第一四話 暗転 壱
・適当な用語解説
ドイリー:テーブルの上等に置く小さな敷布
ミサスとバニルは作戦室に来ていた。あの応接室と執務室を合わせたような部屋だ。
軍曹はデスクの引き出しから一枚の綺麗な用紙を取り出してくると二人が向かいに座る応接用の卓上に無造作に置いてみせた。ちなみに卓上にはそれとは別にもう一枚の薄汚れた紙が置いてある。
「本営から一週間前に送られてきた。ベインストック周辺の味方拠点の状況だ」
味方の支配領域が白地。敵の方には斜線が入っている。ベインストックはその白地の領域の中でも南方に少しだけ突出した地点にあった。東西方面の拠点は既に敵陣地だ。
少しして、バニルが紙面に指差して説明した。
「ここと、ここ。……それから、ここもですね。俺が掴んだ情報ではもう撤兵が始まってます」
バニルが指差したこれらの拠点が全て敵の手に渡った場合、ベインストックは殆ど孤立してしまうということらしい。
「ウエスカの辺りか……」
軍曹はその土地だか町だかの名前を口にし、ふうッと大きなため息をついた。そうして続ける。
「ここんとこ弾薬関係の物資が届く間隔が長くなってきてたからもしやとは思ってたんだがな」
ミサスが頭を上げて軍曹に言う。
「このまま座視していれば確実に四面楚歌ですね。
おそらく上の方では、ここの兵と市民を陥落前に犠牲覚悟で撤退させるか、今の段階でなら確実に安全に引き上げられる他所の部隊の為に時間稼ぎとして留まらせておくかでもめてる頃なんじゃないですか」
そして、さらにこともなげに続ける。
「たかが数百人規模の戦力ですからね。
まあ、今の上層部にとってはなけなしの数百人になりつつあるのかもしれませんが」
「おいおい。これ以上脅かすんじゃないよ、まったく」
軍曹はそう言って額に手を当て、続けた。
「……ここ半年でベインストック周辺の拠点は幾つか落とされちまったからな。お前がいなかったら、ここだって持ち堪えられていたか。
まあ、この用兵状況を馬鹿正直にこっちへ伝えて離散兵が出て時間稼ぎにすら利用出来ず……って事態を上は恐れてるんだろうな……。
ふうむ……とりあえず分かった。それで、二つ目の懸案の方は?」
ミサスがバニルをちらっと見る。バニルは頷き、ジャケットの内ポケットからグレーの書簡入れを取り出す。片手で握れる程の円筒、その両端には装飾された蓋が付いていた。軍曹はそれを黙って受け取り、片側の蓋を開けて中の書簡を丁寧に取り出した。
「『……貴殿の御注進痛み入る。ついては、近日中に兵を動かし忌々しきクロインの犬共を、一刀の下に屠らん。しかれば、閣下には貴殿よりその旨それとなくくれぐれもよろしくお伝え……』
……そうか。狙い通り乗ってきてくれそうだな」
やれやれという顔の軍曹に、ミサスが表情を変えずに頷く。
その後の三人のやり取りを聞いたところ、どうやら次のような経緯で砦を守る敵部隊が野戦に出てくるよう仕向けることに成功したらしい。
敵地側の前線の砦。つまりミサスが見張り台で見たあの砦を守る部隊長はクドンという男で、これがひどく小心らしい。小心故に手堅い。一旦守りに転じると貝のように籠って出てこない。そこで、偽りの手紙、即ち、クドンとその上司両者に親しい一人の人物を調べ上げ、その男からの耳寄りな情報と銘打った内容の書簡を、クドンに送ったわけである。『貴殿がちんたらしている間に後方から大部隊が直に出発する。その到着前に野戦でも何でも良いから、一戦仕掛けてそれなりの戦果を上げておけ、さもないと左遷の候補者として既にリストアップされている貴殿に将来はないぞ』と。今軍曹が手にしている書簡はそのクドンからの返書というわけだ。
ミサスが更に補足する。
「まあ、敵の後続の大部隊が、近々進発するっていうのは前にお伝えした通り事実ですけどね。砦の方にもその情報は通達されてるでしょうし。
我々の後方拠点で味方の撤退が始まっているのもそれを察知したからでしょう。中途半端な犠牲を出すより兵力を一点に戻して反撃を。
まあ無難ですよね」
何度か重ねられてきた協議なのだろう。軍曹も分かっているというようにミサスに答えた。
「ただし、その増援が来てない今であって尚且つ野戦に引っ張り出すことが出来れば数で勝るこちらが一方的に勝ちを拾える。そして守り手が減った砦をそのまま陥落させる。だろ?」
ミサスは頷いて続けた。
「そうです。大部隊であればそれに伴った兵糧物資も多い。砦に入ってまずは陣容確認をしようという敵が出鼻をくじかれて砦手前のレデヌ川近辺で足踏みしている間にこちらも兵と市民を後方へ移す、というわけです。
その頃になれば、味方の後方拠点は撤退を完了しているでしょうから、俺らが独断で引き揚げたところで上層部の思惑を乱すことにもなりません。
まあ、軍曹には懲罰房行き位の仕置きはあるかもしれませんが……」
「……ったく。いけしゃあしゃあと。
まあ良い。分かった。あとそうだ、大丈夫だとは思うが……」
軍曹が視線をやった先でバニルが答えた。
「バチェアの飛行船団なら問題なさそうです。連中、ミリック半島近海の味方船団に手を焼いてて動けないみたいですから」
「……そうか。まあ諸手上げて喜ぶわけにもいかんが。
……分かった。敵の増援の進軍状況、味方の後方拠点の撤退状況、双方に気遣いつつこの町の人間を最終的に撤退させる……か。……タイミングの見極めが難しそうだなあ。まったく……、お前等がここへ来てから俺の寿命は縮む一方だよ」
「まあまあ。ここはミサスに関わったのがお互い運の尽きということで」
愚痴る軍曹をバニルが慰める。ミサスはそんな二人に頓着せず思い出したように確認した。
「ところで。明日の集まりって……」
「ああ。本営からの指令が来てな。『ウエスカの部隊が近々猛反撃に転じるから、その陽動としてこっちの戦場を引っ掻き回せ』……とな。肝心のウエスカの部隊を撤退させながらよく言ってきたもんだ、まったく」
「なら丁度良いですね。御命令通り引っ掻き回してやろうじゃないですか」
バニルがにやりとして言った。
「……あ、ああ。それもそうだな」
三人の意志は合致したらしく、夜が更ける頃ミサスとバニルは作戦室を出た。
彼等は今までもこうやって、このベインストックを守ってきたんだろうか。
あの軍曹は三十そこそこといった感じだから、おそらくここには上位階級の老練な軍人はいないのだろう。敵勢力に取り残されつつある拠点、まだ経験が浅いであろう若い兵士達、それも僅か数百人の。そして後方で撤退を開始する味方部隊。敵側には大部隊の援軍。何となく今の状況が透けて見えるようだった。
その後、ミサスはバニルと宿舎へ帰り、祭りのあとと化した大部屋を片付けているケーケ達を手伝った後、就寝時刻を迎えたのだった。
ミサスがベッドに入り目を閉じた。夜は更け、闇の中に静寂が訪れる。
(……ちょっと待てよ、ミサスが目を覚ますまで数時間。僕はこの暗闇の中で待機ということなのか?)
そんな事を僕が心配し始めた時、ふっと意識が遠のいていった。
……ひょっとしたら元の世界へ戻れるのか。薄れゆく意識の中で僕は微かな期待を抱いていた。
留意。