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空に、君の名を呼べば。  作者: 佐藤和輔
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 新しい生活とは、往々にして慌ただしいもので、それは、和弥にとっても例外ではなかった。

 忙しさは、和弥にはかえって都合のいいものだった。余計なことを思い出す暇を与えてくれないからだ。

 ふと、和弥は考えた。

――思い出さないようにすることと、忘れようとすることは、どっちが簡単なのだろうか。

 しかし、慌ただしい生活の中では、その答えを見出すことすら叶わなかった。あるいは、答えなど、ないのかもしれない。

 季節は流れていた。

 当たり前のことだが、秋は冬へと、名を変えてゆく。空は次第に鈍色に染色されていき、色付いた木々たちはやがて侘しさを枯れ木色として現す。高く聳える山々の頂は、うっすらと白い模様をつけはじめている。もうすぐ暦は年をひとつ、すすめる。

 仕事場の雰囲気は、和弥にはありがたいものだった。多少の残業はあるものの、定時通りの出社と帰宅は、和弥を望みどおり独りにしてくれた。時折、食事に誘ってくれる上司もいた。それも極力断るようにはしていたが、仕事でわからないことがあれば、その時は言葉に甘える、ある種の狡猾さも、和弥は研修期間中に学んだ。

 年が明けて、春がくれば、正式な社員として就業することになる。その意識は、責任として和弥にのしかかってきてはいたが、その、重圧が責任であると自覚できたことは、ある意味、今の生活を選んだ和弥の選択に間違いはなかったということの裏付けにはなるだろう。

 不意に、高校生として生活していた頃を思い出す時もある。本来であれば、この冬を越せば高校三年生になっていたはずなのだから、それも仕方のないことだった。

 新しい生活のスタートは上々だった。

 疾走感を思わせる爽快さもあった。はたして、あのまま惰性で生きていたら、今ほどの思いを感じることができたのであろうか、とも思う。

 時間が自分を成長させるのだとばかり思っていたが、最近では、自らを成長させるフィールドが時間、なのだとも思う。


 雪のない年明けだった。

 不思議なことに、孤独感はなかった。

 自分で望んだ独り、なのだから当然といえば当然なのだが、それでも、空虚さは訪れるだろうと、和弥はぼんやりと、賑やかなカウントダウンが響くテレビを見ながらその時を身構えていた。

 年が明ける間際、かつては鳴り止むことのなかった携帯電話もこの時は、三回、メールの着信があったのみだった。

 会社の上司と、両親。

 故郷の夕焼けを映し出している携帯の画面が、三通目のメール着信を告げた時、テレビから大きな歓声が沸き起こった。

 送信者は、野呂だった。

 テレビの中の歓喜に満ちた人々のざわめきに負けないくらい、和弥の深い場所が、大きく、揺れた。


 和弥が新しい生活へと出発した日に送ったメールには、結局、誰からの返事もなかった。

 本当は、返信の期待が無かった訳でもない。しかし、その期待は、これからの自分には必要の無いものだと自身に言い聞かせた。

 それからは、月に数回の、両親からの連絡と、会社の連絡事項のみが、携帯を鳴らすにとどまっていた。

 そんな中で、和弥の使っている携帯電話メーカーから、一通の葉書が届いた。

 新春セールの広告と、これまでに貯まったポイントのお知らせだった。貯まったポイントを使って新しい携帯を購入すると、どれだけお得なのかを、丁寧に表までつかって書かれていた。

 セールの期間は、元旦から、の五日間で、その期間、特にやることも無かった和弥は、これを機に電話番号も一新して、新規で携帯を購入しようと思った。

 どうせ、番号が変わっても、知らせるのは家族と会社だけだし、所々に思い出が塗布されている機種を使っているより、新しくしたほうが自分の為、だと思った。

 

