三日夜の餅・其の六
六
ついなは約束の三日が終わった次の日、休みを取った。
もう限界だ。 何がなんでも休んで東雲に一刻も早く会わないと気がおかしくなる。 流石に直属の上司に言うわけにはいかず、花宵についなはそう言って休みをもぎ取って今に至る。
君はいつでも東雲殿が絡むとおかしいだろう。 とは花宵のあきれ混じりの言葉だ。
とにもかくにも、今日は絶対仕事しない宣言。
そんな訳で、ついなは朝から文机にも向かわず唯ひたすら主の帰りを待ち続ける忠犬の如く庭に面した簀に、彫像よろしく座していた。 心無しその彫像の目が鬼気迫る感を帯びている気がしなくもないが。
「何してるのこんな所で」
彫像もとい、ついなの視界にひょいと入って上から覗き込んできたのは、誰よりも逢いたかった妻の顔だった。
「……東雲?」
「そうよ?」
ついなは覗き込んできた妻を見てもいつものように満面の笑みでも、驚いて飛び上がったりもしなかった。 その代わり、じっと東雲を見てから顔を逸らす。
「ついな?」
その仕草の意味がわからず東雲は不思議そうに声を掛ける。
「……おかえりなさい」
「ええ。 ただいま」
再びの沈黙に東雲はどうして良いのかと戸惑った。 何か怒らせるような事をしただろうかと悩んだ末、本人に聞いてみる事にしたらしい。
「ついな。 何か怒っているの?」
「……ね」
「え?」
良く聴こえない。 東雲は聞き取れなかった言葉をもっと近くで聴こうとついなの隣に座った。 その東雲の片手を、ついなの片手が押さえるように握る。
「ついな?」
「平気、なんですね」
そう言って、今度はついなが東雲を覗き込んだ。 その黒い瞳に、東雲は息を呑む。
強い強い狂おしい光り。 怒りとも憎しみとも違うのに、同じくらい強い色と光りがそこにある。 全てを飲み込もうとするような底知れない漆黒とは相反するはずのそれは、それでも確かにそこにあった。
ぞくりと東雲の背に悪寒にも似た震えが走る。 同時に、何故か惹かれてしまう。 瞳を逸らすことが出来なくて、逃げることも出来なくて東雲は動けなくなった。
淡々とした声音でついなは東雲を捕まえたまま言う。
「私は、三日……それだけでも、もう限界です。 けど、君は」
ぎゅっと握られた手が、少し痛いと東雲は思って眉を顰める。
「ついな」
「どうしたら、君は私と同じくらい、私に狂ってくれますか?」
「っ!」
その場に縫い止めるように片手を押さえたまま、ついなは身を捻り、もう片方の手、その親指と人差し指で支えながら東雲の頤を捉えた。 吐息が掛かりそうな程、近い距離で東雲の緑の瞳を覗き込む。
「どうしたら、片時も離れないくらい、君の魂に私を刻み込めるのかな」
頤を捉えていた親指がそっとその上にある下唇をなぞった。
何故帰ってきて早々、こんな事を言われてされなきゃいけないの?
東雲はふつふつとした怒りが湧き上がってくるのを感じていた。 この夫は、自分の気持ちに東雲の想いが及ばないとのたまいやがったわけだ。
(狂う? 刻み込む?)
