三日夜の餅・其の五
五
狭間の薬師の家。 スイは見かけは十六くらいの少女にしか見えないのに、実際は自分の何倍も年上の精霊で唯一の友人を見てほぅっと悩ましげなため息をついた。
どうしようこの子、涙目なんだけど。
「…………東雲」
びく! と怯えたように本から顔を上げてこちらを見られると、まるでいじめているような気分になって居た堪れない。 絶対、後でこんな面倒事を押し付けた風の長に対価を請求してやる、と。 決心を固くした。
「スイ……」
東雲に渡したのは、東の地域その文化に関する書物だ。 しかし。
「あのね、東雲」
「はい……」
「それのどこにそんな顔になる要素があるの」
結婚、ありていに言って初夜とかの具体的なことは“何一つ書いていない”のに。
それでどうしてこんないかにも泣きそうな顔になるのか。 スイは泣きたいのはこちらよ! と心の中で叫んでいた。
「だって……私、これだとついなには不美人て思われてるって事? こういうのがついなって好み?」
「どこを見てるの」
指し示された箇所を見ると、東域の美人とかの基準の箇所だった。 それも文化とかの教材として選んだからこの本は古い。 今とは美の価値観が違う。
「これは気にしなくて良いから。 むしろあなたをブスとか言う男ならやめなさい。 目が腐ってるとしか思えないから」
言われた事ないでしょ? と問えば、東雲は一応頷く。
言ってたらその男の顔面引っ叩くけど。 そう心の中で付け加えつつ、呆れたように髪を掻き揚げた。
「それで大体の行事とか文化はわかった?」
「ええ」
「よろしい。 それじゃ、次。 これ読んで」
東雲にスイが手渡したのは、恋愛小説だった。 王道のハッピーエンドで、大変“可愛らしい”レベルの。
「人間の恋愛の入門がこのレベルだから」
大人しく言われた通りに本を読み始める東雲の向かいの席に座り、スイはさらさらとした白い粉を何かの液体と混ぜ合わせる。 そうしながら、東雲から質問があればそれに答えたりするのだ。
練を加えてそこに食紅等で色をつけて形を作っていく。
これを乾かせば完成だ。 スイは傾いた陽の光に顔を上げて、調子はどうかと東雲を見た。
「……間に合うかしら」
深く、本当に深くスイは溜息をつく。 東雲は恐らく終盤という所でねじの切れたぜんまい人形のように固まっていた。
一日目が終わり、スイは自室へ東雲を招く。 夜着も普段着もあまり大差ないスイと東雲は、スイがいつも使っている一人用の寝台を前にしていた。
「貴方達にはいらなかったとは思うけど、人間は一日に数時間の睡眠が必要なの。 家があるなら、こうやって寝台があって人間はそこで眠るわ。 東では畳というイグサを編んだ板の上に布を敷いて寝床にするらしいから、少し違うけど」
まぁ、おいでなさいな。 そう言ってスイは寝台に上がり、自分の横を叩く。 不思議そうに東雲が寝台に腰掛けて隣にくると、そのまま一緒に横になって掛け布団を胸元まで引き上げる。
「で、こうして夫婦や家族は一緒に寝具に包まって眠るのよ。 これが所謂、同衾ていうものなんだけど」
「なるほど。 これの事なのね」
くすくすと笑う東雲に、スイは尋ねた。
「……面白い?」
「そうね。 やった事無かったから。 必要もなかったし。 だから、何だか新鮮で人間の文化って面白いわ」
「そう」
ふふふ、とくすぐったそうに笑って東雲は隣のスイの腕を抱き締める。
「スイ。 人の事、教えてくれてありがとうっ」
「……いいわよ。 貴女は特別なんだから」
こんなに嬉しそうな顔されたら仕方ないって思ってしまうじゃない。 そう思いながら、こつんと軽く東雲の頭に自身の頭を寄せる。 東雲の浅葱色の髪とスイの漆黒の髪が少しだけ交わりあう。
「東雲の髪って柔らかいわね。 艶もあるしハリもあるのに髪質はとっても柔らかだわ」
「そうかしら? でも、スイの髪も綺麗よ。 私は好きだわ。 艶々で鴉の濡れた羽よりもずっと色の深い髪」
「ありがとう。 ……ねぇ、東雲」
「なぁに?」
「相手の殿方、好きなの?」
普通なら確かめるまでもない事だけれど、この友人は精霊だ。 そして相手は東の呪術師だと聞いている。 ならば、術で強制的にという事も無くは無い。 雛のようなこの無垢な精霊に主従関係を夫婦関係として認識させていたとしたら? という考えが過ぎってしまう。
「…………あのね、スイ」
「どうしたの?」
スイの問いかけに、東雲は視線を彷徨わせ、そして腕に額を押し付けるようにして顔を隠した。
「ついなとは、こんな事出来ないかも知れないわ」
それは、言葉の、文字だけを追えば否定にしか思えない。 けれど、その声は今まで聞いた事が無いほど甘く幸せに惑うようなもので。
「スイは大好きなのよ? こうやってしていても、嬉しいし楽しいわ。 けどね、ついなは、きっと駄目」
だってね、と東雲は続ける。
「同じ事したらって、想像したら……。 本当じゃなく、考えただけなのに、私、人間でいう所の心臓が止まりそうな状態なの」
頭が真っ白になって、無いはずの心臓が痛いくらい胸が苦しくなるの。 そう言って。
「ついなの事、好きだと思うのだけれど……これって好きじゃないのかしら?」
「馬鹿ね。 それは好きって言わないわ。 大好きでもない」
そう言うと、東雲は一転して不安そうにスイを見上げた。
スイは湖の水面を思わせる水色の瞳で、東雲に呆れたような微笑を見せる。
「愛してるって、言うのよ」
東雲はスイの言葉に目を瞬き、そして嬉しそうに満面の笑顔になった。
「貴女がそういう相手を得られた事、私は本当に嬉しく思うわ。 ご結婚おめでとう。 東雲」
女性二人のささやかで幸せそうな笑い声が暖かく。 互いの心も触れ合わせるように。
「私が男だったら絶対決闘でも申し込んで渡したくないのに」
半分冗談。 半分本気でスイはそう言って、東雲の頭を撫でる。
「あまり会えなくなるかしら?」
「そんな事ないわ。 だって、ついなは言ったもの。 私は自由だって。 でも、互いのものだって」
「あらそう。 なら、また今までのように会いに来てくれるのかしら?」
「勿論。 だって大好きな私のお友達だもの」
微塵の躊躇いも羞恥もなく言い切って笑顔で寄り添う友人に、スイは降参とばかりに微笑んだ。