第五三話 夜空 前編
ミサスとアノを乗せた無灯の自転車は夜道を行く。道端の電灯が時々思い出したように路面を照らすものの付近に民家は無い。あぜ道は平坦だがたまに小さな窪みがあるらしい。自転車のハンドルとサドル越しにその衝撃が伝わってくる。
辺りは背の低い木々が一面に生え渡っていた。幹も細い。オリーブか何かだろうか。
十分程もそんな道を進み、やがて自転車は一軒の平屋の前で止まった。板塀で囲われたずっしりとした建物だ。家人は既に就寝中らしい。明かりが点いていない。平屋の隣には納屋らしき建物もある。どうやら農家のようだ。周囲には相変わらず畑と電灯しか見えない。
自転車を先に降りたアノはバックパックを背負っていた。彼は帯剣している。対して剣のみを背中に負ったミサスが先立って庭へ入っていく。二人とも例のダークグリーンのジャケット姿だ。
どう見たって建造物不法侵入というやつだ。もしかして盗みをはたらく気なのだろうか。……驚くべきことに僕の予想は当たらずとも遠からずだった。
躊躇いがちなアノと正反対にミサスはずかずかと進んでいく。そうして一角にある出窓の前に立った。腰程の高さまでは漆喰壁になっている。彼はそこで建物全体を見渡しながら言う。
「ここだな」
それだけだ。『お邪魔します』の一言もなかった。背中の剣を鞘ごと手に取る。そしてやにわに、その先端で窓を強く突いた。ガシャンッ、とかなり派手な音がして窓が砕き割られる。ミサスは左手に剣を携えたまま、他方の手を割れた窓の奥へと突っ込んだ。家人は寝ているのではなく、いないらしい。これだけの音にも人が起きてくる気配はなかった。
右手に小さな突起を掴み、カチッと音を立てて窓の鍵を開ける。窓を開けたミサスは迷わず桟に片足を掛け、中へと上がり込んでいった。まだ躊躇っているアノに手招きをして、彼を引き入れる。
それら一連の動作は今まで僕が接してきたミサス達の倫理観とは相容れないものだった。ドレスバイルにあって仲間達はディアンの不正を罵り疎んじていた。ベインストックでミサスは民間人の避難を考慮に入れて作戦を練っていた。この変化が意味するものは……。
明かりも点けずに屋内を一通りチェックした後、ミサスは後ろを付いてきていたアノの両肩を掴み手短に伝えた。
「俺達は三日の内にお前を迎えに帰ってくる。
万が一誰も戻らなかったときは
スタンフォーク市内の病院にいるマアヴェを探せ。
まかり間違っても俺達のことなんて気に掛けるな。
敵が来る前にマアヴェを連れて
このイカれた場所から離れるんだぞ」
アノは暗がりで戸惑いがちに頷く。ドレスバイルからここへ来るまでに自身のことで相当悩んできたのではないだろうか。彼は少しやつれて見えた。ミサスは言い聞かせる。
「それから、味方側の兵卒達にも注意しろよ。
見境のない馬鹿な奴等もいる。
絶えず外に注意を払っとけよ。
……まあ、人のこと言えた義理じゃないけどな」
ミサスは割れ散ったガラスの破片に目をやり、苦笑いする。呆気なくも会話はそれで終いだった。彼はその破片の上を踏み歩いていき、桟に手を掛ける。
「ミサス!」
背中にかろうじて届いた不安げな声に、ミサスは振り返らなかった。
ただ動きを止めて、言う。
「……やれるだけやってみるから。
みんなの無事を祈っていてくれよ」
桟に掛けたその右手は微かに震えていた。彼はそれを左手で強く押さえる。そうしてまた同じ窓から出ていった。
やはりここはスタンフォークだった。ということはまだライン湾海戦の前だ。それもミサスの口振りから察するに前日か前々日の夜。やはりアノをドレスバイルへ置いてくることは出来なかったようだ。これではケーケもきっと共に来ているのだろう。だが彼はここへ同行していない。それはつまりあの左腕で参戦する気でいるということなのだろうか。
ミサスは来た道をまた自転車で戻っていった。
そうして一時間近くかけて、彼は市街に入った。
軍港スタンフォーク。地図に名前が載るだけのことはある。その規模はそれまで僕が見てきた町の中で群を抜いて大きかった。ドレスバイルにあったような大通りが何本も市街を突っ切っている。そしてその端から端までを照らす街々の明かりは夜空の星を一箇所に集めたかの如く眩かった。