ふ・ざ・け・る・な。
(ひとが、どんな気持ちでいるかも知らないで……)
キッ! と東雲はついなを睨みつける。 片手は押さえつけられているが、もう一方は空いている。 となればやることは唯一つ。
東雲は自由な片手を思いっきりついなの顔へと向けた。
「むぁっ?」
間抜けな声をさせてついなが眼を丸くする。 東雲の手はしっかりとついなの頬をつねっていた。
「この手を退けなさい。 今すぐ」
それは有無を言わせない響きを帯びていて、ついなは東雲の頤から手を離した。 けれど、もう片方の手だけはどうしても離したくないと言うかのように握ったまま。
ついなの手が片方そのままだと気付いてはいたが、東雲はそれには何も言わずにおいた。 つねっていたついなの頬から指を外し、無言の圧力を掛ける。
拗ねた動物のように顔を逸らしている癖に握った手は離さないのだからこの夫は腹立たしい、と東雲は半眼で睨みつけた。
「それで。 どうして私は帰ってきて早々、責め句を言われなければならないのかしら? 予め三日と言ってあなたにも確認を取ったはずだけれど」
「…………」
「それにあなたも承諾したはずよね?」
「……」
ほう。 黙秘。 そう……。 東雲の雰囲気がそんな感じでどんどん物騒になっていくのだが、ついなは黙ってそっぽを向いている。 ついに東雲の口許に薄っすらとした微笑が浮かび、正反対に森の緑を宿した瞳は全然笑っていないという状況が出来上がるのだが、見ていなければわからない事だ。
(ちゃんと、三日と言って、了承を取って、その通りに帰ってきたのに)
「違うわ……」
ぽつりと東雲が零した言葉についなが訝しそうな顔でちらりと様子を伺った。 わけのわからない言葉だからそれも当然だろう。 ついながそっと伺った気配に、東雲の片手が再び動く。
その頬を片手で捉えて、反対の頬へ軽い音をさせて唇を一瞬押し当てた。
後々でも、東雲は思う。 この時のついなの顔は見ものだったと。
ぽかんとしたような表情で、黒い瞳は大きく瞠られ、まさに真っ白になったように瞬間凍結。 東雲の唇はとうに離れているのに、ものの見事に固まっている。
「誰が誰ほど想ってないですって? その想ってない相手に、誰が名を預けると言うのかしら?」
本当の名前を真名と呼ぶ。 それは本当は精霊でも妖でも人間でも、誰でも持っていて、けれど人間は誰もが忘れてしまう。 極稀に“覚えている”ものや“思い出す”ものがいるけれど、そんな例外を除いて自分自身ですら忘れてしまう名前。 そうでなければ危なくていられない。 真名は魂の名前。 それを知られるのは、魂を握られるのと同意義だからだ。
「あなたは、私の名を知っているわね? 私が教えたのだもの。 私の魂を手にしておいて、何を言っているのかしら」
精霊同士だって名を明かしたりしない。 呼び合う名はあれど、それは真名ではないのだ。
友人だからといって自分の魂まで渡せない。 長は自分の眷属である精霊の名は全て知っているけれど、それを口にする事はない。 自分と長しか知らない魂の名前。 それが普通。
なのに、東雲はついなと“名を交わした”のだ。 それは互いの真名を教え合い、受け入れあう事。
相手に自分の魂を手渡す事。
「私をあなたの最期まで道連れにするのでしょう。 そのための名も手にしておいて、よく言えたわね」
自分の魂まで捧げた相手を想っていない? 冗談じゃない。
「私は、誰にでも名を教えたりしないわ。 貴方だから教えたのよ! 吉野ついな。 貴方だから私は…………妻になったのに」
「東雲……」
「何よ」
のろのろと硬直が半解凍されたついなが東雲の名を呼ぶ。 東雲はそんなついなを睨みつける。 下手なことを言ったら怒りに油を注ぎそうな状態だ。
「申し訳ありませんでした」
「……わかったの?」
「はい」
本当だろうか? そんな面持ちで東雲はついなの顔を半眼で凝視した。
東雲のそんな視線に気付いたのか、ついなは黒い瞳で東雲を見つめる。 そこには先程の様な狂気じみたものは無いけれど、代わりに羞恥とも不安ともつかない色が浮かんでいた。
「東雲」
「何よ」
「何で……頬なんですか?」
「は?」
じぃっと若干うらめしそうな顔でついなは東雲を見つめている。
「だって……」
「…………」
「いふぁいてふっ」
ついなの頬を東雲は無言でもう一度摘んで引っ張った。