その10 ニコ様誰様お姫様(前編)
こんにちは。僕の名前は塔野大志っていいます。正真正銘男です。しかし現在、着物を着付けられて、顔に化粧を施されています。何故でしょう。それはもちろん――
「きゃあー! 塔野くん可愛い! すごい!」
「塔野……オマエ……は、鼻血が」
そう、ニコさんのお見合いをなくすため。ひいては喫茶店が潰れるのを防ぐため、らしいけれど、本当のところはわからない。でもそれが本当のことなら、僕としてもあの喫茶店が潰れてもらっては困る大きな理由が一つあるのだ。
「写メ写メ」
「ティッシュをくれ……鼻血が止まらない」
「いや、あの、二人ともちょっと落ち着いて下さいよ」
思えば、僕も女性に慣れたものだ。いや、ナンパ慣れしたとかいう意味じゃなくて。最初はこの二人と喋るのもしどろもどろだったけれど、今じゃこんなに落ち着いてる。
「保存して……メールに添付して送信」
「塔野……その、ティッシュが足りないようだから、なんだ、その、この鼻血を舐めてくれないか」
……やっぱり駄目だ。怖い。この二人怖い! っていうか店長が錯乱してとんでもないことを言ったような気がしたけれど、聞かなかったことにしておこう。そうしよう。
「塔野! 早く舐めてくれ! ほら!」
あぁ、もう一回言っちゃいましたね。せっかく聞かなかったふりをしたのにね。
「さぁ、舐めろ塔野! 私を舐めろ!」
状況が状況じゃなければ耳を疑うセリフですね。いや僕は既に疑ってるんだけど。一応触ってみたところ、耳は定位置にあった。じゃあ耳はおかしくないみたいですね。では何がおかしいんでしょう。
店長ですね。
「あの、店長、それはもういいですから」
「何故だ!」
「いや、舐めたら色々と問題があるでしょ」
「大丈夫だ。私なら構わん」
「僕は嫌です」
「なっ……!」
なんだか、まるで逆剥けを剥がしたら余計に傷がいっちゃった時みたいな物凄く悲痛な顔をされたんだけど、何故だろう。理由が皆目見当がつかない。僕は何の躊躇いもなく『わかったよ』といつもより1オクターブ低いイケメンボイスで言って、犬のごとく店長の顔をべろべろと舐めるべきだっただろうか。いや、そうではない。反語ですね。
「くっ、仕方がない。じゃあニコ、頼む」
「えー、女の子同士でも萌えますけど、自分でやるのは嫌です。ハナちゃんと店長が舐めあっているのを見るのなら」
「ニコさん、萌えるとか萌えないとかじゃくて……ってハナ! ハナがいたじゃないですか! 僕が女装しなくてもハナが恋人役をやれば良かったのに!」
完全に失念してた。喫茶店の内部でやらなきゃいけないことなのかと思って、花屋の方を考えるのを忘れていた。
でも、ニコさんは小さく首を横に振った。
「今回はダメなの。ハナちゃんじゃ」
「……それも、終わったら全部話してもらいますからね」
僕は、女装することを快諾……じゃなくてしぶしぶ了承する代わりに、これが終わったら全て話してもらうという条件を付けていた。先に話してもらっていても良いぐらいだったのだが、今は二人を信じておいた。二人の『絶対大丈夫。うまくいくよ。……多分』という言葉を信じて……いいのかこれ。多分って本当に大丈夫なのか? 絶対と多分って同時に存在していいものなのか?
なんて様々なことを思いつつ、やっぱり僕は心の底では二人を信じていた。
だから、気づけなかったんだろうか。ニコさんの笑顔が、いつもより固かったことに。まるで、蝋で塗り固められた仮面を被った、作りもののように。
「じゃあ、塔野くん、先に行っておいて」
「え? ニコさんは?」
「私は……色々と準備があるからさ」
「……? そうですか。じゃあ行っておきますね」
「うん。店長と一緒にね」
そう言ってニコさんは隣の部屋に行ってしまった。そんな、わざわざ言われなくても店長と一緒に……え?
