第一六話 暗転 参
南の小城を敵部隊が発ったとの報を受けてより遅れること二時間、ベインストックからも約二百五十名の歩兵部隊が出撃した。
その二百五十名の中にミサス達は入っていない。彼らは、味方部隊の進発後に下がったままとなっている跳ね橋よりさらに町中に入った、正門ゲート手前付近で臨戦態勢をとって待機していた。周りには二百強の人数がいる。
先に出ていった部隊の連中が軽装とはいえプロテクターをしていたのに比較すると、彼等のそれは貧弱な感が否めない。大半の者は、ジャケットにパンツ、軍靴。武器は片手剣、短剣の者がほとんどだった。
「ジャンの奴、しっかりやってるかな……」
腕組みをしたゴードンが誰にともなく呟く。眉間に皴を寄せたその表情は、こういう場において最も頼もしく見える巨体にひどく不釣合いだった。そんな彼にアノが頷く。
「大丈夫だろ。銃剣を持ったときのあいつは頼りになるから」
一方で悔しそうにしているのはケーケだ。
「ちっきしょう…………俺も前軍で戦いたかったぜ」
そんなケーケをバニルが慰める。
「そう言うなって。今回ばかりは仕方ねーよ。適材適所ってやつだ。
……そろそろぶつかる頃かな」
町の外の方へと目をやるバニルに、ミサスが『……そうだな』と短く答えた。
皆、それきり黙ってしまい、一時の静寂が辺りを支配した。
ミサス等の周囲にいる者達にしてもそうだった。腰に提げた鞘から少し剣を抜きじっと見つめる者もいれば、ボロ切れで短剣を磨く者、ゴートンのように腕組みをしたまま目をつぶっているいる者もいる。そしてごく希には、バニルのようにポケットに手を突っ込み醒めた目で天を見上げている者もいた。しかし皆相応に何かを心に期して、その時を待ち構えているのは同じみたいだった。
やがて。ゲートの外。少し遠い方から、ワアァともウオォともとれる低く太い喚声が響いてきた。ケーケが地面を見て目を見開き、バシッ、と掌に拳を強く突き当てる。
「始まりやがったか……!」
その鬨の声は腹の底から絞り出したよう叫びで、まさに今命の取り合いをしている者達の咆哮だった。自分の為に、家族の為に、故郷の為に、誇りと名誉の為に、あるいは生き残る為に。そこで武器を振るう誰もが、自身の生命を晒して。僕は戦慄を感じずにいられなかった。
ミサス達の周りも若干ざわつき始めた。だがそれは少しの間のことで、すぐに元の沈黙が訪れる。それが返って彼等の高ぶりを思わせ、僕は堪らない気持ちになってくる。当然、その間も鬨の声が途切れることはない。
ケーケも同じ風に思っていたのかもしれない。顔の前に持ってきた、握り締めた手の首を押さえるように掴む。
「…………ああ……まだか。まだなのか?」
「落ち着けってば。今からそれじゃ身がもたねーぞ」
バニルがケーケの様子に少し呆れた顔で声をかける。二人を見たミサスもあくまで冷静に分析する。
「そうだな……クドンがこっちの思惑通り消耗戦に付き合ってくれたとして。……最低三十分。長ければさらに三十分……ってところか」
「そんなにかよ!? 聞いてないぞ……」
ケーケはガックリと肩を落とした。そんなケーケの肩を叩きバニルがミサスに言う。
「まあ、しかし正面からぶつかってきてくれて一安心だよな。あの人数なら、どう見たって残りは小城の防衛だ。小細工はないだろ」
「ああ。俺もそれはほっとしたよ」
ミサスが頷く。
やがて、十分が経ち。
……三十分が経ち。
…………五十分程が経ってしまった。
いまだ響いてくる鬨の声は、戦端が開かれた直後のそれに比べると大分勢いを失くしつつあったものの、まだ両軍衝突の激しさを窺わせるには十分な大きさだった。
実際にこれから武器を手に取るわけでない僕でさえ、耐え難い思いを抱えていた。こうしている間にも、おそらく戦場で味方は傷付き、倒れ、命を落としているのだ。それを想像しながらなおミサス達は、兵士達はその場から動こうとしない。いや、動くことを許されない。
しかもその焦燥感に拍車をかけるように、無数の沈黙が彼等自身を閉じ込める。二百強もの人数が押し黙って一ヶ所に集まっている様は並大抵でない。
「…………ああ…………。……もおぉぉダメだ。これ以上は無理だ。
……行くぞ。俺は行くからなっ」
