花火のように…
「どこ行ってたの?」
背後からの一ノ瀬の声に和弥は、たった今くぐって来たばかりの焼き鳥屋の暖簾を振り返った。
「はぁ?何言ってんの、お前。どこ行ってたじゃなくて、今ここにきたんだよ」
「そうじゃなくてさ……」
「なんなんだよ」
「和弥、家に居なかったでしょ。そろそろ大変な頃かと思って食料届けてあげようとしたのにさ。――まぁ、どうせパチンコでしょ」
「一ノ瀬には関係ねぇだろ」
乱暴に言い放つと、和弥は手元にあったつくねを一口齧り、ビールで一気に胃の中へと流し込んだ。
「和弥君、あんまりウチのまさ美をいじめないでやってくれよ」
奥で鶏肉を串に刺しながら大将が言った。
「はいはい。――おっちゃん、もう一杯ビールね」
「随分景気いいじゃない。勝ったの?」
一ノ瀬まさ美が和弥の掲げたジョッキを受け取り、サーバーからビールを注ぎ入れながら訊いた。
「だから、一ノ瀬には関係ないだろって」
「はいはい。ごめんね」
まさ美は店名の入った前掛けを腰で結んでから、和弥の前にジョッキを置いて、カウンターに入ってゆく。
彼女は、日中は化粧品メーカーのOLをしているが、こうして週に三回ほど、叔父にあたる大将の焼き鳥屋を手伝っている。
「んで、食料ってなんだよ。せっかくだから帰りにもらってくわ」
「関係無いんじゃなかったの」
「それとこれとは別だろうが」
正直、まさ美が、自分の生活を案じて、こうしてたまに食料をくれるのは有り難いが、そこには同情が潜んでいるような気がして、胸がむずがゆくなる。
――でも、不快なわけでは無いし、助かっていることは否めない。
嫌だったら、こうして店に足を運ぶこともないだろう。
和弥は店内をぐるりと見回した。
油汚れで真っ黒になった換気扇は、店内にこもる煙を十分に排出することが出来ず、エアコンもない、扇風機ひとつだけの店の中は、じっとりとした空気が肌にまとわりついてくる。むしろ、この環境が不快といえば不快ともいえた――口には出さないが。
「和弥君、焼きモツ、食うだろ?これ、サービス」
大将が焼きモツにネギをたっぷり載せて、カウンターに置いた。
「あ、ども」
サービスも良くしてくれるし、会計も安くしてくれる。和弥が、この焼き鳥屋を贔屓にしているゆえんでもある。それでも、生活保護によってなんとか日々をしのぐ和弥が、そう頻繁に店を訪れることもないのだが。
それを慮ってのサービスでもあるのだろうけど。
今更、自分を情けなく思うようなプライドは、とうの昔に捨てていた。仮に、心の底にそのような自尊心の欠片があったとしても、久しぶりの酒に酔った頭では、自覚に至ることはないだろう。
和弥は、飲み物をビールから焼酎に変え、じっくりと時間をかけて、自分を酔わせていった。
* * *
琴乃の口から全てを聞き終えたとき、和弥は、ほっとしている自分に気づいた。そこから和弥は、やはり、親になるという責任を背負うには、まだ自分は若すぎたのだと悟った。ある意味それは、今の段階からひとつ上のステップへと和弥を成長させた出来事であったのかもしれない。
【低体重による無月経】
それが琴乃に妊娠と勘違いさせた症状だった。
これは、ダイエットをした時などにも見られる症状で、特に、月経周期が定まりきらない思春期に、身長に対する一定の体重を下回ると発現する。
確かに、テニス部とバンドを両立させる生活は慌ただしいもので、琴乃はこの時期、随分と体重を減らしていた。
しかし、性交に対する避妊の意識が低かったのも確かで、診察室には和弥も呼ばれて、医師による教育を受けたのだった。
「なんかごめんね、琴乃。これからはもっと琴乃のこと、大切にしようと思う」
