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空に、君の名を呼べば。  作者: 佐藤和輔
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思い出のはじまり

 埃っぽい放課後の教室には、オレンジ色の西日が斜めに射し込んでいた。

 グラウンドの方からは、部活動に励む生徒たちの威勢の良い声が聞こえてくる。

 それでも日の昏れ方は思ったほど速くはなく、カーテンが揺れる大きめの窓から視線を外に向けると、緑葉に弾かれた陽光がてらてらと校庭にある噴水の泉に踊っていた。

 学生の本業よりも、その隙間を満たす時間のほうが大切にも思えてくる。ことさら放課後に至ってはその意味は大きい。

 今日もまた和弥は、そんな眩しい時間に飛び込んでゆく。


 そんな日常……


 背後から女子の声が聞こえた。学年を問わず人気が高いソフトテニス部の一年生、琴乃だ。

「和弥、一緒に帰ろ」

 教室にいた悠平がこれみよがしに和弥の肩をつついてくる。

「行けよっ」と、背を押された。

 が、心とは裏腹にたたらを踏んだ足の裏にはブレーキが掛かっている。

 琴乃の顔を見た。

「いや……今日は無理かな」

「そっか……」

 残念そうにうつむいて教室を出る琴乃の姿に胸が痛くなった。

 ――はぁ。

 心でため息をひとつ。そんな和弥を見て悠平が笑う。

「何溜息ついてんだよ。素直に行けばいいじゃん。何?もしかして恥ずかしかった?」

「悠平、ごめんっ」和弥は走りだした。

 そして校門の前。

 うつむいて一人で歩いてくる琴乃の影が西日によって長く伸びていた。

 当たり前のことだが、影は黒く、いつまでも琴乃の後ろを付いて来ている。その黒さの中に和弥は、先ほど、琴乃の誘いを断ってしまったことへの罪悪感が潜んでいるような気がした。

「おせーよ。待たせんじゃ無ぇよ」

 弾かれたように前を向く琴乃を見て和弥は笑った。

「えっ?だってさっきは無理って」

「いくら親友とは言え、人前じゃ恥ずかしいだろ」

 自らの言葉に照れる自分がいた。つい視線を外してしまう。それをごまかすように琴乃の額をつついた。

「今度はメールで言えよ。俺も誘いたいからさ。アドレスまだ知らないもんな?ほら、これ、俺のアドレス」

 和弥は携帯を取り出して琴乃に渡した。

「登録して送ってよ」

 かまびすしく鳴く蝉の声に、琴乃の声はかき消されてしまいそうだった。

「ありがと」

 そして二人は一緒に並んで歩き出す。


 そんな恋愛……


 汗ばむ肌、高鳴る鼓動。容赦なく日差しは照り続けていた。喫茶店で涼むようなお金の余裕は無い。

 先日、親に必死に頼み込んでやっと買ってもらったフェンダー(タイプ)のギターを右から左肩にかけ直して悠平を待った。

 なんとなく女子にモテそうな気がして誘われるがままに始めたバンド。ギターは和弥。ボーカルが悠平だった。

 学校帰り、ボーリングかカラオケ、そしてマックが定番の過ごし方だった。悠平は抜群に歌がうまく、

「ボーカルは俺がやりたいんだ」

 と言った提案に異議を唱えられるわけはなかった。それに、和弥は、ギターを構える姿に憧憬があったので、願ったり叶ったりの結果におさまった。

 背中の中心を汗が玉になって伝い落ちてゆくのがわかる。着くずしたワイシャツが肌に張り付いてくる。隣を歩く琴乃は胸元のボタンをひとつ余分に外し、手のひらで生ぬるい風を送り込んでいる。手に持っていた炭酸飲料の缶についていた雫が汗同様に玉になって伝い落ち、その合間に落ちていった。

