第7章 ターニング・ポイント(後編)
1.
隼人の目の前に、1人のエンデュミオールが立っていた。
まず眼を引くのは、腰まで伸びた豊かで艶やかな黒髪だ。それが縁取る顔は、少し細めの黒い眉に、切れ長のしかし決して細いわけではない眼。黒い瞳を有したそれは、呆然と隼人を見据えている。すっきり通った鼻筋に、やや厚ぼったく形のいい唇もあいまって、総合的にはまあまあの美人といったところか。
着用している上着は、白地に黒い直線的な模様が入り、大柄な体をシャープに見せる配慮がなされている。割と存在感のある胸のふくらみに、くびれたウェスト。縁に白いフリルが奢られた黒いミニスカートからのぞく脚は、なぜかハーフカットのコンバットブーツを履いていることを除けば、長さも申し分なく、太もものむっちり感も健康的で大いにそそられる。
自分の脚でなければ、だが。
「変身した……女に……なんで?!」
酔いは、一瞬で醒めた。隼人は目の前の、鏡の中の自分をもう一度見つめ、そして、こういうときお約束の、一連の確認作業にはいった。
髪の毛を引っ張ると痛い。自前のだ。
胸を鷲掴みにすると痛い。自前のだ。
しばらく躊躇のあとミニスカートの前をめくると、今日履いているトランクスが眼に入る。これも十分にシュールな情景なのだが、ごくりとつばを飲み込んで、おそるおそるトランクスの中を覗き込んだ隼人は即座に顔を挙げ、まるでカートゥーンのキャラのように右手で顔を覆った。
付いてない。自前のが、である。
(待て待て待て待て、これって女しか変身できないんじゃなかったのかよ)
支部長はそんなことは一言も言ってないのだが、混乱した隼人に詳細を思い出す余裕はなかった。
「……寝よ」
5分ほど茫然自失した後の結論を潮時にして、隼人は身支度をすると布団に入った。そして、何かを思いついた顔で目覚ましをいじると、再び就寝し、すぐに寝息となった。
2.
翌日。隼人は生あくびをかみ殺しながら、2コマ目の講義に出席するべく大学構内の坂を上っていた。
朝6時からのバイトだったから、だけではない。隼人は日の出前と思しき適当な時間に目覚ましをセットして起床し、変身してみたのだ。そして朝の身支度を終え、完全に日が昇ってからもう一度。今度は変身できなかった。
(今のところ、特別なことはなにもないな。男の俺が変身できるってこと以外)
隼人の心に、迷いが生じていた。自分が変身できる。変身して、あの子たちと一緒に闘える。あの子たちを、守ってやることが出来る。でも。
(長谷川さんに渡すつもりだったんだよな。これ)
長谷川の熱意を、1ヵ月半程度でしかないながらも知っていた。それゆえに、これは長谷川さんに渡すべきじゃないのか。もともとそのつもりだったんだし。でも。
眠い頭で堂々巡りを続ける隼人。その耳に、元気な声が飛び込んできた。
「隼人君、おはよう!」
という声のするほうに眼をやる。個体識別完了。美紀だ。
彼女は大またで歩き続ける隼人の横に並んで、小走りになっている。その姿は併走する子犬みたいで、ちょっとかわいい。
「珍しいじゃん、キュロットなんて」
「変かな?」
似合ってると思うよと隼人に褒められて、美紀の顔がさらに明るくなる。
「今日はねーやんは?」
「ちょっとヤボ用」
くすっと笑いながら美紀が答える。
「ああ、男ね」
「ヤ・ボ・ヨ・ウ、だよ?」
美紀の笑みが、悪戯めいたものに変わる。
「ところで隼人君、ちょっと、スピード落としてくれへん? うち、つらいわ」
「なに言ってんの」
隼人は携帯の画面を見せてやる。
「ほら、ギリギリだぜ?」
うわぁあかんやん、と悲鳴を上げながら、それでも美紀は、隼人を追走するつもりのようだ。まるで、もう置いてきぼりになりたくないかのように。
昼。隼人は美紀と2人でニショクに来ていた。恋人を気取って、ではなく、例の堂々巡りで頭が一杯だった隼人が、美紀のお誘いをつい受諾してしまったのだ。奢ってくれる、というのもポイントではあったが。
「隼人君、どしたの? 授業中も、ずっと考え事してたやん」
美紀が心配そうに尋ねてきたが、隼人は何も言わず、ハンバーグセットのサラダを黙々と口に運んだ。
堂々巡りは、まだ続いていた。
自分でやるか、長谷川に渡すか。
こんなに考えて、考えて、答えが出ないなんて。自分のふがいなさを気づかせたのは、口元でうごめく紙ナフキンだった。美紀が、短い腕を懸命に伸ばして隼人の口元を拭いてくれていたのだ。
「あ、気がついた? 隼人君、その、ドレッシングが口の周りにべったりついて、髭みたいになってたから」
今更ながら顔を赤らめて、自分の行為を説明する美紀に、隼人は本気で詫びた。
「ごめん。本当にごめん。せっかく一緒に食べてるのに」
「ううん、ええんよ。その、勝手にやっちゃって、ごめん」
それを機に、2人の会話が弾む。弾むあまりに、ニショク内部で起きた小さな破断音など、2人の耳には届かなかった。
ビキッ!