そこらで見かけるのはミサスと同じ軍服姿の人間ばかりだ。私服姿の者は少ない。市民は戦火を恐れてここを離れてしまったのだろうか。
ミサスは中心街を避けるように市街外れへと自転車を漕いでいく。やがて彼は二、三階建ての安宿が立ち並ぶ細い通りへと入っていった。そしてそのうちの一軒の前で自転車を止める。彼は少し表情を強張らせていた。今より少し先に控えている何かに向けた緊張。それは明日以降に開かれる戦端などではなく、もっと間近にある何かだった。
彼は宿へ入っていく。木製の狭いカウンター内に人はいなかった。階段を上がり、二階の一番奥の部屋へ。
扉を開けると、中には見慣れたメンツが揃っていた。ジャン、バニル、そして左腕を吊っているケーケだ。とりあえず良かった。ケーケは無事だ。ここにいないマアヴェは市街の病院にでもいるのだろうか。
部屋の裸電球はどう見てもその期待に応えられていなかった。部屋の左半分を何となく埃っぽい感じの二段ベッド二つが占めている。加えて絵画や花瓶の一つも無い殺風景な室内。白壁は薄暗く黄ばんで見え、何て言うべきか、寂れたバーみたいな雰囲気を漂わせていた。
唯一設置された娯楽、壁に掛かったダーツをやっていたジャンが手を止める。そしてミサスに首尾を尋ねた。
「大丈夫だったか?」
「ああ。
バニルが仕入れてくれた情報通り無人だった。
近くに民家も無かったし
あそこなら二、三日ぐらい身を潜めていても大丈夫だろう」
言いながらミサスは冷蔵庫を開ける。生温い炭酸水の瓶を取り出した。
ベッドの下段に座っているバニルが言う。
「もう周辺の農家も粗方逃散してるみたいだ。
後は俺等の小隊の上官を脅すなり欺くなりすれば
アノのことはどうにかなるだろ」
やはりアノを戦場へ連れていかないつもりなのだろう。
ジャンはダーツを中央寄りのテーブルに置き、ミサスに改まって聞いた。
「で? 話って何なんだ。
もう明日か明後日には出港なんだろ、俺達」
ミサスは炭酸水を一口飲んでからテーブル傍の椅子に座って答えた。
「ああ。
もうフウスの艦隊の一部は向うの港を出たらしい。
このままいけばスタンフォーク近海で
明日か明後日にでも派手な海戦に突入するだろう」
ミサスの解説にケーケが左腕をさすりつつ意気込んだ。彼は部屋の隅に寄せた椅子に座っていた。
「船の上ってのがちと面倒だが。
アノの落とし前だってつけてやらなくちゃな」
やはりケーケは戦闘に参加する気なのだ。
ジャンが、表情を曇らせてケーケを見る。
「なあ、ケーケ。
今回だけは、お前止めておいた方が……」
「ああ? バカ野郎。
これぐらいフウスの犬共とやるには丁度良いハンデなんだよ」
「ったく……ホントに怖いモノ知らずだな、お前は」
呆れ顔のジャンを見上げるようにしてケーケは『へっへっへ』と笑った。
この先を知っている僕に言わせればケーケを気遣うジャンもまだどこか危機感が足りていない。この後の海戦を皮切りにクロインの戦線は一千キロ以上も後退することになる。部隊も半壊したと聞いている。これから訪れるその急場を片腕で乗り切るなんていくらケーケでも無茶というものだ。
ミサスやバニルはこの先をある程度想定している筈だ。二人はケーケをこのまま戦場に行かせる気だろうか。説得する気はないのか。
……だがそんな風に考えていた僕でさえも、次のミサスの発言に唖然となった。
彼は空になった瓶をしばらくじっと見ていた。
やがて目を閉じてゆっくりと息を吐いてから、座っていた椅子の上でぽつりと零した。
「……もう。
終わりにしないか」
他の三人がミサスを見る。ジャンとケーケは『何の話をし出したんだ』という顔をしていた。一方でバニルはある程度予想していたみたいに視線を下に落とした。
柱時計の秒針が無表情に時間を数えていく。そんな中で最初に口を開いたのはジャンだった。
「終わりって……何のことだよ」
ミサスはジャンに向かって言った。
「俺達がシダクから、
……町を焼かれたあの日から続けてきた。
この、戦いのことだ」
「なっ……。
何を言い出すんだよ、いきなり。
冗談……だろ?
はは……出港の前に俺達の緊張を和らげようって魂胆か?