琴乃はほっとした表情を貼りつけながら、それでも照れたように、
「ありがと。私、今回のことで色んなこと考えさせられた。でもね、今はまだ早いけど、いつかは――」
そう言って顔を赤らめた。その横顔には診察室に入って行く時には無かった大人びた雰囲気があった。
その後のたおやかな笑顔は、和弥の心に眩しかった。
「あのぉ、なんか私まで恥ずかしくなっちゃうんですけど」
野呂が申し訳なさそうに口を開いた。
その時、三人の間に大きな笑いが弾けた。
「昨日、どこ行ってた?」
悠平が気にするのも無理はなかった。和弥は、家の事情で早退するとしか伝えていなかったのだ。
「ちょっと家の都合でさ。親戚の家に行ってたんだ」
「そっか……」
病院に行ったあと、本当は全てを悠平に話すべきだと和弥は考えていた。しかし、事情が事情なだけに、いくら親友にだとしても女の子が産婦人科に行ったことなど伝えるべきではないと判断したのだった。
悠平の顔には、いつもの明るさがなかった。
「ノロちゃんも、琴乃ちゃんもそろって早退か。偶然だな」
何かを詮索するような声色だった。
「あ、ああ、そうなんだよ。それぞれ用事あったみたいだな」
早く話題を変えたかった。それに、悠平が何をそんなに気にしているのかが和弥にはわからなかった。
そろそろ、野呂と琴乃も学食に来るだろう。
食券はまだ買っていなかった。二人の前では、薄黄色のプラスティックのグラスに氷がかすかに揺れていた。
「和弥、俺がノロちゃんのこと好きなことは知ってるよな」
「ああ」
悠平の言わんとすることがわからなかった。
「心の中では、俺を、馬鹿に、してんのか?」
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ。心から応援してるっつうの」
和弥が笑ってみせても悠平の表情は硬いままだった。
「俺に嘘ついて……。何、隠してるんだ?和弥、まさかこんな形で裏切られるとはな」
「おいっ、ちょっと待てよ。悠平、お前なんだかおかしいぞ。なんだ、裏切るとかって。いい加減、怒るぞ」
――ガタンッ
悠平が急に立ち上がり、和弥を見下ろしていた。その、ただならぬ気配に気付いた周囲の者たちも心配気な眼差しで二人の様子を窺っている。
この状況下で言いうる全ての言葉を削ぎ落とされた和弥がそれでも何かを言おうと口を開いた矢先、悠平が言葉を投げた。
「俺、昨日見たんだよ。お前とノロちゃんが一緒のところ。しかも、聞くつもりは無かったけど、お前らが話している内容も……。あんな場所で……。心当たり、あるだろ」
産婦人科の前の自販機だ――悠平は、勘違いしている。
「あれは――」
言いかけて琴乃の顔が脳裏をよぎった。悠平はその一瞬を見逃さなかった。左手が和弥の胸ぐらを捉えた。
「ちょっ、おいっ――」
その先の言葉は、和弥の左頬を抉った悠平のこぶしによって刈り取られていた。
激しい音とともに、
「きゃーっ」
様子を見ていた他のクラスの女子の声が学食内に響き渡った。
「言い訳もできないんだろう。馬鹿にしやがって。お前がそんな奴だったとはな」
怒りに我を失った悠平はもう、和弥の言葉を一文字たりとも受け入れようとはしなかった。そして、それは、和弥も同じだった。
殴られたことで、一瞬にして沸点に達した頭の中は、全ての思考を停止し、まるでそれが熱のはけ口であるかのように和弥も悠平を殴り返した。
「勘違いもほどほどにしろ、悠平っ」
殴りつけた左のこぶしに悠平の唾液と血液の感触がぬるりと走る。
「あぁっ、そうさ。全て勘違いだ。思い上がった俺が、馬鹿をみた」
――もう……だめだ。
