第三五話 暗中 伍
月はもう長いこと黒雲に飲み込まれたままだった。
線路沿いに設置された常夜灯の間隔は長い。通り越したその光が見えなくなってから、さらにまだ少し進んだ後にようやく次の、小指の先程の光を遠方に確認できる。そんな心許なさだ。電池式では、そう乱立させるわけにいかなかったのかもしれない。まあ、それはいい。
とにかく、進行方向を照らしてくれる光源として頼りにできるのは機関部先頭の前灯のみ、そんな危うい数秒間が一定の周期で訪れていたということだ。
つまり。
汽車がその『数秒間』を、時速五十キロ程で走り抜けようとしていた最中。車内の全照明は、落ちた。
二両目の中央付近でそれまで饒舌に喋っていたディアンが、突然訪れた闇に恐怖し短い悲鳴を上げる。
そしてその直後、けたましいブレーキ音が辺りに響き渡り、全車両に急制動がかかる。僅か四、五秒のうちに、それまで汽車が有していた全速度は失われた。結果、車内の人、物は例外なく前方へ張り倒された。
さながら癇癪を起した幼児が玩具箱をひっくり返したように。漆黒の空間に、悲鳴と物のぶつかる音がこれでもかという程にぶちまけられた。
僅かな間の後、二両目で最初に起き上がったのはミサスだった。したたかに打ち付けた額を押さえつつ空いた手で座席を掴み上半身を起こす。一体何だってこんなことに……。目を開けたものの、周囲は相変わらずの闇だ。慣れるまでに少しかかるかもしれない。
ミサスは床に膝をついたまま座席にもたれかかり、皆の安否を確かめるべく口を開く。
「……みんな、だいじょ
「襲撃だァーッッ!!」
怒号は後方の車両から突如響いてきた。汽車が急停止してからまだせいぜい十秒かそこらだ。何が何だか分からなかった。すでに三両目の客車の方から剣の打ち当たる音、人の悲鳴が上がり始めていた。
だが、平静をどうにか保ちつつミサスはもう一度呼びかける。彼は一番にすべきことを知っていた。
「みんな、大丈夫か」
あちこちから『おう』だの『ああ』だのといった力ない声が上がる。同時に周囲の影達はもぞもぞと起き上がり始めた。幸い深刻なダメージを負った者はいないようだ。ミサスはそれらを見届けた後、ろくに間を置かず矢継ぎ早に指示を出していった。
「バニル」
「おう」
「機関室へ。
敵が増える前に、何をしてでも汽車を発車させろ」
「了解」
バニルが腰を押さえつつ低い姿勢で手探りに側面の扉へ向かう。手狭な機関室だけは側面にしかドアが無い。つまりそこへ行くには外から回り込む必要があった。一両目にある配電盤に手を出したのが仮に敵だとしても、運転士が無事な可能性はまだある。
「アイザーとレックスはここから前方車両に侵入。
敵がいれば排除しろ。躊躇うな。
汽車が走り出したら照明を復旧しろ。
それから
車両内のどこかに伝声管がある筈だ、
機関室に呼びかけてみてくれ。
手が空くようなら後方の応援を頼む。
衛生兵の二人はディアンさんを保護しつつ
この車両内前方で待機。
銃撃に備えろ。
前の車両の安全が確認できたらそっちへ移れ」
闇の中、異口同音に了解の声が上がり、それぞれが身を屈めつつ動き出す。
それにしても、聞こえてくる喧騒は後方からのものばかりだ。前方の車両内で何が起きているのだろう。
ミサスはバニル達がそこから離れるのを見てから最後の指示を出した。
「残りは俺と後方車両へ行く。抜刀しろ」
アノとケーケが鞘を捨てる。この狭い車内では確かに邪魔だ。ジャンも両手に持つ銃剣を身に引き寄せた。三人もまた、自身の体が車窓に被らぬよう前屈姿勢で後方へ向かう。
ミサスも当然に左足を踏み出す。が、残った右足の軍靴にディアンがしがみ付いてきた。座席の間の狭いスペースに、ダンゴムシのように縮こまった影。そこから絞り出された声は震えていた。
「た……頼む……。たす、助けて……」
それは先程まで雄弁に語っていた彼からは程遠い無様な姿だった。動きを止めたミサスに他の三人が振り返る。
僕はそんな彼を蔑むよりもむしろ哀れんだ。きっと他の皆も心の内に恐怖を押し込めている筈だ。闇に視界は閉ざされ、状況も把握できぬままに行動せざるを得ず、その状況は間違いなく悪化しつつある。彼等は今、二つのエリアの境に引かれたラインの上を、固唾を呑む思いで歩み始めたのだ。転ぶ先を間違えれば、死ぬ。竦み上がるその後ろ姿を非難できる筈もない。
だが、前方車両から不意に聞こえてきたバンッ、という重い音に弾かれたようにミサスはディアンの手を振り払った。多分あれは車外へ向けて扉が開く音だ。当然その間、後方の騒ぎは静まる気配がない。ミサスは自身を拝み倒しているようなその丸い影に言い聞かせた。
「貴方は彼女達の傍にいて下さい。
そこが今、この車内で最も安全な場所です」
ディアンが『本当に?』という表情で顔を上げた時、四人の影はもうそこになかった。前方車両へも二人の隊員が突入していく。
ミサス達四人は二両目の後ろ扉付近まで来てから立ち上がり、そのドアを静かに開けた。外の空気が流れ込んでくる。やや冷たい。星明かりも差さない暗がりのすぐ先に三両目の前扉があった。その厚板一枚を隔てたすぐ裏から、相変わらず激しく争う物音が聞こえてくる。扉付近でやり合っているらしい。中の八人は無事だろうか。