相変わらず上手いんだから、もう。
……な、なあケーケ?」
ジャンが笑みを浮かべつつケーケを振り返る。だがケーケは笑わなかった。ケーケはミサスをじっと見ていた。それを見るジャンの顔も徐々に引きつっていく。ケーケが自身の感情をそこに押し込めたような、重苦しい声でミサスに聞いた。
「……どうして。
どうしてそんなことを言い出すんだ?」
ミサスはケーケを見て答える。
「アノの症状は知っての通りだ。
ケーケ、お前だって……。
その左腕じゃ満足に剣を振るえないことは
自分が一番分かってるだろ」
口を開こうとしたケーケの前にジャンが割り込んだ。
「いやでもさ……。
俺達にはミサスが。
ミサスがいるじゃないか。
それにバニルだって。
お前等二人がいてくれたからここまで戦ってこれたんだぜ。
こっから先だって
お前等がベインストックの時みたく悪知恵働かせてよ、
どうにかこの戦場を切り抜けて……」
まだこの期に及んで事態を楽観視しようとするジャンにミサスは言い放った。
「……もう。
……もうそんな小手先の対応でどうにか出来る段階は
とっくに過ぎてるんだ。
このまま続けてったら、いつか……いつか……」
ミサスの差し迫った顔にジャンはたじろぎつつも、まだ信じられないという風に聞き返した。
「……だって、だってよ。
これから軍船に乗って明日、明後日には出港するんだろ。
意味分かんねえよ……。
脱走するって……言ってんのか……?
大体……ゴートンとクルイはどうすんだよ。
あの二人だってまだ戦って……」
ミサスはジャンからの二つの問いに対して説明を始めた。
熱のこもり始めた話し振りに自然と彼の手が付いていく。
「勿論あの二人にも知らせるさ。
バニルの手の者達の力を借りれば
こっちほど労せずして戦線を離脱できる筈だ。
俺達もなるべく早く実行すべきだが、
今のタイミングでやるのは
味方に追っかけてきてくれって言ってるようなもんだ。
行動に出るなら、海戦の直後しかない。
今回の戦いは必ずクロイン側の惨敗で終わる。
戦線が混乱した機に乗じれば、軍を離れられる筈だ。
アノとマアヴェにはもう伝えてあるんだ。
戦闘から帰り次第、決めた場所で落ち合って
そこから皆で……
一気に捲し立てていたミサスの言葉を、そこまで聞いていたケーケがにべもなく遮った。
「理由は。
それだけなのか?」
ジャンはあまりの出来事に理解が追っつかないという感じだ。一方でバニルは腕を組みあくまで冷静な目をしている。
ケーケは……ケーケはやっぱり納得なんかしていなかった。その暗く思い詰めた表情は以前彼がベインストックで見せたそれと全く同じだ。多分ケーケはアノの症状ではなく自分の左腕の怪我を指して、『だけ』と言い切ったのだ。室内が薄暗いせいで彼の顔は余計に沈んで見える。
ミサスはケーケの一言に振り出しに戻された思いだったかもしれない。
改めて彼に向かい、『違うっ』と強く否定した。
『分かり切っているだろ』、そう言うようにミサスはケーケの目をじっと見る。
「……ディアンの話を聞いたろ。
ドレスバイルで後方搬送を要請した時の
上官の理不尽な返答を伝えただろ?
ベインストックで後軍や本営のふざけた対応を見てきただろ!?
俺達が……俺達がこんなとこで命を散らすべき理由なんか
一欠片だってありはしないんだよっ!!」
ジャンが項垂れつつも苦虫を噛み潰したような顔をする。
やはりミサスは散々溜め込んできていたのだ。考えてみれば当然の成り行きにすら見える。状況を人一倍把握していた彼だからこそ、周囲の人間達の保身や栄達に走る様が余計に目に余っていたに違いない。
だが。
ケーケは承服しなかった。彼はミサスから視線を外し、言った。
「そんなことはこの際……
いや……初めっから関係ねえんだよ。
俺は誰かに命令されたから
ここまで戦ってきたわけじゃない。
……親父やお袋。
…………故郷を出る羽目になった妹のアーサ。
そして……シダクの仲間達。
ガディンに……キヅラ。ネムに……ザンドロ……」
最初ケーケはその名を呼んだ者の顔を一人一人思い出しているみたいだった。だが次第に語気は荒くなり、記憶に先行して旧友達の名前が溢れ出していく。
「エレナにルーフ……ナクィナ。
……メリアにロッカ、トルエータにリサ、アルキオ、カチェル!
ジェダンにライド、モック、バレンにフィリアッ!!」
重ねた分だけ悲痛さを増し、それでもなお言い尽きない。
「……マリーに……ピサ……!