和弥は思った――今の悠平には何を言っても、もう。
涙が出てくる。
悲しかった。悔しかった。
こぶしはまるで自分の心を殴りつけているかのようだった。
悠平に何度も殴られて、和弥の顔が腫れてくる。
和弥に何度も殴られて、悠平の顔が腫れてくる。
その時、和弥は視界の端に琴乃と野呂の姿を捉えていた。
「どうして……」
声は聞こえなかったが、口元がそう動くのが、まるでスローモーションのように見えた。
走り寄ってくる琴乃と野呂を、駆けつけた教師の一人が両手を広げて止めていた。
やがて、和弥と悠平もその場で抑えつけられ、二人は別々に生徒指導室へと連れて行かれた。
二人のこぶしは、一番大切なものを粉々に砕いていた。
心が痛かった……。そして両手のこぶしが痛くなった。殴られた顔の痛みを自覚したのは、家に帰ってからだった。
次の日が土曜日だったのは、ある意味、幸いだったのかもしれない。
土曜、日曜と、きっちり顔を冷やしてゆっくりと休めば、月曜日、学校に行くときにはだいぶ、顔の腫れもひくことだろう。
しかし、登校した際にクラスに顔を出すことはない。悠平と会うこともない。琴乃や野呂に、会うことも、無い。
月曜日、和弥を待っているのは、悠平との喧嘩に対する学校側の処分だけだった。おそらく停学だろう。それくらいはしょうがないと和弥は思った。しかし……
土曜日、いつもであればタワリシチの練習に出かける時間だ。
ふと、もてあました時間に和弥は、ギタースタンドに置いてあるギターに手を伸ばした。そして、先日、ライブで演奏ったオリジナル曲のアルペジオを弾こうとした。しかし、スリーフィンガーの簡単な運指でさえ覚束無いほど、こぶしが痛かった。ピックを持つことすら叶わなかった。
和弥は携帯を開いて、待ち受け画面にしてある琴乃との写真を見た。今の和弥には、それくらいしか出来ることがなかった。
手の痛みが、心の痛みに変わってゆく。
左手はネックを握るだけで精一杯だった。弦を押さえるどころか、チューニングすら出来そうになかった。
心の痛みが、悲しみに遷移してゆく。
おそらく、自分に関わる全ての人間関係が調律不可能になってしまった。
孤独感が和弥を苛んでいた。
今度は、どうしようもない怒りがこみ上げてきて、和弥はベッドにギターを投げつけた。
投げつけたギターはベッドに弾かれて、大きな音をたてながら床に落ちた。
和弥はまた、携帯の画面を見つめた。
最初は自分を心配して電話をしてきてくれたのだと思った。でも、琴乃の「和弥、今、大丈夫?」と言った声からは、和弥の心をざわつかせるには十分すぎるほど感情が剥落していた。
「私、もう、和弥のこと、好きでいられないかもしれない。ごめんね……。嫌いになった訳ではないの。でも、あの時の和弥が怖くて……。多分、もう、無理」
和弥は言葉を返すことが出来なかった。そして、しばらく無言の時間が続いた後、琴乃はもう一度「ごめんね」と、本のページをめくる音のように微かに言って、電話を切った。
どれだけ画面を見ていたのだろうか。
画面の中の二人は、眩しいほどの笑顔で頬を寄せ合っている。
その画面がふっ、と暗くなった。それでも和弥は携帯の画面に視線を落としたままだった。
暗い画面に映るのは、醜いほどに腫れあがった、傷だらけの情けない自分の顔だった。
その日、和弥は、食事も摂らず、夜になるまで携帯電話の画面の中の二人と、腫れちらかした自分の顔とを交互に見続けた。
茫洋としている何かが、しかし確実にそこにあった何かが、少しずつ、静かに狂ってゆくのを、和弥は感じていた。
大地の熱が大気へと放射されてゆくと、草雲雀の美しい鳴き声が次第に大きくなってくる。
