第三話 病室
リーンは紙袋から下着等を出してベッド下のキャビネットへしまい終えると、アノが佇む窓際へ歩いていった。
アノは再び窓の外を見ている。
「今日はミサスも一緒に来てくれたのよ。久しぶりでしょ、アノ君」
言いつつカーテンを結わえる。そして座っているアノの両肩に後ろからそっと手を置いた。アノはただ町並みを見下ろしている。リーンはそんなアノに構わず話を続ける。
その光景に僕は何故か懐かしくなり、二人を黙って見ていた。
「先生の許しが出たらそのうち三人で、今日みたいに天気の良い日に外でピクニックしよ。
……そうだ。またメイアの海岸が良いかな。一度アノ君も行ったものね」
アノは動かなかった。ただそれでもどうしてだか、僕には彼がリーンの声に身を委ねているように思えた。
「アノ君の苦手なものは、えーっと……ああ、そうだ。ピーマンとナスの炒め物か。ふふ」
リーンは僕に振り返り笑いかける。
「貴方は、あげたらキリがなかったわよね。赤色系の野菜、それに青魚を使った料理全般……それから果物ならミカンでしょ。あとは――
「やあ、いらしてたんですか。リーンさんにミサス君」
突然、部屋の入り口からした男の声に僕とリーンは振り返った。いつの間に来たのかレティル先生と看護婦が立っている。
リーンが丁寧に頭を下げた。
「先生。こんにちは」
「こんにちは。いつも大変ですね」
「いいえ、今日はミサスも一緒に」
そう言ってリーンは僕の方を見た。僕も遅れて挨拶する。
「こんにちは、先生」
「こんにちは、ミサス君。どうですか、体の調子は」
「ええ、特に変わりません」
「そうですか。まあ、焦らずにやっていきましょう」
それが先生と僕との決まりきった挨拶だった。もしかしたら既に僕は見放されているのかもしれない。それはそれで構わないのだけれど、ただアノは違う。
アノの診察を終えて部屋から帰りかけた先生が足を止めて振り返る。
「ああ、そうだ。リーンさん。前いらした時にお話した件ですが」
「ええ。アノの転院のこと……ですか。おばとも相談したんですが大陸の大きな病院ということになると私もこうして頻繁に見舞えなくなりますし……」
何やら深刻な顔で話す二人を尻目に僕はアノがいる窓際へ行った。アノは僕を気に留めることなく町を見下ろしている。僕もそれに倣った。
運河に沿って並ぶ赤煉瓦の屋根。教会の茶色い尖塔。広場を埋める屋台。
ただそれらを見ていても僕は何も感じなかった。いや、目に見えているものどころか今後ろで話しているリーンと先生の声さえも遠のいていく気がした。
唯一僕が意識を向けていたのは、隣に座るアノだった。
アノ。アノ。アノ……。彼の名前を心の中で反芻すると得体の知れない重苦しい感情が湧き上がってくるのを僕は感じていた。
しかしその感情の正体は間もなくぼやけてしまった。
レティル先生と看護婦が病室を去った後、しばらくの間リーンはアノに、孤児院の子供やメイアの町の人々のこと等を話し聞かせた。そうして最後に『また来るね』と告げて、僕と共に病院を出た。
傾きつつあった日が雲に隠れ、町全体が少し暗くなった気がしていた。大通りから少し外れ、僕達は家々に囲まれたような狭い路地を歩いていた。
それは、病院を出た後も続いていたリーンの、メイアの町の人々への寸評が一息ついた時だ。
僕達の前に、ぬっと二つの人影が立ちはだかった。