それまでよく我慢していたと思うケーケが腰に差した剣の柄を強く握り締める。その眼は血走っていた。じりと外の方に体を向ける。その少し前かがみな姿勢は今にもゲートの外へと走り出していき兼ねないように見えたのだが。
「ケーケ」
ミサスが視線を移すことなく短く、その背中に声をかける。それでどうにかケーケは踏み止まったようだった。
けれど、ミサスが言っていた通りなら残り時間はもう幾らもない筈だった。
一方で僕の心中はといえば、恐怖が段々と大きくなりつつあった。けれどまだそれが具体的にどういうところから来ているのか分からなかったのだ。正体の定まらないそれの中にあって、せめて確かな時の経過を知ろうと、今この瞬間を意識しようと、気付けばカウントを始めていた。
(……十二、……十三、……十四……)
そうやって辛抱強く重ねていった数字が、七十に近付いた頃だった。
何の前触れも無く、上の見張り台から一声が鋭く降ってきた。
「味方前軍、後退ッ!!」
待つことに限界を迎えつつあった兵士達の空気が一気に弾けた気がした。
正門前の脇に立つ士官らしき男が、鋭く小さく号令する。
「各小隊より順に、……速やかに進軍ッ!!」
その言葉が終わって僅かな間の後、彼等はついに動き出した。ゲート近くに陣取っていた連中から順に、五列になって跳ね橋を渡り、外へ外へと出ていく。無秩序に群れていたかに見えた兵士達は、ゲートを境に整然と並んだ一つの部隊を形成し、早足で進軍していくのだった。
「しゃあっ!!」
待ってましたとばかりにまだゲートにすら近づけていない方から上がった幾つかの喚声に、号令を下した士官がすかさず呼びかける。
「私語は慎めッ! 敵の後方に悟られるな! そして速やかに進めッ! 敵に接近した後は、各小隊長に従え!」
そうして士官が叱咤する間も、兵士達は途切れることなくゲートを潜っていく。たかだか二百人強とはいえ、一斉に動き出した人間達が発する足音、舞い上がる砂煙は凄まじかった。
ミサス達シダク組の四人に加え同小隊の面々、都合二十人もその一部と化しゲートを潜り抜け、茶色い跳ね橋を渡っていく。
ベインストックを出た二百強の後軍は、なだらかな草原のあぜ道を早足に進んでいく。
そうして鬨の声が徐々に徐々に大きくなってくる。
……次第にそれは、一人一人生身の人間が上げる怒号、喚声、絶叫として響き渡ってくる。
やがては、それに紛れる剣撃の金属音、銃声、ときには散りゆく者の最期の悲鳴までもが、段々とリアルに、はっきりとミサスの耳を通して届いてくる。
そうしてもう。目で捉えられる距離に――
巻き起こる砂煙、その下で激しく剣を交える人と人、飛び散る血飛沫、切り裂かれその場に倒れ伏すクロイン兵、傍に転がり落ちる銃剣までもが、はっきりとその視界に入ってくる。そこはもうあぜ道も草原も全く無意味と化した、凄惨で壮絶な修羅場。戦場のど真ん中だった。
これ迄に見てきた、僕のそれとは大きくかけ離れたミサス達の日常。それすらもが平穏な日々と化す眼前の光景。折り重なる生が瞬く間に死へと変貌していく空間。僕は知らず知らずに惹き込まれていく。先程まで抱いてきた戦慄が、また別の色合いを帯び始めたことも気付けぬ程に。
ただ、その恍惚は長く続かなかった。
「散開ッ!!」
唐突に、強く短く発せられたその一声が僕を一遍に現実へと引っ張り戻した。
前方から上がったその指示を合図にミサスの小隊も自軍の右翼側へと移っていった。
上空から見れば、美しかったに違いない。現時点でどうにか立っている三百近い人間の塊を前に、大きな大きな黒鳥が左右の翼を広げていきまさに襲い掛からんとする様は、きっと美しかったに違いない。
その黒鳥は。長い間死にもの狂いで戦ってきた末にようやくクロイン側が後退しつつある、そんな状況に一筋の光明を見た思いだったであろうクドン側の兵士達に、躊躇なくその爪を突き立てていった。
両軍が相見えてから一時間。まだその高度を保ち続ける日の下で繰り広げられてきた戦局は、確実に次の段階へと移行しつつあった。
乾いた一陣の風が戦場を吹き抜けていく。それはまるで、散っていった者達の魂を殺し合いという汚れた場所に留めておくことを憐れむ、神々の計らいに思えた。