和弥は不確かな意識の底でその虫音を聴いていたが、ふと虫とは異なる、笛のような音に気づき、窓の外に目を向けた。
もう一度、耳をすます。
再度、笛のような音色が景色の向こうから聞こえてきた。
曲導付きの、打ち上げ花火の音だった。
――そうか、今日は……
花火が地面から打ち上げられる。
『花火、行くの?』
野呂の弾んだ声を、思い出した。
三重芯の美しい変化菊が夜空に広がる。
『行くよ、ねぇ』
和弥の顔を覗き込んだ琴乃の愛らしい顔が心の中いっぱいに広がった。
残像が夜天に儚く滲みてゆく。
『当然じゃん。でも、行くのは四人でだよ。でしょっ、ノロちゃん』
和弥の言葉は、幻になった。
残響が山々にこだまして、拡散してゆく。
『俺、野呂に告白することにしたよ』
悠平の声はもう、どこにも響かない。
和弥は鼻の奥にツン、と火薬のような臭いを感じた。しかし、遠くの花火の煙が部屋の中まで届くはずがなかった。
次の花火が打ち上がるのが見える。数秒遅れてドンッ、という音が和弥の体を震わせた。その振動に感作するように、和弥の思いは次々と分水嶺を越えて溢れ出した。
連続で花火が打ち上げられる。しかし、その音はもう、しゃくりあげる和弥の声にかき消されていた。牡丹花火は涙に滲んで形が歪んでいた。
星に負けじと夜空を彩る花火は、さながら心の天幕に広がっては消えてゆく思い出のように、美しくも、脆く、儚げだった。
「琴乃……」
和弥は見上げた夜空に、その名を呼んだ。
流れる涙を拭った時、傷ついたこぶしと、腫れた眦と、そして、どうしようもなく胸の奥が痛くなって、やがて夜空が静寂に包まれてからも、和弥は独り、涙を流し続けた。
* * *
客が来るたびに、店内に充満していた煙と爽やかな風が入れ替わるのが、酔いのまわった、火照った肌に心地よかった。
大将がつくってくれる焼酎の水割りは、割合が9対1だ。もちろん酒が9。
グラスの底では箸で散々つつかれた梅干がふやけて、だらしなく揺れている。ちびり、ちびりと飲んで減る分を補充するように氷が溶けてゆく。それでも和弥の口には濃い目の酒を和らげようと、
「おっちゃん、氷ちょうだい」
さらに氷を入れてもらう。そうして飲み口が丁度良くなった酒を飲み干すまでの時間は、一人酒には最適だ。肴は焼き鳥が2、3本あれば十分だ。
客が増え始めた店の中は、その人数に比例するように視界が煙で霞んでいき、もう、何年もチャンネルを変えたことのないようなブラウン管の14型テレビの大きな音量も、賑わう声にかき消されてしまいそうだった。
ぼんやりと眺めたテレビでは、昭和歌謡の特集が放送されている。
~愛することに疲れたみたい 嫌いになったわけじゃない~
ずっと昔に耳にしたことのあるような歌だった。客の声を掻き分けて、かろうじて和弥の耳朶に触れた。
松山千春の【恋】だ。中学生か、あるいはもっと前に聞いたことのあるメロディーだった。
ふと、昔のことを思い出したが、思い出が感傷に変わる一歩手前で和弥は我に返って自虐の笑みを浮かべた。
高校を卒業してもう十年になる。もう、28才になった。この、過ごしてきた年月の中で和弥が学んだことといえば、人間関係の面倒くささと、一人になることの快適さと、昔は知り得なかった昭和歌謡の曲名くらいだ。
「和弥、帰るとき言ってよね。家よって食材、持ってってほしいから」
もちろん、一ノ瀬とだって和弥は一定の距離を置いている。そのほうが楽だからだ。
「なんだよ、持ってきてないのかよ」
「当たり前じゃない。和弥がここに来るなんて、私にわかるわけないんだから」
まさ美は客の対応に追われながら、合間を見て和弥に語気を強めた。