「店長と一緒にいたらまずくないですか?」
「大丈夫だ。むしろいた方がいい。いつまでもその姿を見ていたい。毎日見ていたい」
「……何ですかその変態的なプロポーズみたいな発言。まぁ店長が良いならいいんですけどね」
僕としてもその方が心強いし。
話しながら僕らは歩き始める。ここ、誰の家か知らないけれどやたらと廊下が長いし部屋が多いから、迷いそうで大変だ。
「うむ。大丈夫だ。というわけでコレをつけろ」
「へ? 何ですかこれ」
そう言って手渡されたのは、左右両端がとんがった、眼鏡というかアイマスクというか……仮面舞踏会とかで付けられてそうな、目からおでこ辺りを覆う面。何に使うんだろう、と思って店長を見ると、しれっとすでに装着していた。
「……店長、まさかそれで変装ですか?」
「ん? いや、違うぞ」
「ですよね。さすがにそれで隠せるとは」
「今の私は店長ではなく、ナイト仮面! ナイト仮面の名前は『騎士』と私の名前の『夜』をかけて作られた、渾身の出来だ」
「……はぁ、そうですか。もうなんでもいいですけど、僕までつける意味あるんですかね?」
「大有りだ。さ、早くつけろ。もう部屋はすぐそこだ」
そう言われて僕はしぶしぶ仮面をつける。視野が狭まって周りが見にくいなぁ。ぐるりと辺りを見回すと、一瞬廊下の角に影が見えた気がしたんだけど……気のせいだろうか。
少し気がかりになりつつも店長に急かされて僕は小走りでついていく。
そして次の角を曲がったところで、店長は立ち止まった。
「……じゃあ、行くぞ」
「はい!」
僕は何をすればいいのかわからないけれど、とりあえずニコさんがこの婚約を嫌がっているのだから、無くしてしまえばいい。ただそれだけを考えよう。
そう決意して部屋に入った途端、思考が停止した。
「お待ちしておりました」
みんな僕らと同じ仮面をしているのだ。
ちょっと頭の薄いおっちゃんも、見るからに化粧の濃そうなおばちゃんも、割りと好青年っぽい人も、その隣の小学生らしき少女も、みんな。
ここは一体どこの怪しいショップなんだ。裏路地とかで売っちゃいけないものを売り買いしちゃってる奴らみたいになってるじゃないか。
「え、えっと」
「よろしく」
いつの間にか目の前にまで来ていた青年はそう言って手を差し出してきた。
「よ、よろしく……」
やっぱり、背の高い人は怖いや。僕は恐る恐る手を出してその手を握った。不思議と、温かい手だな、という印象を受けた。
店長をチラリと見ると、また鼻血を出していた。せわしない人である。
っていうかこの握手ってなんだ? これから始まるのってお見合いだよな? あれ? っていうか考えたらお見合いって僕が来る意味が――
色々な考えが頭をぐるぐるしているうちに、店長に座らされた。慣れない正座に苦戦しつつも、僕は静かに待った。ニコさんが来るのを。
「それでは全員揃ったので、始めさせていただきます」
「……ふぉえ?」
「ぶふぉ!」
びっくりして変な声がでちゃつた! しかしそれ以上に大変そうなのは店長だ。鼻血が滝のように流れてくる。『これで貧血ならない方がおかしいんじゃないか?』ってぐらい出てる。
「……私は大丈夫……だから、先を進めてくれ」
「承知いたしました。では、これより、家柄対抗、谷中ニコ争奪戦を始めます!」
「…………はへ?」
「どぅふっ!」
どうやら僕はとんでもないものに巻き込まれてしまったらしい。
とりあえず今回は、店長の鼻血が出過ぎて献血に提供すべきじゃね? ってぐらいに出ていたことを言っておこう。