一章:裏切りと誠実の境界
扉を開けて皿を持ってきた男がテオをにらみつける。
「すんませんね」
「本名だけは教えるな」
「なんでですか?」
「……べつに良いだろう。命令だ。……必要ならばシオンと呼ばせろ」
「……っ!。……はい」
驚いているらしいテオを尻目に、男はリノの目の前のテーブルに音を立てて皿を置いた。
「ちょ……」
「黙って食ってろ。ガキ」
シオンはそう言って出ていこうとした。
ぎっと男をにらんだリノは立ち上がって皿を手にとって彼の背中に皿を投げつけた。
べちゃっと、音を立ててすすけた白い髪が食べ物の色に染まり、着ていた上着が汚れた。
「先輩」
後頭部に皿が直撃したシオンは、不機嫌そうに落ちた皿を手にとって、軽くリノのほうに放った、ように見えた。
「ちょ」
テオが声を上げてリノの顔を手でさえぎるようにして縦に飛んできた皿をつかむ。
見上げるとテオがシオンをにらんでいた。
シオンは無表情のままテオを押しのけ、リノに近づいてきた。
「ふざけるなよ、小娘」
低い声にリノも負けじとにらみつけて右手を振ったが、シオンに振り上げた手をとられてしまった。
「え?」
シオンは無表情のまま左手でリノの首を絞めながらベッドに押し倒した。
一瞬、呆けたリノの顔と表情がすっぽりと抜け落ちたシオンの顔が正対する。
「死にたいか?」
「殺すなら殺してみなさいよ!」
ヒステックにリノが叫ぶが、リノの顔色はない。
せめてもの矜持を保つためにシオンをにらみ続けているが、恐怖のためかうっすらと涙が瞳の中、盛り上がっている。
「肝は一人前だ」
シオンはそうつぶやいて起き上がろうとしたが、テオの手にあった皿で汚れた頭を殴られた。
「なにしてんですか、あなたは!」
そう叫ぶテオをうるさそうに顔をしかめながら、髪や背中に張り付いた食材を手でぬぐってハンカチで拭いた。
「テオ」
「はい」
「礼儀について教えてやれ」
「先輩っ!」
「侯爵家の執事はよほど令嬢に甘いと見える。兄は偉丈夫であるのにもかかわらずな」
鼻を鳴らしながらそう言うとシオンはテオをきつくにらんでから部屋の外に出ていった。
「先輩っ! おい、シオンっ!」
テオはそう叫びながら、シオンのあとを追い、部屋にはリノ一人が残された。
「あ……」
いまさらながらリノは、皿を投げ返され、なおかつ顔を狙われたということを理解していた。
その瞬間、かっとリノの頭に血が上って立ち上がって部屋を出ていた。
「なにをお考えなんですか、あなたは!」
そう怒鳴るテオに、聞く耳などないと態度で表すシオン。
シオンはタバコに火をつけてちらりと、その冬の空のように凍った色の瞳をリノに向けてそっぽを向いた。
「ガキが逃げるぞ、テオ」
「……」
テオはちっと舌打ちをしてリノのほうに駆け寄った。
「申し訳ございません。あとで、きつく言っておきますので」
「どちらが上の立場にいるかを教えてやれ。その後に、着替えの用意をしろ」
タバコをくわえながらそう言って汚れた服のまま階段を下りていった。
「……」
その背中をなにも言わずにテオはじっと見つめていた。
そして、見えなくなるとふっとため息をついてリノの背中に手を回し、扉を開けた。
「さあ。今日のところはお休みになってください。ここは安全です」
追いやられるように部屋に押し込まれ、鍵をかけられたリノは、唇をかみ締めてテーブルの上に合ったナイフを布に包んで懐に隠して、ベッドに寝そべった。
安い宿ならではの硬いマットレスの感触に眉を寄せながら目を閉じて寝返りを打ち、そうしているうちに眠ってしまっていた。