「ところでさ、琴乃。今回の曲はどうよ?」

 琴乃もバンドのメンバーだ。担当はベース。琴乃は背が低い。小さな体で長いネックを必死に押さえる姿は実に可愛らしい。

 琴乃の担いでいるテニスラケットのケースとベースが収まっているハードケースを持ってやりながら和弥は訊いた。

「うーん……。まぁまぁ、かな」

「もうちょっと練習しなきゃな。俺もだけど。今度二人で練習しような」

「うんっ」

 唄うように琴乃は言って、ぱぁっと顔を明らませた。

 悠平と合流すると、三人は外気よりもさらに熱気がこもるライブハウス内へと歩いた。

 音楽は若さの全てを代弁してくれる。


 そんな青春……

 

* * *

 

「そんな時もあった」

 真っ白い天井を見上げながら和弥はひとりごちた。

 聞こえてくるのは外を過ぎ行く車の音と、最近調子が悪くなり始めたエアコンのうなる音だけだった。

「ポンコツだな……」

 エアコンではない。今の、自分だ。

 日々、変化に富んだ日常は、目の前にある壊れたDVDデッキの様に次のキャプチャーに行く手前でいつもリピートされるようになった。

 熱く、胸を躍らせた恋愛は遠い昔の事だ。今は、月に一度のなけなしの生活保護をなんとかやり繰りしてつくった小遣いを握りしめて行くスナックの姉ちゃんの太腿に恋しているだけだ。愛なんてものは、そこには無い。それも最近はできなくなりつつある。酒はしばらく、安い焼き鳥屋で舐めるしかなくなってきている。古いエアコンは冷風を吐き出す代わりに電気代をごっそりと吸い込んでゆく。

 過ぎてみれば、きっとあの時が青春だったのだなと思い返す日々はある。しかし、今ではそれも何の意味も成さない。

 【夢、野心に満ち、疲れを知らぬ若い時代】

 それを青春と云うのだそうだが、きっと、今の自分はその対極を生きているのだと思った。その、対極を示す言葉を和弥は知り得ないが、辞典で調べたらそこには、

 【夢を失い、野心を砕かれ、疲れてばかりの無意味な時代】

 そう書かれているに違いない。

――自分の生き方が悪いのか?

 いや、そうではない。人並み以上に汗を流した。魂を搾るように涙も流した。ただ、それと同じくらい時間も流れてしまっただけにすぎない。決してそれ以上でもそれ以下でもなく、しかしそれは終わることなくこれからも続いてゆくだけのことだ。そうして過分に流れた時間はやがて老いとなって自分を覆ってゆく。

 終わるとすれば、それは和弥が死んだ時だ。だからといって死を選ぶつもりは無い。そこまで俺は、弱くはない。

 和弥はラジオのスイッチを入れた。

 この世の中、しかも平日の真っ昼間にどれだけの人がラジオを聴いているのだろう。ただ一人、薄暗い部屋の中で……。ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 今、和弥がデジタルメディアにコンタクトできるツールはラジオしかない。テレビはブラウン管の21型があるが、デジタルチューナーを買えないせいでスイッチを入れてもそこに映るのは自分の心と同じ光景だ。あるいはこの空間と同じ。

 白い無機質な部屋と、黒く澱んだ心、そして街のノイズ。


 ~I love you 若すぎる二人の愛には 触れられぬ秘密がある~


ラジオのスピーカーから聴こえてきたのは尾崎豊の【I love you】だった。

 

* * *


 バンドといっても最初から全ての演奏が出来る訳もなく、真似事にも程遠いものだった。それでも悠平に誘われて見学にいった軽音楽部の演奏を見て、和弥は一発で心を鷲掴みにされた。

 エレキギターのナチュラルトーンから瞬時に歪むオーヴァードライブエフェクトの音圧。悠然な動きをしつつもトリッキーなドラムのパフォーマンス。ベースのリズミカルなチョッパースタイル。そのどれもが和弥には衝撃だった。

