一
水桜の姫
一
寒いけれど、よく晴れた冬の日だったと思う。
小舟に乗せられ、川に流された。
「嗚呼、気が付きましたか」
薄ぼんやりした視界に入ったのは木目。 それが天井で、自分が何処かに寝かされているのだと遅れて気付く。
酷く怠くて、聞き覚えのない声にそちらを見ようとしても瞬きするのがやっとだった。 ただ、ちょっと埃っぽいなと思ったりもする。
「君、死に損ないましたけど、死にたいですか?」
そう言って覗き込んできたのは、多分だけど同い年の少年。 黒い髪と黒い瞳。 この地域では珍しくも無い色で、けれどその少年の瞳は今まで見たどんな大人よりも大人びて見えた。
「…………」
「声が出ないなら、首を縦か横に傾けてください。 判断が付きません」
もし、ここで。 縦に首を振ったら、彼はきっと自分を殺すだろう。
でも逆に、首を横に振ったなら。
「わかりました。 じゃあ、とりあえずもう少し寝てて下さい。 着る物と食べ物持ってきます」
彼は、きっと見捨てない。
懐かしい夢を見た。
夢というより、現実にあった事だから記憶と言うのかも知れない。
「ついなと出会った時のものか」
この地域では少し目立つ茶色の短い髪。 軽く手櫛でそれを梳いて身支度を整える。
「神殿の掃除から始めよう」
良くある事だと言うのもどうかと思うが、出身の村は貧しく、その時は丁度日照りが続いた年で、冬の蓄えに余分などなかった。
まして両親の居ない孤児など、置いておく余裕は当然無い。
人身御供と言う名の厄介払いに、この神社がある山の神域へ繋がる川に小舟を浮かべて流された。 本当なら、自分はそこで終わるはずだったのだが……。
「瑞穂」
「瑞木」
呼び声に振り返れば、この神社の主である姫神が両手を腰に当ててしかめっ面をしている。
真白の雪で紡いだ絹糸のような長い髪と肌に、巫女のような白衣緋袴。 桜をそのまま閉じ込めたような色彩の瞳に自分の姿が映っていた。
「つまらないわ。 遊んで」
十二才くらいの少女にしか見えないそのカミは、自分の命を繋ぎ止めたヒト。
小舟に乗せて流された先には滝壺があり、普通に考えても八つの子供が落ちて助かる場所ではない。
「瑞木、まだ掃除が」
「いいじゃない。 後だって。 私が遊んでって言っているのよ?」
「……仕方ないな」
パッと花咲くような笑顔になった瑞木は、そのままの表情と勢いで抱きついてくる。
「ありがとう! 瑞穂、好きよ」
滝壺へと放り出され、落下していく最中、元から衰弱していた意識は薄らいでいた。
けれど、白い水飛沫に飲み込まれると思った瞬間。 その瞬間だけはくっきりと目に焼きついて今も離れない。
白い両腕を必死に伸ばして、冬の中で桜色の瞳だけが訴えていた。
―― 死なないで。
滝壺の轟音と、そのか細い、優しい腕に抱き留められたのは、同時だった。
蝋燭の火が揺らめき照らす人気の無い神殿。
「…………」
同い年くらいの少年は、自分の物だという夜着を貸してくれた。
「とりあえず、三枚ほど持ってきましたから。 下着も。 あの濡れた衣は干してますから乾くまでそれ着てて下さいね」
お礼を言うべきだと思うのに、声が出ない。 だから、首を縦に振った。
「それから、食べ物」
そう言って、黄色い月の様な蜜柑を二つ。
「自分で剥くくらいはして下さい」
てきぱきとそれだけを言って、古びた神殿の床に腰を下ろす。
「先に言っておきますが、君を助けたのは私ではありません。 私は頼まれただけです」
「……?」
「ここは瑞木の社です。 君を助けろと言ったのは、ここの主。 ……ああ、言い忘れていました。 薄々わかっているかも知れませんが、君、一度は事切れました」
平然とそう言った少年はただ真っ直ぐ黒い瞳で見つめてくる。 火の照らし出す陰影と相まってその様子は物の怪じみてさえいたけれど、不思議と恐怖も嫌悪も感じなかった。
「けど、そのまま彼岸へ行かせる事を、ここの主は拒んだので、少し強引に多少反則を使って引き戻したわけですが」
「…………」
「反則は反則ですから、当然それに見合った対価を支払わなければなりません。 君がそんなの自分の意志じゃないって言ったとしても、否応なしに」
確かに、助けて欲しいとか、助けてなんて自分では言ってないのに、勝手にされたと言えばそうだろうから、怒る人もいるのかも知れない。 けど、それは。
助けを求められる人がいるから言える言葉だ。
自分には、居なかった。 死にたくない。 嫌だって。 そう言って聴いてくれる人がいるなら、言っていただろう言葉だ。 だから、そんな風に自分が願ったんじゃないなんて、思わない。
聴いてくれる人さえ居たら、自分は死にたくないって、言ったはずだから。
「いつまでかはわかりません。 けど、君はこの社から当分離れられない。 離れようとしたら、命が零れます。 努々忘れないで下さいね」
何処へ行くと言うのだろう? 帰る場所なんて、自分にはもうないのだから、ここを離れる必要も感じなかった。