「あの、理佐さん?」
「何よ」
「それ、ここのスプーンなんですけど」
理佐は今しがた自らの手で、しかも片手で折った、スープを飲むために取ってきた木製スプーンを見た。見て、顔を上げて優菜を見る。
「スープが飲めなくなっちゃったじゃない」
「……あたしのせい?」
「理佐、ちょっと落ち着いて。それはまずいよ」
るいが声を潜めて理佐に忠告した。
白水晶の力を受け止めるため、かつ、白水晶の力をより発揮できるように、エンデュミオール(バルディオールもだが)は、身体能力が白水晶によって強化されている。というより、個々の肉体が持つ潜在能力を引き出せるようになる、と言ったほうが正確か。
もちろん外見は、そして表向きは普通の女の子である以上、こんな場所でそんな力を発揮するのはまずい。るいの言葉は、そういう意味である。それにしても。
「あの浮気者め」
「あら? 優菜、付き合ってたの? 隼人君と」
「あたしじゃなくて、お前だ、オ・マ・エ」
優菜は遠く離れた座席に座っている隼人たちをチラ見するのをやめ、理佐に人差し指を突きつけてくる。
「わたしは関係ないじゃない」
理佐はまたちらと隼人のほうをみやり、いたってすました顔でこう続けた。
「美紀ちゃん、好きなんでしょ? 隼人君のこと。関係ないじゃない。わたしにはイチミリも」
理佐の目が怖いよぉ。るいが茶化したが、その怖い眼を自分に向けられて縮み上がる。
「関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない」
そうつぶやきながらチキンソテーを細く細く切り刻んでいく理佐。
なによまったくこんなところでいちゃいちゃしちゃって。そのつぶやきについて、友人2人は今後の関係と身体的安全を考慮し、だんまりを決め込んだ。
実はね。そう、隼人は切り出した。
「ボランティアのスタッフの1人が探しているものがあって、その人はそりゃもう必死で手にいれようとしていたんだ。それこそスタッフの間の雰囲気が悪くなるくらい。それを偶然、俺が手に入れたんだ。でも――」
隼人は顔を曇らせる。
「――それは、俺も探していた、欲しかった物なんだ。だから、迷ってるんだよ。俺が手に入れたものなんだから、その人には黙って使っちゃおうか。それとも、やっぱりその人にあげて、その人を喜ばせるべきか」
「そんなん、あかんやん」
食後の散歩を兼ねて生協まで降りてぶらつきながら、美紀の答えは明瞭だった。
「迷ってるいうことは、自分が相手に悪いことしてるって自覚してるんやんか。素直に渡したったらええやん」
隼人君にとってどうしても必要なものやったら、また手に入るよ。そう言おうとした美紀の言葉は、隼人の左手によって遮られた。
「ふあああああああ」
「美紀ちゃん、声を出されると、すごく恥ずかしいんだが」
隼人は美紀をなでるのをやめて、すっきりした顔で言った。
「ありがとう、美紀ちゃん。おかげで答えが決まったよ」
「ううん、良かった。隼人君の役に立てて、うち、うれしい」
2人は3コマ目に間に合わせるべく、やや急ぎ足で学部棟目指して登っていった。
バキッ!
「あの、優菜?」
「なんだよ」
「優菜、ちょっと落ち着いて。それはまずいよ」
「ここ誰もいないじゃん。あたしら以外」
「いやそうじゃなくて。それ、携帯」
優菜は左手に持っていた携帯を見た。ヒンジ部分で折られて、ディスプレイサイドがぷらーんと垂れ下がっている。
声にならない絶叫が、大学の裏山まで木霊した。
3.