 そんな矢先の、野呂からのメールだった。

 内容は、ありきたりの出だしだった。

 新年の挨拶から始まり、近況報告へと内容は変わっていった。あの時や、あれからの事については、極力触れないように文言を選んでいるのが、痛々しいほどに伝わってくる。

 最近は、みんな元気でやっているといった内容だった。そして、追伸として、

 【新年からこんな話題で申し訳ないけど】

 から始まる文章には、彼女の両親の都合で春には転校する旨と、彼女自身、親戚の家にひきとられることになった。との報告が綴られていた。

 時間は一つだけじゃ無いということに、その時、和弥はしみじみと気がついた。


* * *


「俺でも、ってどういう意味だよ」

 彼女は確かに『和弥でも、いいんだよ』と言った。しかし、その真意を測るには、あまりに唐突すぎる言葉だった。

「その前に、私の質問に答えてっ」

 意を決したように強い語調でまさ美は言うと、「しめて」と、和弥の握るドアノブに目を向けて、声を低くした。

 静かな室内に、ガチャッ、と重厚な音が余韻を引きずりながら広がってゆく。

「なんだよ、質問って」

 まさ美が小さく息を吸った。

「和弥、どうしてそんなに――」

 和弥は次の言葉を待った。彼女は慎重に言葉を模索しているようだった。

「どうして、そんなに自分を……。自分を傷つけながら生きようとするの?辛くない?和弥、まだ、あの事引きずって――」

「うっせぇよっ」

 自分の心を見透かしたような言葉に、怖さすら感じた。まさ美は言葉を紡いでゆく。

「和弥、まだひきずっているんでしょ?全部、自分が悪いって、そう思っているんでしょ?」

 和弥は言葉を失って、ただ、下を向いているしかなかった。

「和弥は何も悪くないよ。昔の和弥に、戻ろうよ」

 切なさを声にしたら、きっと、こんな響きなのだろうか。

「お前に俺の何がわかる?同情なんて、いらねぇんだよ」

 強く言うつもりだったが、喉の奥にせり上がってくる感情が言葉を詰まらせた。もう、すっかり忘れていたはずの思い出がじわり、と滲みはじめていた。

「わかるよ。だって……」彼女が、ごくり、と唾を呑み込んだ。

 その先の言葉を聞くのは、無性に憚られた。


「もうほっといてくれよっ、ノロちゃんっ」


 和弥の、あまりにも本能的な言葉だった。

 言ってからはっとした。まさ美の視線が和弥の心に突き刺さる。

 彼女の涙が、フローリングにひと粒弾けた。

「そうやって……。そうやって昔の名前で呼ぶところが何よりの証拠じゃない」

 まさ美の声が、痛かった。

「ね、戻ろうよ……」

 和弥の頭蓋に、ぎしっ、という音が響いた。それは、強く、歯噛みした音だったが、聞きようによっては、固まっていた心が時間を取り戻そうともがいている音のようでもあった。


* * *


 賑やかな商店街に出るのは久しぶりのことだった。辺りでは甘酒の屋台が、とろりとした匂いをふりまいていたり、少し奥の方に目をやれば、獅子が踊っていたりと、華やかさが、さらに着物でも着たような鮮やいだ光景が広がっていた。

 新年を寿ぐように夜半過ぎから降り始めた雪も、明け方にはすっかり止んで、歩くとシャリシャリと音をたてた。初空は白くて明るい。

 活気に溢れる街の姿に忙しなく目を動かしながら、やがて和弥は、オレンジ色がイメージカラーの携帯電話メーカーの店先に着いた。華やかな振袖を纏った女性店員が二人、新年の言葉を、声を揃えてかけてくる。

 和弥は口元を少し弛緩させて会釈すると、店内へと入っていった。

 店内はさながら、カフェのようでもあり、高級外車のディーラーでもあるかのような佇まいをしており、中央ではイメージキャラクターの人形が大きな鏡餅の上に乗っていた。ディスプレイには最新機種が、目眩を覚えるほどずらり、と陳列されていた。

 和弥は、そばにいた店員に声をかけた。

「すいません。機種変更したいんですけど」


 野呂からのメールを見た和弥は、最初、返信に迷ったが、野呂の近況には触れないようにして、月並みな新年の挨拶を打ち込んで送信した。

 返信に迷ったのは、なにも、言葉が浮かばなかったわけでは無い。

 近況報告の中にあった、

 【~それで、親戚の家にひきとられることになり、名前も【野呂】から【一ノ瀬】に変わりました(汗)】

 というのを見て、彼女のことをどう呼べばいいのかに迷っただけにすぎない。

 送信を終えた和弥は、携帯に登録してあった野呂のメモリーを、一ノ瀬へと打ち変えた。

 彼女からのメールがなければ、和弥は迷いなく番号も変えていただろう。

 しかし、彼女からのメールによって、希薄ではあるが、確かな関係がそこに残されることとなった。

 

* * *


 「ね、戻ろうよ」

 まさ美の手が和弥の手首をしっかりと握っていた。和弥はその手を振りほどくことも出来たのだが、理屈では言い表すことのできない力が和弥を支配していた。

 部屋に入るとまさ美は、

「ビールでもいいんでしょ」

 ロング缶を二本、両手で持ってきた。

「私も飲むけどね」

 一つを和弥に渡し、彼女はプルタブを引いて一気に喉元を上下させた。そして、大きな溜息をついた。

 和弥は、その一連の動作をぼんやりと眺めた後で、部屋の隅にあるテレビの方へと目をやった。

 和弥が目を向けている場所に、まさ美も目を向けた。

 そこには、今いる部屋を照らしているのは、まるでその写真だと言わんばかりの、眩い笑顔を湛えた四人の写真があった。

 ライブ帰りに撮った写真。そこに写るのはもちろん、和弥、悠平、琴乃、そしてまさ美だ。

 ビールを一口、口に含むと、いつもより苦い気がした。それに、少し、血の味もする。

「一ノ瀬、俺の顔、そんなにひどいか?」

「ん?」まさ美が振り向く。少し逡巡してから「うん」。

 そう言って和弥の左頬に手のひらを重ねた。

 静かな部屋の中では、ビールの気泡が弾ける音までも聞こえてきそうだった。

「質問の答えだけどさ」

「うん……」

 まさ美は不安そうだ。

「ごめん、な」

「だから、和弥は何も悪くないんだって」

 まさ美の手は、まだ和弥の頬に当てられたままだ。その手は暖かく、優しさに満ちていた。

「違うんだ」

「何が、違うの?」

 まさ美の双眸が和弥の視線に重なっていた。

「答えられそうにない」

「どうして……」

 悲しげな光を帯びたまさ美の瞳が見開かれる。和弥はもう一度言った。

「違うんだ」

 言葉にしたとたん、それは言葉としてではなく、涙となって溢れてきそうだった。

 今も、すでに……。

「泣いても、いいか」

 頬に当てられていた手が一層熱を帯びた気がした。しかし、その熱は和弥の瞳から溢れる涙の熱にほかならなかった。

 凍てついた心が融けだして、涙となって流れ出ているようでもあった。

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