――それもそうか。
和弥は無言で一ノ瀬に、わかったよ。の意味で右手を挙げて、また、グラスの酒を舐めはじめた。
「まさ美ちゃん。彼氏と喧嘩かい?」
無神経な客が、目ざとく二人のやり取りをちゃかす。
「そんなんじゃ無いですよぉ。むしろ良い人募集中。おじさん、私なんてどうです?」
「おっ、本当か?でも、うちはカミさんがこれだから」
客は頭の上で両手の人差し指を立ててツノをつくって見せた。
「あっ、ひどぉい」
まさ美が笑うと、つられて客もニカッ、と笑った。
まさ美は、要領よく客をあしらって、笑顔で店内を行き来している。その姿は溌剌としていて、他人から見れば彼女に良い人がいないのは、むしろ不思議に違いない。
まさ美は今年、27才になる。
逆にもっと俺が距離を置けば、あるいは関わることがなければ彼女ももっと自由に自分の時間を大切にできるのでは、と和弥は思う。
俺に関わるばかりに彼女は、本当の彼女らしい生活を送れていないのではないか……。
――面倒臭ぇ。
考えを巡らせていながら、その途中ではっ、と我に帰る。やっぱり人に関わるといらないことまで考えてしまう。和弥は酔った頭の中に鈍痛を覚えた。
すっかり冷えてしまった砂肝を、大将に頼んで炙り直してもらい、和弥はその串に横から齧り付いた。ゆっくり、味わうように咀嚼してから、グラスに残った酒を飲み干した。
ふうっ、と一息ついて、
「おっちゃん、そろそろ帰るわ」
財布を開いた。
「おっ、そうか。じゃぁ」大将は、伝票を手に取って視線を下げた。
「二千円ちょうどな」
おそらく伝票には何も書かれていない。
「すんません、いつも安くしてもらって」
和弥は財布から二千円を大将に渡した。
大将は、朗らかな笑顔で、
「ちゃんと儲けはでてんだよねぇ」
と言って「まいどっ」料金を受け取った。
その様子を見ていたまさ美が、
「和弥、じゃあ、ちょっと待ってて」
前掛けを外した。
「外で煙草、吸ってるわ」
まさ美に言ってから、和弥は、
「ごちそうさまでした」
背を丸くして、暖簾をくぐり、外に出た。
煙だらけの店内にずっと居たせいか、外は嘘のように視界が澄んでいた。一瞬、足元がよろけたが、それが酔いのせいなのか、濃密な酸素を吸い込んだせいなのかは、わからなかった。
ポケットに財布をしまってから、煙草に火をつけた。大きく息を吸い込んで、空に向けて煙を吐き出すと、脳の真ん中に心地よい痺れが走った。
紫煙ははじめ、ゆらゆらと中空を漂っていたが、道を行き交う人や車の動きに敏感に形を変えながら、やがて、空気に溶けていった。
煙草と、酒の匂いが、くらくらと瞼を刺激した。その、目眩にも似た感覚に和弥は、焼き鳥屋のすぐ前にあるベンチに腰を下ろそうとした。
自分の意思とは関係なく足元がふらつく。体勢を立て直そうとした和弥の右腕が通行人の腹部にあたった。
「あっ、すいません」
謝ってからベンチに腰を下ろした――はずだった。
「なんだ、おっさんてめぇ。痛ぇじゃねぇか、あっ?」
ぶつかってしまった通行人の手が、和弥の胸ぐらを掴んでいた。酔いのまわった頭では、自分に起きている事態がすぐには理解できなかったが、相手の様子も、かなり酔っているようだった。
「本当に、すいませんでした」
再度、謝ったが、ことのほか酔いがまわっていたらしく、呂律が回らなかった。
「何言ってるかわかんねぇんだよっ。ちょっとこっち来いよ、おっさん」
言われるがまま――腕を引かれるがまま、といった方がいいのかもしれない――和弥は焼き鳥屋の横の、狭い路地につれていかれた。
――面倒臭ぇ。だから人ってやつは……。
そう思った瞬間。