塾での授業は、やはり学校のごとく、起立、礼、着席で始まり、終わる。終わったら、次は講師と生徒でする教室の掃除だ。塾長・東堂のこだわりで、遅くなるから早く帰って勉強させろという親からの抗議も来るが、一貫して『情操教育ですから』と突っぱねている。
「先生、もう、悩み事は解決したんですか?」
隼人が机を後ろに下げていると、生徒の1人が訪ねてきた。
「ん? そんなことあったっけ?」
「先生、この間、駐輪場で暴れてたじゃないですか。ヘルメット、ガーンって壁にぶつけて」
あの醜態を見られていたと知り、隼人は思わず赤面する。
「うん、もう大丈夫。お友達に相談して、解決したから」
と慌て気味に説明すると、聞いていた生徒たちは一斉に、ふーんという顔をした。
「お友達? それは新しい彼女さんですか?」
「きゃーみやびちゃん、なにそのぶっちゃけ質問!」
「そうに決まってるじゃない。先生がモテないわけないもん」
女子生徒たちが勝手に盛り上がるその横を、黙々と沙良が床を掃いている。
「ほら、坂本さんを見習って、掃除するする」
隼人が促すと、女子生徒たちはきゃーと叫んで散らばり、掃除を始めた。なにがきゃー、なのかさっぱり分からないが、そのやり取りの間にフケようとした男子生徒を連れ戻しつつ、掃除は10分ほどで終わった。
講師控室に戻り、講師用テキストなどを整頓していると、携帯が振動した。思わずびくっと体が震え、その震えが手に残ったままデイパックから携帯を取り出す。
『事故発生、対応中』
オーガ出現の報に、体がカッと熱くなる。くそっ、なんで塾のバイトの時に限って来るんだよ。隼人はどうにもやるせない気持ちで控室の出入り口を見る。今日も生徒が個別に聞きに来ているのだ。手伝いに行けないじゃないか。くそっ。
「おーい、聞きたいことがあるなら、早めにな。もう遅いんだから」
ほかの講師が、焦り始めた表情の隼人を見て気を使ってくれた。おずおずと入ってきた生徒に、それでも笑顔を作って、隼人先生はがんばる。君らもがんばってくれ、と彼方の戦場に思いを馳せながら。
40分後、ようやく生徒から解放された隼人は、原付の横で携帯を確認した。もうさすがに終わっているだろう。今日は大切な用事があるのだ。だが、アプリの表示は無情にも、状況の激変を伝えていた。
『障害発生、対応中』
正体不明のバルディオールを示す、それが『障害』。
(『火災』じゃない、新手だと? まさか、敵に増援が来たのか?)
出動ポイントを確認すると、これがまた遠い。管轄区域のかなり北のほうだ。原付で行っても、優に40から50分はかかるあたりである。土地勘もない隼人には厳しい場所だ。
しかたなく、彼は支部へ行くことを選んだ。せめて支部の居残りが、長谷川でありますように。
隼人の願いは、あらゆる意味でかなわなかった。
支部に、長谷川の姿はなかった。今日も生理痛で不参加と永田に教えられて、隼人は努めて平静を装って支部長室のソファに座り込んだ。
どうにもタイミングが合わない。そう心の中で隼人が毒づいたとき、そんな、と永田が真っ青な顔でつぶやく。机上のモニターに『障害の排除に失敗、Hポイントに撤収』の文字が赤く浮かんでいるのを、覗き込んだ隼人も見た。
失敗? Hポイント、つまり病院に撤収? てことは――
「負けちゃった……そんな……」
つぶやく永田を置き去りにして、隼人は支部長室を飛び出した。
病院では、理佐がまた体中包帯まみれでベッドに寝かされていた。それだけじゃない、支部長まで同じ状態でベッドに横たわっている。
「るいちゃんは? アクアはいつ来るんですか?」
息せき切った隼人の問いに、横田は疲れきった、そして妙に達観した顔で答える。
「るいちゃん、今日は飲み会だから」
午前様じゃないかな、今日は。そう横田が答えるのを待たず、隼人は携帯を取り出し、震える手でるいの携帯を呼び出す。
『……もしもーし、隼人君? 珍しいね、かけてくるなんて』
「今すぐ浅間会病院に来てくれ。頼む」
『今飲み会だから――』
「今度埋め合わせする。好きなだけ、好きなものを飲ませてやる。頼む、理佐ちゃんも支部長も大怪我なんだよ! 頼む――」
『分かった』
それでもやや不機嫌そうながら、るいは短く答えると、通話を切った。
はぁ、と一息ついた隼人に、支部長が苦しげな息の下で声をかけた。
「ごめんね……嫌な役回り……させちゃって」
いえ、と短く答えて、隼人は首をかしげる。なぜ支部長まで大怪我しているのか。
理佐が敵に敗れて大怪我したのは分かる。まさか、その後サポートスタッフまで? それなら、支部長のそばにいたはずの横田が無傷なのがおかしい。その問いに答えたのは、支部長自身だった。
「久しぶりに、変身してみたけど……やっぱり、無茶するもんじゃないわね」
驚いて支部長を見る隼人に、横田が説明してくれた。ブランシュがやられて止めを刺されそうになったので、支部長が自分用に持っていた白水晶で変身し、敵の前に立ちはだかった。
だが、14年のブランクは如何ともしがたく、防戦一方になった。そこで支部長はスタッフに撤退を指示して、自身は捨て身の突撃で時間を稼ごうとし、それは成功して敵にも傷を負わせたが、支部長は返り討ちにあった――
「だめだ……」
険しい表情から漏れたつぶやきに、横田が怪訝な顔で問いかけるが、隼人は答えない。答えられるはずがない。
隼人は心の中で長谷川を罵倒する。
なにが、わたしはエンデュミオールになりたいの、だ。
なにが、ドカーンと妖魔をやっつけて、だ。
肝心なときに、いや、それ以外の時ですらすぐにサボっていなくなるくせに。
やっぱり、だめだ。あれは渡せない。
そして次に心に浮かんだ女の子に、隼人は謝る。
ごめん、美紀ちゃん。君に嘘をつくことになった。君の心からのアドバイスを、俺は無視する。もう、こんなのごめんだ。
俺がやる。
俺がこの子たちと共に戦い、この子たちを守るんだ。
隼人はもはや揺るがず、その厳しい横顔を、支部長が見つめていた。