第九話 曇天
適当な用語解説
・ダークスレートグレー:黒っぽいグレー
暗闇の中。
「……ッ」
誰かの声がする。
体の感覚は、ある。……けど。何かおかしい。
「……スッ」
横になっているらしい。
……感覚はあるのに、動かせない。
「ミサス!」
何だ、僕を呼んでいたのか。
……待ってくれ。体が、動かない。
この感触はベッドか、これ……硬い。
不意に視界が開けた。光が差し込んでくる。
白い……天井だ。
「おい、ミサスってば!」
少し苛立った男の声。
視界が天井から正面へ移っていく。くすみ、はげた壁。そこには鞘に収まった剣が数本、それに銃剣らしきものも壁に掛けられている。あとはシーツのまくれた粗末なベッドが並んでいた。
「……あ、ああ。悪い。どうした?」
(これ、僕の声か?)
意識は明確にあるのだが、体の持ち主が別にいる…………らしい。
体の主は起き上がってベッドに腰掛けたようだ。視界には両手と黒シャツ、ダークグリーンの厚手で長めなブカブカパンツが映る。
「『どうした』じゃねーよ。ったく。
今日、作戦室の方に新入りが来るから七時になったら起こしてくれって言ってただろ」
先程から話し掛けてくる彼は半ば呆れ気味だった。年は僕とそう変わらない感じだ。小柄でダークスレートグレーの前髪が右目にかかっており、少し伸びた後ろ髪を縛っている。銃剣の手入れをしているようだった。
「ああ、そうだったな。行ってくるわ」
「しっかりしてくれよ。隊長さん」
体の主は軍靴を履いてベルトを締めると、隣の小部屋へ入っていった。
トイレに洗面台、風呂。どれも粗末なものばかり。ここは宿舎か何からしい。
と、洗面台の上に取り付けられた鏡に写ったその顔――
額にかかる位の少し散らかった明るい茶色の髪。それに冷めた瞳。少し細い顎。
表情に多少違和感があるものの、確かにそれは『僕』だった。
全くもって意味不明である。
ややこしくて申し訳ないけれど、ここから先は『僕』と区別する為にこの体の主を『ミサス』と呼ぶ。
それから手早く身なりを整え、最後にパンツと同色のジャケットを羽織ったミサスはこの宿舎と思しき建物の出口に向かった。
その頃には僕の方もこの違和感を受け入れ――というか、そうせざるを得なかった――ミサスの五感によって周囲の状況を少しづつ把握していった。
重く冷たい扉を押し開ける。
外の少し冷えた空気と共に流れ込んできたものは、錆びた鉄と廃油の混じり合ったような鼻をつく臭い。金属を打ち付けているらしき『ガーン、……ガーン』という耳障りな長周期の音。
そして視界を遮る、目の前の頑丈で分厚そうな壁。その上を這うように敷かれた数本の太く茶色い有刺鉄線。
どうもそれらは平常の人の営みにそぐわないもの達だった。
ミサスはそれらを気にかける様子もなく、迷路のように入り組んだ細い路地を迷わず歩いていく。人が集まって生活しているらしき様子はある。もっともすれ違う人のやつれた顔や路面の黒ずんでひび割れた窪み、壁面の焼け焦げた様な跡はどうにも僕の記憶に無いものばかりだったが。
やがてミサスは棒状に聳える建物の前で立ち止まると、小さな扉を開けて入っていく。
ミサスは中にある狭く頼りない階段を上へ、カンカンカンッとテンポよく登っていく。やがて彼は物見台らしい、これまたひどく狭い場所へ出た。屋根は一応あるものの腰より上は吹きっさらしになっており、下以上に風が冷たい。
「あ、伍長。特に異常ありません」
ダークグリーンの男が敬礼する。
「ご苦労さん」
短く言うとミサスは身を少し乗り出して、目を細める。
その景色に僕は愕然とした。
重く垂れ込めた分厚い雲の下、灰色の町が広がり、それを塀と深堀がぐるりと囲っていた。
鋸状の屋根に聳える何本もの煙突からは濃い煙が立ち上り、幾つかの建物の屋上には砲台らしき設備、町の各隅にはここ同様の物見台が聳えている。
そしてミサスが目を凝らす方角。漠と広がる平野と深い森を幾つか越えた先に、小さくも厳とした暗色の建造物、小城のようなそれを確認することが出来た。