「なっ、見に来て良かっただろ。これからいっぱい練習して、今度は俺たちがああいうライブをするんだ。一緒に、やろうっ」

「できるかな……」

 おそるおそる訊ねた和弥に悠平は言った。

「俺も、できるかどうかは正直わからない。でも、やってみたいし、和弥、お前とだったらできそうな気がする」

 根拠があったわけでは無い。でも、悠平の言葉に和弥も、こいつとだったらできる。と、思い始めていた。

――こいつとは、一生涯の親友になる。

 そう、感じた。

 

 何をするにも和弥と悠平は一緒だった。登下校はもちろん、タバコやサボりだって一緒だった。

 バンドビギナーの為の雑誌を買うのにも、なけなしの小遣いを出し合った。覚えたてのコードをぎこちなく組み合わせ、それに合わせて、到底まだ歌とは言えないメロディーを悠平が口ずさんだ。

 流行りの曲のギターソロをCDに合わせて練習し、何本も弦を切った。

 高い音をチョーキングするときは、悠平に、

「お前、チョーキングするときにいつも変な顔になってるぞ」

 と笑われ、むっとしながらも、自宅に帰ってからは鏡の前でその癖を治すのに必死になった。

 雑誌の中には、バンドメンバー募集のコーナーもあった。二人で話し合い、そこに投稿しようという話になった。

 募集は、ベースとキーボード。二人が未経験だったこともあり、未経験者も歓迎として、ハガキを投函した。その時のハガキや切手代も、もちろん二人で出し合った。


 琴乃の名前は二人とも知っていた。

 バンドを組む直前。つまり二年生になりたての頃、テニス部の新入生に可愛い娘が入ったともっぱらの評判になった女子がいた。それが琴乃だった。

「和弥、今年のテニス部の新入生の話、聞いた?」

 その頃にはほぼ全校生徒に周知の話題だったのも関わらず、悠平は放課後の教室の中、声をひそめて和弥に言った。

「聞いたっていうか、もう、見たよ」

 和弥が悪戯に笑みを浮かべて言うと、

「マジかよっ、こういう時は一緒じゃないんだな、卑怯者っ」

 と、悠平も笑って和弥の胸元を小突いた。

「下手すればライバルになるかもしれないって奴となんで一緒に」

「んで、どうだった?」

「普通に可愛かったよ。小柄な娘でさ」

 小柄な体で面積が広めのラケットを懸命に振る彼女の姿はむしろ清々しかった。周りの部員たちが女の子らしい蛍光色のガットを張っている中で、琴乃だけがストイックに機能を重視した灰白色のワイヤーガットを張っていた。

 無論、その事は当時の和弥は知る由もなく、後に彼女の口から聞かされたものだ。

 何度か悠平とも部活中の彼女の姿を見にいったりもしたが、次第に観衆も減り、彼氏が居るとかいないとかの噂も出始めて、そんな噂を耳にした途端、野次馬根性は一気に消え失せて、なんだか自分がものすごく格好悪いことをしているような気になり、やがてテニスコートへの足も遠のいていった。

 バンドを始めたのはちょうどその頃だった。熱中していくうちに彼女のことは頭から消えていた。

 その彼女がまさかバンドに興味があるとは思ってもなかったので、和弥と悠平ははじめ、メンバー希望のハガキのプロフィールを見て何かのいたずらかと思った。

 ベース希望だという。楽器は昔、父親が使っていたものがあるという。同姓同名かとも思ったが、そのプロフィールの中には和弥が通う高校と同じ名前が書かれており、テニス部とバンドの掛け持ちになってしまうけど是非、メンバーにしてください。といった内容が、まるで 彼女をそのまま文字にしたような小さくて綺麗な文字で書かれていた。

