第四一話 帰郷 四
「シダクへ行くの?」
勇んでロマウナの町を出ようとしていた僕の背中を、ちょんちょんと突いてきたのは十歳位の男の子だった。実は彼の声を聞いた直後、僕は反射的に身構えてしまっていた。昨日の夜カジに『子供だけの部隊』の話をしたせいだろう。だが振り返ってみれば、そこに立っていたのはごく普通の男の子だった。アノを小さくしたらこんな感じかもしれない。
『そうだよ』と僕が答えると、その子は『一緒に行ってあげる!』と言って先に歩き出した。僕とカジが顔を見合わせる。
「シダクの子か」
「多分そうですかね……」
まあ、丁度良かったかもしれない。あのお婆ちゃんに聞いた道順を忘れたわけではなかったが案内役がいてくれた方が心強いのは確かだった。『ありがとう』と後ろから声を掛け僕とカジもその子に続いた。
シダクへと続く緩やかな下り道の周りには収穫を控えたリンゴ畑が広がっていた。手の届く高さにある赤々とした大きな実は揺すれば落ちてきそうな程に熟れていた。もしかしたら僕もリーンやアノなんかとここのリンゴをつまみ食いしたんだろうか。今歩いているこのロマウナからシダクへの長い道のりを他愛もない話をしながら帰ったりしただろうか。
そんな風に思っていると、頭の片隅に何かが引っ掛かっているような、そんな気がしてくる。
猫じゃらしでそっと掌をくすぐられているような、そんな微かな感覚。僕は気付かぬ振りをしながら、咄嗟にその手を握ってみる。……だが、固く閉じられた拳の中には何の感触も残っていない。指先への意志伝達を邪魔されたせいで動作が間に合わなかったのだ。とまあ多少比喩が過ぎたけれどいつもそんな具合で何かを思い出せたためしがない。
こんなことを繰り返しているうちに、メイア以降の記憶だけで僕という人間が完成してしまう日が来るかもしれない。そしていつの間にか僕もそういう自分を苦とも思わなくなっている。そんな結末だけは何としても避けたかった。
結局、僕等がシダクに到着するまで空は待ってくれなかった。
細雨が降り始めた頃、僕等の前を歩いていたその子は振り返り、静かに笑ってみせた。世界のすべてを見透かしているんじゃないか、そう思う程に瞳の青は澄み切っている。
「シダクは
もうそこだから、僕は先に行くね」
そうだったのか。彼に見惚れていた僕は慌てて呼び止める。
「ありがとう!
君、名前は!?」
彼は僕の質問には答えず笑顔で大きく手を振り、行ってしまった。ちょっと不思議と言えば不思議な子だ。僕とカジのたまの会話にも全然入ってこなかった。
彼が行ってしまった後、僕とカジは今立っているその小高い丘の上で目を細めた。
シダクだ。
霧雨に視界はやや霞んでいたものの、ちょっとした盆地の中央に集まっている家並みが見渡せる。周囲には緩やかな勾配を持つ緑や黄緑の畑が広がり、右手の山裾から町の方へと流れていく川も見えた。その水面は静かに深い青を抱いている。そしてそれらを見守るように丈の低い山々が辺りに連なっていた。
きっと長閑で住み良い町なのだろう。ただしその家並みはもう、ベインストックで僕やクルイ達が抱いた思いを受け入れるにはどこか無理のある姿に成り果てていた。
新しい民家、無秩序に散らばった色合い。ロマウナとあまり変わり映えせぬその町並みは空襲の火から逃れられなかったという事実を僕の前にはっきりと突き出していた。ただ例の寸胴の建物が無く、痛み切った青屋根がまばらに散在していることがせめてもの救いか。
予想はしていた。だがやはり期待を裏切られた感は否めない。町を目にしただけで何かを喪失してしまった、そんな気分だった。
少しして歩き出したカジが振り返り、立ち止まったままの僕を見る。長く歩いたせいだと言い訳するには不自然な程の疲れが僕の表情に出ていたのかもしれない。彼は短く『ともかく行くぞ』とだけ言って歩き出した。
雨足も徐々に強くなるだろう。どこか雑貨店でレインコートを買った方が良い。行かないと。僕は自分にそう言い聞かせて重くなった足を前に踏み出した。
しかし、シダクの西側――昼食をした店を中心に始めたのだ――で行った聞き込みはそんな僕をさらに凹ませた。
得られた情報は、僅かなものだった。マアヴェがブライアム家という、昔ここら一帯の地主をしていた家の出であること、その父親はクロイン政府の高官を務めていたが少し前に亡くなってしまったこと。彼女の家は町の南側にあり、希に使用人等が訪れてきている気配があること。それだけだ。
