第四二話 帰郷 伍
日は既に沈み切っている。僕とカジはすっかり暗くなったシダクの山深くへと分け入っていた。幸い斜面は然程急でない。雨も上がっていた。町中であれば月も見えた筈だ。
町中であれば、だ。常緑樹なのだろう。背高くうっそうと茂ったカシやシイの枝葉の遥か下、僕等がいる木々の根元からその光を仰ぐことは出来なかった。勿論植生はそれらに留まらない。疾うに茶色い葉を落としているものもあれば山吹に色付いたそれをまだ手放さないものもあった。道なき道を急ぐ僕等の前に彼等はずんと立ちはだかる。おそらく昼間ならそれら木立の先をある程度見渡せたに違いない。
僕の後ろから登ってくるカジはもう何度か樹木と正面衝突していた。二人で一つの懐中電灯しか持ち合わせていないのだから妥当といえば妥当な結果だが。
「なあ、明日で良かったんじゃねえのか。
何もこんな暗くなってからよ……」
僕は歩みを止めなかった。カジは至極当然な突っ込みを続ける。
「しかも
あの爺さんの言ってたのは『山小屋』だろ?
それがマアヴェの言ってた『秘密基地』とは限らねえだろ」
僕は自分の顔にかかってきた小枝を払いのけ、進む。
「……」
「作ったのだってきっと子供の頃の遊びだろ?
何年も残ってるとは
思えねえよ」
闇の奥に見えた影の塊に光を向ける。足は勿論止めない。
「……」
「おまけにこんな幾つもある山ん中を
見当も付けずに歩き回ったってよ……」
違った。ただの若木だった。
「……」
「それによお……。
……おい。
なあってば」
「……」
僕は急に立ち止まった。カジが僕の背中にぶつかって、二、三歩下がる。残念ながら彼の体重を受け切れなかった僕も前へ少しつんのめった。
僕はそのままカジの方を向かずに言った。
「カジさんは先に町へ戻ってて下さいよ。
無理言ってるのが僕だってことは分かってますから……」
カジが黙る。分かっている。強引だ。無謀過ぎる。あまりにも儚いつてだ。
けれどもう、他に当てがない。
少ししてカジは言った。
「……前のめりになるなって。
悪い癖だぜ、お前さんの。
それに俺が気にしてんのはこの強行軍紛いの探索よりもだな……」
そういえばロマウナを出る時も何か言おうとしていた。僕は振り返った。傾斜のおかげで僕とカジの顔はほぼ同じ高さにあった。
「何だっていうんですか。
どうせ腹が減ったとかそんな……
そこまで言った僕の口に、さっと左手を当てカジは『しっ』と小さく言った。そして聞き取れるかどうかという小声で続ける。
「お前は気付いてなかった
みたいだけどよ。
ロマウナに入ってからこっち
どうも誰かに見られてるんじゃないか……ってな」
どういうことだ。確かにそんな視線は全く感じていなかったけれど。僅かに触れるカジの掌から緊張が伝わってくる。自然と僕も身構え、帯剣を腰に固定する留め具へと右手を持っていった。パチンとそれを外し、鞘ごと構える。
風も無い木々の中、静寂が辺りを支配する。僕はゴクリと唾を飲み込んでから、耳を澄ました。
……そう。物音だ。
確かに。聞こえてくる。いや、近付いてくる。落ち葉を踏む小さな足音。微かな息遣い。闇の中、確かにそれはこちらを目指し、真っ直ぐに向かってきている。
出来れば鞘から抜かずに済ませたいとこだが、この期に及びそんなことを気にしている場合じゃないのかもしれない。走行中の汽車にあって夜襲を受けたあの恐怖が蘇ってくる。敵の息遣いはかなり荒くなってきた。そしてその足音もはっきりとすぐそこまで――
不意に、二メートル前の茂みが揺れたと思った。
……!?
その影は僕のタイミングをずらすように、まだ長く残るその距離を一息に跳んできた。意表を突かれた僕は精一杯の反応でそいつと自分の間に剣を割り込ませる。直後その重みと勢いに堪らず尻もちを突いた。肩に爪が食い込んでくる。肉迫したそいつの生温かい息が顔にかかり、頬をざらっとしたモノが撫でていく。ぎゃっ!
「カジっ!早、く……こいつをっ!