 彼女がメンバーになることに異議などあるはずがなかった。結局その後、キーボード希望の者は現れず、三人でバンドを組むことになった。

 あるとき、悠平が唐突に言った。

「バンド名だけどな、【タワリシチ】ってのはどう?」

 悠平はテストでも成績は常に上位だった。その学力に物言わせて、

「随分と変わった英語見つけてきたもんだな」

 和弥が言うと悠平は豪快に笑った。

 琴乃は不思議そうに二人を見ていた。

「ロシア語なんだよ。なんかさ、英語でビシッとカッコ良い名前も考えてたんだけどさ、英語だとありふれててカッコつけてるような気がしてさ」

「格好良い名前考えてんなら、格好つけても良いんじゃね?」

「それだとインパクトが無いでしょ?」

 悠平は琴乃に視線を送ったが、琴乃は返答に困った様子で曖昧に頷いただけだった。

「悠平、琴乃が困ってんじゃないか」

「それで、どういう意味なの、そのロシア語」

 琴乃が訊くと、悠平は待ってましたと言わんばかりに笑顔を作り、

「な・か・ま!」

 と三段跳びのようなリズムで言った。

「他に、同士とかって意味もあるらしい。昨日家でさ、日露辞典適当にめくってたらさ、その言葉が載っているページで止まったってわけ。なんだか運命感じちゃって」

「タワリシチ、ねぇ」

それに日露辞典って……。

 でも、不思議と異論はなかった。言いにくさは心の中にしまっておいて、

「なんかいいじゃん。なっ、琴乃」

「うん。仲間、同士って響き、私好きだな」

「じゃあ決定な」

 悠平は嬉々として声を弾ませた。

「タワリシチ、一緒にやっていこう」

「お前がこのバンドのリーダーなんだからその調子で俺らを引っ張っていってくれよな」

「おうっ」

 悠平は大きく返事をすると、

「よし、マック行こう」

 軽い足取りで歩き始めた。

「ポテトくらいは奢るよ。リーダーとして」

 意気揚々だった。

 そうしてバンド【タワリシチ】ははじまった。

 

 琴乃と和弥は話すほどに良く気が合い、放課後の教室でも弦楽器同士ということもあり仲良く練習した。悠平はそんな二人を親友として微笑ましく見守っていた。

 その頃にはお互いに惹かれあっていることを見抜いていたのだろう。悠平は気をきかせてくれて、教室に和弥と琴乃を残して屋上に行くこともよくあった。

 そんなある日、教室に二人きりになった和弥と琴乃はどちらからともなくキスを交わした。埃っぽい教室での、慌ただしく、ぎこちないキスだった。

 若いふたりに流れる時間の流れは世間のそれとは明らかに違っていた。

 二人の時間は幾何級数的に加熱と加速を繰り返し、日々は凝縮されながら烏兎匆々に流れた。

 二人が恋と愛の狭間で揺曳するお互いの熱のはけ口を探したとき、まるでそれが当たり前のことのように和弥は潤いを求め、琴乃は甘い硬さを求めていた。

 和弥の生きる世界は充実以外の言葉を受け入れようとはしなかった。

 親友とともに思いの丈を汗と音楽に託し、彼女とともに甘く、潤びるような時間を過ごした。

 

 学校の帰り道、橋を渡るとボーリング場と、川沿いに長く続いている遊歩道が見えてくる。

 河原には薄茶色のすすきがゆれはじめ、対岸には9月に行われる花火大会の桟敷席が設置され始めていた。

 中空を飛び交う蜻蛉の群れの中には、そろそろ赤とんぼもまじりだす季節だ。

 タワリシチ結成から五ヶ月が経とうとしていた。

『和弥、今、大丈夫?』

 突然の電話で琴乃に呼び出された和弥は一人、夕暮れの河川敷で腰を下ろしていた。気温は日中に比べて低くなってきてはいたものの、アスファルトの階段はまだ熱を帯びていた。

 ほどなくして、琴乃が歩いてくるのが見えた。

 手を振ると琴乃は、青空のような笑顔で手を振り返してくる。しかし、その表情には不安そうな翳りが浮かんでいた。

「どうした、琴乃」

 彼女は和弥の隣に腰を下ろした。

「あのね――」

 その後に、「多分」という副詞は付いたものの、彼女が妊娠の可能性を告げたとき、ざわっと、すすきを揺らす風が吹いたような気がした。

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