彼等はそのまま踊り場に出ることなく車内から、二つの車両に挟まれた視界の奥に見える闇を窺う。目もようやく暗さに慣れてきていた。外に敵の影は見えない。ただ彼等の目の届かぬ、進行方向左側、数十メートル先の地点から、おあつらえ向きに闇を囲うような樹林が広がっていただけだ。
ミサス達四人は腰の高さ程ある安全柵が途切れる箇所から、三両目の同じそれへ移っていく。双方の車両の踊り場に設置された柵同士の間、つまり車両連結部分には五十センチ程の隙間が空いていた。地面は踊り場から一メートル程下だ。そこへ降りる階段は勿論据え付けられていたが、回り込む意味はない。
四人は車内で争う者達に悟られぬよう静かに、かつ速やかに扉の両サイドにばらけて武器を構えた。銃声は一度も聞こえてきていないが、車内からの狙撃を一応警戒しているのだろう。そして右脇のアノが取っ手を掴む。僅かの間の後。
その扉を勢い良く引いた。
目の前にはまさに鍔迫り合いをしている最中の背中があった。その奥でも別の者達がやり合っているようだが、いかんせん全てが暗過ぎる。ぱっと見た限りでは判別できない。
一瞬動きが止まってしまったミサス達のすぐ前で、徐々に後退してくる背中がしゃべった。
「た、い……ちょお……です……か。
……くっ!」
既に『た、い』で、ミサスの剣先は走っていた。今喋った男の相手は、息をつく間もなくその左胸を貫かれている。そいつがそこへ崩れた時、僕は先程の声が小隊メンバーである『ラモン』のものだったことを思い出していた。
別人。比べるべくもない反応の速さ。樽男との戦いで僕が見せたあの剣筋を、隣に並べることすらおこがましく思えた。僕はミサスの両手を通して再度味わった、あのおぞましい感触のことも忘れやや茫然としていた。
ほぼその直後、車内中央でやり合っていた者達の間で決着が付いたらしい。二対一で戦っていたようだ。生き残った二人が、こちらへ疲れた足取りでゆっくりと戻ってくる。彼等も小隊のメンバーだった。通路にひれ伏した者達はぴくりとも動かない。多分暗くて見えていないだけで、奥にも倒れているのだろう。残念ながら人数の足し算が合わなかった。
辺りは静まり返っている。どうやら後方車両の危機は去ったらしい。血の臭いに顔をしかめつつそこらを見回すジャンが、ラモンの肩に手を置いた。
「……ったく。
一体何があったんだよ。
汽車が止まってから
ろくに時間経ってなかったよな?」
油断。
何となく嫌な気配を感じたミサスが、見える筈も無い右側後方の車窓に目をやったのと、数発の銃弾がそれらを砕き割り、車内中央から戻りつつあった二人を襲ったのはほぼ同時だった。
凄まじいまでの銃声とガラスの破片が床に散らばる音。倒れゆく二人が最後に耳にしたのは、そんな不協和音だった。
ミサス達は彼等を見送る間も無く、最前列の座席裏に滑り込んだ。明確には分からない方角から、闇を裂いて狙撃されるかもしれないという恐怖心が、彼等を突き動かしたと言っても良かった。
それに敵側としても、当たるか当たらないかも分からないような闇に向かって撃ち続けることはしないだろう。きっと間もなく後ろ扉の方から……。
ミサスが通路向かいで同様に身を潜めるケーケに、あくまで冷静に言う。
「この客車の異常な状況について
調べたいんだが。
今の銃声はすこし数が多過ぎだ」
「ああ。
折角暴れてやろうと思ってたのによ。
どうも最近ツイてねえ」
ケーケはこんな切羽詰まった状況でも、まだどこか余裕だ。ミサスはシートの背面に寄りかかりつつ、伸ばし切っていた片膝を自分の元へと引き寄せる。
「そう言うな。
ともかく背後に回り込まれるとヤバい。
とりあえず前の車両に退くぞ」
ケーケが頷く。彼の後ろのアノにも、ミサスの後ろのラモンとその下のジャンにも、当然聞こえているだろう。
そうだ、挟み撃ちはまずい。車両の側壁が死角になることを願いつつ、後退せざるを得ないだろう。最悪、この汽車を乗り捨てることになるとしても。
だが、彼等の狙いを阻むかのように、闇の向うで乱暴に扉が開く音がしたかと思うと、幾つかの派手な掛け声と共に、通路を駆ける大きな足音が聞こえてきた。前から後ろまで十メートル強。迷っている時間はなかった。
「退くぞ!」
この汽車に乗ってから初めて張り上げたミサスの声と共に、彼等は立ち上がる。敵の足音はもうそこまできている。しかし大丈夫だ、今ならまだいける。ここを出たらその前扉を閉めてしまえば良い、そうすればひとまずは。
一番先に立ち上がっていたミサスはもう扉に手をかけるところだった。ラモン、ジャンも勿論すぐ後ろにいる。
だが、ドアに寄ってきた者達の数は妙に少なかった。
疑問を感じたミサスが振り返る。
ケーケが。ケーケが馬鹿みたいに、立ち上がった場所から動かずに、その肩越しに後ろを見下ろしていた。
ケーケの視線の先で彼は、それまでの会話などまるで聞いていなかったみたいに、頭を押さえるような格好でうずくまっていたのだ。
剣を手にした敵が、もうケーケのすぐ前に迫っていた。