……って……ん?」
爪は食い込むという程でもなかった。そいつは組み伏せた僕を襲うでもなく元気良く一声鳴いたのだ。『……オンッ!』と。反射的に閉じていた目をゆっくりと開ける(そんな条件反射をしておくなという突っ込みはヤメてくれ)。すぐ目の前には、黒いつぶらな瞳があった。い、ぬ。ボーダーコリーだ……黒の。
そいつはもう一度鳴いてから僕の鼻を舐めてくる。呆気に取られつつカジが見下ろしてきた。
「何だコイツぁ……」
「ッつ。
何でも……良いから……。
早く、こいつを……どかしてっ。ぎやっ!」
どうやら、僕は犬が苦手らしかった。だが困惑する僕に構うことなくソイツは頻りに吠えて顔を舐めてきた。そんなことは百も承知だ、そう言っているみたいに。雄、体高五十センチといったところか。見れば毛並みはそれ程良くない。年も若くはないだろう。野良犬だろうか。
彼をどかしてくれつつ、カジがにやりと笑った。
「犬が苦手だったとはな」
起き上がりつつ僕は皮肉ってやった。
「……そんなことより。
カジさんを見てた視線ってコイツだったんじゃないですか?
いくら何でも素人の僕に犬の視線まで察知しろってのは
ちょっと無理な注文だったなあ」
「んがっ。
いや、おかしいな、俺は確かに……」
頻りに首を捻るカジに『行きますよ』と言って僕は先に歩き出した。
何だったんだ、人騒がせな犬だ、ホントに。
犬はカジの後に続き付いてきた。と思っていたらカジを追い抜いた。そうして二人の間を歩いていると思う間もなく僕も追い抜き、先頭を歩き出した。しかもその行先は彼が先程やって来た方を目指すように、少しづつ針路を曲げていくではないか。僕等を引き留めるように後ろから吠えたのでは置き去りにされるだけ。それを分かっているみたいだった。そして時折振り返っては確認するようにこちらに目をやり、小さく吠えた後再び歩き出す。
そんな犬のふさふさした黒い尻尾に光を合わせつつ僕とカジは顔を見合わせた。カジが先に口を開く。
「お前、あの犬って……」
僕も目を見開いた。
「……」
もしかして……。
犬はそんな僕等を急かすように少し急ぎ足になる。基本は等高線に沿いつつも再び僅かに登り始めた感じだ。山の東側へ向かっているらしい。周囲の景色が少しづつ変わり始める。僕の胴回り位だった幹はカジのそれ位まで太くなってきていた。先程まで転がっていた拳大の石はもう見当たらずゴツゴツした岩が寝そべり始める。カジが雨露に濡れた草で足を滑らせ、僕はちょろちょろと流れ出る湧き水の上にべちゃっとこけた。
いよいよ緑は濃くなっていく。正確には闇が深まっていくと言うべきか。ともかくそんな風にして、僕等は先へ先へと誘われていった。
そうして最後に、少し平な所に出た。足元は相変わらず雑草に覆われている。
ようやく立ち止まった犬が息切れして舌を出しつつ僕等を振り返る。
犬の前方に、ひっそりと月明かりが差していた。
高さ七、八メートルはあろうかという大きく太い幹をしたシイの群れ。その足元に紛れ込むように、それはあった。
幅、奥行きは四、五メートルあるだろう。何の塗装も施されていない。風雨に晒された三角屋根の材木は傷付き、割れた窓ガラスの裏には段ボールが張ってあった。けれど、それは間違いなく『山小屋』だった。
むしろ平屋とはいえ子供達が『秘密基地を作ろう』等と言って軽はずみにこさえられる代物には見えなかった。それは太めの丸太で床を底上げされている。地面から入口の扉前の矩形スペースへと四、五段の梯子が幅広く掛けられていた。スペースといってもちょっとしたベランダ程の広さはある。そしてそこを木製の手摺と屋根が囲っている。
おまけに隣にそびえるとりわけ高い大木の腹には登り梯子まで掛けられていた。
建物を目にした僕はちょっと立ち止まった後、再び歩き出した。
五歩、十歩と歩くうちに足は自然と速くなる。気が付けば早歩きに……そして最後には走り出していた。
入口の扉に錠は掛かっていない。雨に濡れた取っ手を掴み激しく開けた。
……しん、と静まり返った室内からはやや黴臭い空気が漂ってくる。小さな裸電球が天井から吊り下がっていたのだが入口のスイッチを入れても一向に点かない。僕は逸る思いで室内の暗闇に懐中電灯の光を向けた。




