三日夜の餅・其の十二
十二
まさかついなは自分の妻に対してこう言う日が来るとは思わなかった。
「お願いですから退いてください。 東雲」
こんなに情けない思いをするとも思わなかった事も、また事実である。
ついなの言葉に上から顔を覗き込んでいた東雲は少し傷ついたような顔をしたから尚更に。
「ごめんなさい。 重かった?」
「それは無いです」
それだけは断じてないのであるが、ただでさえいい匂いはするし物凄く距離は近いし、おまけに触れた感触はどこもかしこも柔らかい。 あと二晩、耐えられるか物凄く不安だ。
「病にでも罹ったのかと思って……」
心配になって覗き込んだと告白した東雲に、ついなは今度こそ背を向けて敷布を思いっきり握って悶えた。 夫の奇行にほんのちょっと東雲が引いたのは知る由も無い。
(あああああ! もうっ、もうっ、何でこんな可愛いんですか!)
心の中でごろごろ転げまわってそう叫んだついなは、現実では何かに耐えるようにじっと固まっている。
「ええと、ついな? 本当に大丈夫? 本当に気分が悪いなら……出て行くけど」
「!」
「きゃっ」
待って欲しくて寝床から出て行こうとするその手首を掴んだのだが、どうにも勢い余って留めるどころかついなは東雲を引き倒していた。 覆いかぶさっていないから、押し倒すという体勢ではないのだが、東雲の片手の手首を捕まえて自分の横に縫い付けるように引き倒し、ついなは自分でやった癖にものの見事に硬直する。
驚いて緑の瞳を瞬く東雲の白い頬に、元々夜目が利くついなは朱が散るのを目の当たりにした。
捕まえた手首には人間のような脈打つものはない。 それがとても不思議だったが、恐ろしくはなかった。
目の前で頬を染めて驚いた妻を怖いとか思うはずもないのは当たり前である。 どころか、もう今すぐ抱き締めて抱き締めて抱き締め以下略な心境だ。
「い……いかないで下さい」
「……わかった、わ」
東雲から了承を取っても、ついなは手を離さなかった。 東雲も解いてと言う事も嫌がるそぶりも見せない。 沈黙が固まった二人の間に降りる。 何かを言いたいのかどうかすら、互いにうるさく響く自身の鼓動で定かにならず、ただ、手首を掴んでいたついなの手が緩む。
緩んだ手に、東雲が不安そうに一瞬だけ瞳を揺らすも、緩んだついなの手は手首ではなく東雲の手を握り返す。
どちらともなく、瞳が合って、互いの口許に淡く笑みが浮かんだ。
「それで、仲良く手を繋いで一晩目終了、と。 そういうわけ?」
花宵は陰陽寮の外れにある滅多に人の来ない一室で、常より少し眠たそうにしつつも文机に向かって仕事をするついなに、呆れ八割の顔と声でそう言った。 本日は大内裏という事で女装はしていない。
それでも東宮とわかるような格好でもなく、平武官の姿だ。
どかっと円座の上で胡坐をかいて片肘を腿について頬を支えている。
「このへタレ」
花宵の心からの愛の言葉についなは筆を止めてそちらを見た。
「何で今までもう異常なくらいの執念で追い回して追い詰めて手に入れた奥方との初夜で、手を繋いで眠るになるの? 君は本当に男?」
「うるさいですよ女装癖の変態東宮」
「趣味じゃないって出会った時から言ってるだろう。 そうやって挑発して話題が逸らせると思ったら大間違いだ」
「ち」
「舌打ちするな。 どこで覚えたそんな事」
「仕方ないでしょう。 何も知らない彼女にそんな無体な事は出来ません」
「君は無体とかどの口が」
初対面の相手にドロップキックかます奴が何を言っているのかと花宵は思った。
「ともかく、私は彼女に嫌われたくありません。 ちゃんと、そういうのは準備が出来てからで……」
「ついな」
妙に厳かな声がついなの動きを封じる。 ちらと目を向けると、花宵がついなにそれは極上の笑みを向けていた。
「真面目な話しだ。 別に今すぐでなくてもいいし、嫌われるのがって言うのは私だってわかる。 けれど、ちゃんとそれならそれで、その分、言ってあげなければ不安にさせるよ」
「わかってます」
「ならいい。 忘れるなよ」
そう言って部屋の片付けでもと立ち上がる花宵に、ついなはなんとも言えない目を向ける。
「仮にも東宮が部屋の片付け……」
「今はただの一武官だ」
「立派な事ですね。 所で、大層ありがたいお話でしたが、君の方はどうなんです」
「…………」
「私に出来ることがあるなら、遠慮したら蹴倒しますからそのつもりで」
花宵はその言葉に小さく笑みを零した。 まったく、素直でない。
「きっと遠くないうちに頼むよ」
ついなが頷くのを見て、花宵は部屋の片付けに勤しんだ。