当然に僕等は彼女の家を訪れた。空襲の後に再度建てられたというその白い邸宅は確かに立派なものだった。だけどタイミングが悪かったのかその使用人にすら会うことは出来なかった。
さらには、僕を知っているという住民を遂に見つけることが出来なかった。聞けばこの町は空襲の後にここへ越してきた人が大半を占めているという。『空襲当時からくも焼け残ったのは町の中でも一割程の建物、あとは山の中にある掘立小屋くらいのものだった』と町の老人が説明してくれた。
その後、僕等は町中にある古い民家へ行ってみたが既に空家となっていたその家からはやはり何の情報も得られなかった。空襲で生き残った人々の多くはその陰惨な記憶と再び起こり得る悲劇から逃がれるようにして町から出て行ってしまったらしい。
そして最後に、兵士達がライン湾からこの町へ帰ってきたという話すら聞けなかったことも言っておかねばならない。彼の地での敗戦によりスタンフォーク周辺都市に集まっていた第四、五師団は半壊したらしい。その後、後退しながらも態勢を整えつつあった前線は九月にデスニア軍から攻めたてられ再び崩壊の憂き目を見た。
そういう次第で、戦地における一般兵卒の配属情報なんぞは後方どころか前線内でさえろくに共有出来ていないようだった。
家族と家、仲間達のその後。どれ一つ満足に分からない。ここに来るまで抱いていた淡い期待はそのほとんどが無に帰していた。
だがそうなってなお、その胸の一番奥底に残った最後の希望を諦めるわけにはいかなかった。僕がかつてこの町にいたという事実。せめてそれだけでも確かめないうちはシダクを出ることは出来なかった。もうこの際、贅沢は言わない。自分が名前を書きこんだノート一冊だって良い。このままじゃ僕は記憶どころか自身の存在そのものまで見失ってしまう。
そういった経緯で、最初の方こそ遠慮がちに物を尋ね歩いていた僕も日が沈み始めたこの頃には声を荒らげていた。レインコートを上から打つ雨はすっかり本降りになっている。
「僕の顔、見たことありませんか!?
四、五年前までここにいた筈なんだ!
ミサスって名前、聞き覚えあるでしょ!?」
通りの真ん中で、空しくも首を横に振る子連れの母親を前に勢い込む。僕の剣幕に怯えた女の子が母親の陰に隠れた。見兼ねたカジが僕を羽交い絞めにする。そして後退させつつ言った。
「っだあっ!
……落ち着けって!
すいませんね。
コイツ、ちょっと気が短いもんですからね」
その年で啖呵切って軍を辞めてきたアンタ程じゃないっ。そう思いつつも僕は大人しくせざるを得なかった。得体の知れぬ者を警戒するような目を僕に向けつつ彼女達は去っていった。
俯く僕にカジが言った。
「どうしたもんか。
まだ聞き込んだ地域は半分もいってねえだろ。
次の区画へ回ってみるか」
こんな雨の中付き合ってくれているカジに礼の一つも言わず、それどころか愚痴るように僕は呟いた。
「何か……。
ホントに僕は
この町に……いたんですかね……」
本当にここは僕の故郷なのか。
それはメイアを出て以来、心の片隅で渦巻いていた非常に小さな疑惑だった。勿論、僕とシダクを間接的に繋げる証言は幾つか耳にしてきた。ロマウナにいたお婆ちゃん、それにリーンやカジ、チタンの言ってたことだって嘘である筈がない。
けれど。それでもなお、この西大陸へ来てから僕の事を『シダクにいたミサスだ』と断定してくれる人には出会えていない。
ふと前の通りを歩く人々に目を移す。雨に濡れる周囲の景色が急に揺らいできたように見えた。いや、揺らいでいたのは僕自身か。
何か、何かないのか。
夢で会った彼等の言葉を一つ一つ思い出そうと僕はその少ない記憶の奥を探る。
誰か、手掛かりになるようなことを言っていなかったか。ゴートン……クルイ……。ダメだ、特にない。アノは、ケーケはどうだ。バニルは……ダメか。ジャンは……くそっ、マアヴェのことばっかりじゃないか、あいつの発言は。マアヴェは……。
そこまで思案していた僕は、不意に『あっ!』と叫んだ。急いで踵を返す。カジが慌てて追いかけてきた。
「おい……。
どうしたんだよ、急に。
おいってば」
僕はレインコートを買った雑貨店へ入っていく。そこで小さな懐中電灯を一つ買った。今からじゃきっと夜道を行くことになる。持っていった方が良い。