そして……ミサス、
お前のことを他の誰より信頼してた……」
彼はそれまで並べ立てた者達への思いまでも全て上乗せするかのように言葉をため、最後の一人を数え上げた。
「……ススだっ!!
他人の大切な者を奪うという行為が
許されることなんて絶対有り得ない。
それをフウスのクズ共に教えてやらなきゃいけないんだっ」
素手に握り込んだ刃を決して離すまいとしているかのようだった。あるいは、骨深くまで食い込んだそれはもうケーケ自身どうすることも出来なかったのかもしれない。
ミサスが立ち上がり、首を振って悲しげに言い返す。
「……マアヴェも言ってただろ。
恨みを晴らすことばかりが、
あの頃のあいつ等に報いる道じゃない。
きっと、別のやり方がある。
こんな終わりのない殺し合いなんかじゃなくて何か別の道が。
それを……それを俺がこれから、必ず見つけてみせる。
……必ず。
だからケーケ、お前は俺とこの先も一緒に行くんだ。
……なっ」
「見つける……って。
お前、ススの言ってたあれの話をしてるのか」
「ああ、当然それだって考えてる。
けどそれだけじゃない。
このくだらない戦争を終わりにする方法を
シダクに帰って考えるんだ。
そうしよ、ケーケ」
ミサスの哀願を受け、ケーケは自分の膝元に目をやった。握った右拳が僅かに開きかけた。しばし時が流れる。
だが。彼はその迷いを振り払うように強く首を横に振った。そうして顔を上げた時、もう彼の目には何かの覚悟が宿っていた。
「……ダメだ。
俺はお前やマアヴェみたいに
きれいに割り切ることは……出来ないっ!
ミサス……、
お前こそ自分の罪悪感を拭いたいだけなんじゃねえのか」
ケーケはミサスを見上げる。
「五年前。
故郷や仲間達、さらには周辺の都市までをもすべて灰にした……
あの一連の、空襲の原因」
(え……)
「あれは
俺達のせいだったんじゃ、って。
未だにお前は
心のどっかで疑ってるんだろ!?」
(どういう……こと……)
ジャンが心配そうにケーケを見た。
「おい、ケーケ……」
黙りこくったミサスに対し、ケーケが更に続けたセリフは僕を一層驚愕させた。
「シダクを含むフロック地方南部がターゲットにされたのは
あのロアが裏で絡んでたんだって思いたいんだろ!」
(何故ここで、あの男の名前が……)
ケーケもまた立ち上がり、ミサスに訴えかけた。
「俺だってススが出鱈目を言ってたなんて
思っちゃいねえよ。
けど……けれどあの後、残ったみんなで探したじゃないか。
そして結局何も出てこなかった。
それが結論だったろ?」
ケーケは苦しそうにミサスを見て、続けた。そこから先は言葉を発している彼自身がつらそうに見えた。
「ミサス、お前は……。
お前は、スス達のためと言いながらも結局は、
罪滅ぼしをやってるんだって気になれる
一番楽な方法を選び取ろうとしてる。
そういうことなんじゃねえのか……?
そんな自己満足で
あいつ等の思いを汲んでやることが出来るなんて
俺には思えないんだよ!」
そこまで言い切ると、ケーケは吊っている方の肩にジャケットをかけ、扉に向かった。
「ケーケ!!」
ミサスの呼びかけに応えることなく、彼は扉を激しく閉めて出ていった。
やがてジャンがゆっくりと立ち上がる。そして笑顔に悲しみを滲ませて、ミサスを見て言った。
「お前の言いたいことも分かる気がするけどな……。
……けど。
あんな姿になってまで『戦場に残る』って言い張るあいつを
放ってはいけねえよ。
……まあ、ちょっと心配だから見てくる。
……ごめんな、折角打ち明けてくれたのに」
ジャンもまた、出ていく。
ミサスがそんなジャンを止めようと右手を伸ばす。だが、その手の向こうで扉は静かに閉まった。それでも二人を追い掛けるべく扉に向かうミサスの肩にバニルが手を置いた。
「これ以上お前が追っかけていっても話は平行線だ。
ケーケだって言葉のまんま
お前を責めてた訳じゃないと思うぜ」
「けど、このままじゃ」
「わーてるって。
後は俺が二人を説得してみるから。
お前はもう休んでおけよ。
アノを送ってきて疲れてんだろ」
バニルはミサスをベッドに座らせる。と、不意にドアが開いた。
『ケーケかジャンが戻ってきたのか?』
そう思った二人が視線を送った先に立っていたのはマアヴェだった。




