、ここから四、五百メートルのところに僚艦二隻から衝角攻撃を受けた状態のまま立ち往生している敵艦『オーストリッチ』がいる。炎と煙に巻かれつつ左舷側へと傾き出したその甲板上で熾烈な白兵戦が繰り広げられていた。当然、その両舷に突っ込んだ格好の僚艦二隻も満身創痍である。互いが互いに噛み付き離さぬまま、死の底へ連れ立とうとしている。そんな凄惨な状況だった。
一方、その遥か先に敵艦二隻が見える。こちらは砲戦の真っ最中だが、まだ致命傷を負っている気配はない。相手をしているのは、自陣の中央に居座った僚艦二隻だと思われるが、距離と煙のせいでその姿を確認することは不可能だった。
他方、残る僚艦と敵艦の計六隻については、その艦影の塊と立ち上る幾筋かの煙がオーストリッチの遥か先に見えた。
ただ、現場指揮の任を負う筈のミサスが足を止めた理由はこれらではなかった。その『理由』は、サヴィッジシールの左舷舳先より一、二百メートル左にあった。
要するに、レイヴンとオーストリッチの間にはもう一隻の敵艦がいたのである。『アイビス』という名を持つ彼女はレイヴンの右舷目掛けて突っ込んでいくサヴィッジシールに対し、敵艦の中で最も早くに反応を示した。あるいは、当のレイヴンからの指示だったのかもしれない。まあついでに付け加えるなら、その時点で既に僚艦二隻に組み付かれていたオーストリッチは動きようもなかった。
ともかく、サヴィッジシールの進行方向に対してきっかり九時の方角からアイビスはラム攻撃を仕掛けてきた。
当然にミサスが気付く数秒手前でサヴィッジシールの艦橋から機関室へ後進の指示がいっていたし、デッキを駆けるクロイン兵の一部も左前方から動き出してきた巨躯と轟音に気付いてその場に固まった。だがそのいずれのタイミングも遅きに失していたのだ。
「総員、衝撃に備えろォッ!!」
艦橋のグレスリー中佐が伝声管をもってして艦内の乗員へ、前デッキ後方にいたリゲル少佐は前方の兵士達へ、それぞれに絶叫した。
直後、雷が連続して落ちたかのような凄まじき大音が大気を引き裂いていく。その数秒間、艦体を襲った激震に怯むことなくなおも前進を試みたサヴィッジシールは、自身の艦首に引っ張られるようにして零時から二時の方角へ盛大に回転した。
不幸中の幸いだったのは、サヴィッジシールの船速が十ノットまで落ちていたことだ。加速してきたアイビスはサヴィッジシールの進路に入るのがやや早かった。そのため直撃には至らず、アイビスのラムと艦首がサヴィッジシールのそれらを巻き込み数十メートル前進する結果となった。衝突時のショックによる互いの砲郭の誘爆もとりあえずは認められない。
無論、両艦に乗っていた人間は大方その場に膝か手を突かされた。
一方でレイヴンがゆっくりと後進を始め、二隻から遠ざかっていく。
立ち上がったリゲル少佐が前甲板の左舷側に迫ったアイビスの右舷を茫然と見やる。両艦の舳先は六十度の綺麗な鋭角を作っていた。そんな彼は次いで起き上がったミサスの、『少佐!』という一声で我を取り戻した。
ミサスはリゲルと共に艦橋へ振り返る。窓越しに見えるその中では、士官達が機関室と慌ただしく連絡を取り合っている様子が見てとれた。こちらに気付いたグレスリーが首を横に振る。アイビスからすぐに離れることはどうやら難しいらしい。
この時点で両艦には選択の余地が一応あった。一つは白兵戦を始めること、もう一つは肉薄したこの至近距離で砲戦を再開すること、である。
乾舷はアイビスよりこちらの方が五十センチ程高かった。加えて互いに舳先を突き合わせている接合部分には、三、四人が一度に乗り移れる位のスペースがある。
向き直ったリゲル少佐が素早く判断し、左手に持った片手剣を空にかざしてから力強く振り下ろした。同時に前方の兵士達へ大音響に叫ぶ。その切っ先は真っ直ぐにアイビスの艦橋を指していた。
「目標艦を変更するッ!
衝角攻撃を選んだ敵艦の無謀を
白刃と銃弾でもって存分に教えてやれッ!
進めェェッ!!」
鬨の声が甲板を埋め尽くす。兵士達は起き上がった順に舳先目掛けて走り出した。一度水を差された戦場が再び熱気を取り戻してゆく。
ミサスは集団の後方を追い掛けていく一人の兵士を掴まえて早口に指示した。
「艦橋に伝えろ。
移乗攻撃の対象を見ての通り変更したから
後進と砲撃は戦況に従うようにとな」
敬礼した兵士を置き去りにして、ミサスは舳先へと駆け出していく。
既に先頭の連中はアイビスの前甲板へ乗り移っていた。そしてそこにはアイビスの艦内から出てきたフウス兵が群がり始めている。
(……これが最後となりますように)
誰かの思惑の下に人の命を奪うのは、これが最後となりますように。そう祈るような気持ちで僕は呟いていた。