景色が右から左へ、ものすごいスピードで流れた。左頬を、殴られたのだ。
そのまま和弥は地面に倒れ込んだ。すかさず脇腹を蹴り飛ばされる。その勢いで、ポケットの財布が落ちて、アスファルトを滑った。
「おっさん。慰謝料、もらってくぜ」
こともあろうに、男は財布ごと奪って、そのまま立ち去って行った。
――バカ野郎。家の鍵まで持っていきやがった。
ほんの1、2分の出来事だったにも関わらず、辺りには人だかりができていた。中には携帯電話のカメラを、和弥に向けている者までいる。
――くそっ。
やるせなさが体の中心からじわり、と全身に広がるのがわかる。
起き上がろうとしたが、無防備な身体に受けたダメージは思いのほか大きく、酔いと相まって、地面に手をついても上半身を支えることもできずに、すぐに肘がアスファルトに落ちる。
擦り剥けた肘に、血が滲む。
――どうでもいいや……。
自失の淵で、諦めが煙のように和弥の視界を曇らせた。ポケットの中から潰れかけた煙草を取り出してくわえた。しかし、ライターが見当たらなかった。
やがて、足の裏から意識が抜けていくような感覚に従って瞼が落ちてくる。
まさ美が和弥の元に駆け付けたのは、その時だった。
「ちょっと、あなた達何してんのよ。和弥、大丈夫?どうして、こんなこと……」
人をかき分け、好奇心のみで様子を窺う人々を睨めつけて、まさ美は和弥を抱え起こした。
「ちょっとぶつかっただけで、財布ごと奪っていきやがって」
「ひどい……」
口に手を当てて言った後、まさ美は抗議するように周りを一瞥してから、
「和弥、立てる?」
和弥の脇の下に自分の肩をもぐりこませた。その動きで、蹴られた脇腹が鋭く傷んだ。
「やめろよ。どうせ行く場所も無ぇ。ここで、寝かせてくれよ」
「馬鹿じゃないの。家まで送って行ってあげるから。――ほら、つかまって」
――どうしてこいつは、こんなに……。
献身的すぎるまさ美が哀れに思えた。
お前だって、俺に関わりさえしなければ楽だろうに。
「家、帰っても鍵が無いんじゃ入れないだろうが。俺になんて関わってないでさっさと行けよ。邪魔なんだよ」
突き放すのは簡単なはずだった。面倒な関係を捨てれば、またひとつ、楽になれる。
「どうして……」
まさ美の口が、そう動いた。声は聞き取れなかった。まさ美は、泣いていた。
和弥の全身を、細く、無数の痛みが襲った。蹴られた脇腹でも、殴られた頬でもない。収まりの悪い、到底、理解にも及ばないその痛みに、和弥は言葉を失った。
「さっさと、行けよ」
まさ美を振り払った。言葉の抑揚は努めて抑えた。
彼女の哀切な瞳は、相変わらず和弥を真っ直ぐに捉えている。
「和弥……、ツラくない?」
生き方を問われているようだった。
全てを見透かすようなまさ美の視線は、和弥の心を射抜くようでもあった。
まさ美はまた、和弥の脇の下に体ごともぐりこもうとする。
「ね、帰ろ」
もう、周りには二人を気に留める者はいない。地面に横たわっているせいか、下水の生臭さが鼻を突いた。
「痛ぇんだよ。もう、ほっといてくれよっ」
振り払われてもまさ美は、何事もなかったかのように和弥を起き上がらせようと必死になった。
「ね、戻ろうよ」
涙に濡れた声だった。戻ろうよ、という言葉は、深い意味が込められているような響きだった。
家にか?それとも、昔の、俺にか?
「行く場所が無いなら、私の家でもいいじゃない。……ね、帰ろ」
思わず和弥は顔を上げた。まさ美の瞳からはそれまであった哀切さは失われ、嘆願ともとれる色が見て取れた。その奥の力強さは、相変わらず消えていない。その双眸に見竦められた和弥は、まさ美に抗う術をすでに失っていた。