第四話『蒼井サクラ』
あぁ、今日の夕飯が楽しみだ。
昨日は「ちょっとだるいから」とかなんとかそんな私的事情で仕事をバックれたからな、あの母親は。おかげでお湯を入れて三分でゴー!の某インスタントヌードルを悔しくもズルズル頂いてしまったじゃないか。久しぶりに食べたせいか、やけに美味しかったので少しは許せるが、それでも日本人の性なのかどうかわからないが夕飯は白くてツヤやかな米を食したかった。
だるいから、などと最近の女子高生じゃないんだから……一から十まで主婦のなんたるかを教えてやりたいところだが、生まれてから十六年このかた主婦になどになったことはお生憎様、一度もないんだからしょうがない。うーん残念だ。でも、昨日の今日だ。絶対に作っていてくれるだろう。ん?自分で作れば良いじゃないか、って?
悪い。そりゃ無理だ。
あー決して俺は料理ができないとか、先端恐怖症で刃物の類は持てません的な臆病者でもない。
中学生の時に家庭科の調理実習で作った『イタリア風ハンバーグほのかな優しい香りを乗せて』は、他の生徒に郡を抜いてそりゃあもう先生も太鼓をばんばん叩いてくれたほどの絶品だったくらいだ。
かといって、それだけしか作れないなど笑止千万。ほんのたまに、本当にたまにだが自分でオリジナルの料理なんかを家族に披露してみせるくらいに、趣味とまではいかないが料理は好きな方だ。
もちろん家族はほっぺたが零れ落ちるほど泣きながら美味いと……までは言ってなかったが、まずまずのウケを見せてくれる。まあ、とりあえずあらかた料理は出来るほうだ。じゃあ、それならなんで作らないのかって?それは、当たり前で単純な理由。
だるいのだよ。うん、実に面倒くさい。
学生たるもの毎日のごとく約六時間におよぶ拷問のような学業労働をこなして、時には居残りというプラスαもなんとかこなし、ボロボロになりながらも帰路に着く。涙ぐましいほどの努力をして戦争から帰ってきた若者を暖かい飯を食わせ、心身ともに癒すのは母親の当然であろう義務ではないか。
それを、簡単に放棄するなど言語道断!
まあ、昨日の失態の罪滅ぼしに今日は好物のピーマンの肉詰めを作ると言っていたからなかったことにしといてやるか。
と、さて――――……そろそろ現実に目を向けるとするかな。
このままずっと夕飯の事を考えていたいのが本望だが、そうもいかないのが悲しい悲しい現実である。ふう、本当に泣きたくなるな。
上の空旅行から帰ると、目の前にはやけにリアルなマネキン人形が群れを成して並んでいた。ぴくりとも動かないその人形の先で、何事もないように一人、顎に手を当てて今日の昼食は何が良いかと悩んでる、まばゆいばかりの後光が射しているかのような美少女を視線の先に見る。それはあまりにも異様な光景としか思えなかった。
どうやら人間ってのは衝撃が大きすぎる場面に出くわすと意外にも声が出ないもんらしい。情けない話しだが呼吸をするだけで精一杯だ。それでも冷や汗を垂らしながら一回大きく唾を飲み、ギリギリ聞こえるくらいの大きさの声で恐る恐る吐き出す。
「あっ、あんたがやったのか、これ……?」
こんなこと人間ができるはずもない、もちろん俺だってそうだ。だがそうはわかっていても実際に動けているのは俺と彼女だけだ。馬鹿な質問だと思うかもしれないが、たぶん彼女は知っているだろう。だって俺はこんな能力は持っていないんだから。だろう?俺。
声をかけると、途端にこちらに顔を向ける美少女。さきほどに見せてくれた天使のような微笑みとはうって変わった驚きと困惑を織り交ぜたような表情をしている。なんで?どうして?と顔に大きく書いてあるのが見えるようだ。そしてその口から漏れるようにして予想通りの二言、
「なんで……どうして……?」
あまりの衝撃だったらしく、口をぽかんと開けたまま立ち尽くしている。
あの、そんな顔でそんなことを俺に言われても何の返答のしようがないんですが、どうしましょう?いやいや、しかもその言葉は俺の口から発せられるのが正しいと思うんですがそれは間違いなんですかね。この状況でそこら辺に立っている樹木を見ているかのように平気でいられるあなたに、俺の頭の上には特大のクエスチョンマークが浮かぶばかりだ。
しかし、なおも困惑の表情を崩さないまま、顔を地面に向けて一言、二言何事かつぶやいたと思ったら、今度はハッと我に返った顔をして睨み付けるような目で凝視してくる。悪寒を感じさせる鋭利なナイフのように、鋭く睨みつけてきたのでついつい一歩後ろに身じろぎしてしまった。
なんだなんだ?なんかカンにさわることでも言ったのか?それにしても、かなり怖いけど怒った顔も良いなあ……って今はそんな場合じゃ、
「……っへ?」
瞬きをした瞬間、ついさっきまで視線の先にいた、秘境の地に住んでいる優雅な面持ちのエルフもびっくりの美少女がポッカリとその姿を消していた。しかも、それだけじゃない。今まで、電池の切れたオモチャみたいに固まっていた十数人の生徒たちがスイッチをオフからオンに変えたように何事もなかった風に動きだしていた。隣の馬鹿面も同じく何事もないようにいつも通りの馬鹿面で、胃の辺りを手で押さえながら腹を空かせた野良犬のような顔で立っている。
「ああぁ~しゅうへいぃ……俺はもう死にそうさ。こうなったら売店強盗でもして好きなだけ食べちゃうかぁ」
これから一生他人として振舞ってくれるという契約書にサインをしてくれるのなら、別に俺はいっこうに構わないが……ってそんなことはどうだっていい。
「なあ、松岡。ついさっきまで蒼井サクラがここに居たよな?」
そうだ。さっきまでこの空間に蒼井サクラは存在していただろ?なんでみんな普通にしているんだ?大量の液体窒素をかけられたようにして、お前らが固まる前にはあれだけ騒いでいたじゃないか。という俺の思惑とは別に松岡は不思議そうな顔をして、
「はあ?いきなりどうしたんだ修平?どこに俺の未来の奥さんがいるんだぁ?もう、びっくりさせんなよぉ」
バンバン、と背中を引っ叩いてゲラゲラ笑い出す。
「夢でも見たんじゃないかぁ?あっ、そうかぁ修平、俺の未来のお嫁さんに手は出さないでくれよぉ~いくら修平だからって俺も怒っちゃうぜぃ?」
駄に含みのある笑みを見せてくる。そのにやけたツラに渾身の右ストレートを今すぐにでもブチこんでやりたいところだがそれは次にとって置こう。こいつに構っているヒマはない。錯乱しそうな頭を必死に押さえ込んで考える。
どうしてだ?
これじゃまるで「蒼井サクラ」がこの場に来ていなかったみたいじゃないか。松岡の言うとおり、俺はいつの間にか立ったまま居眠りしていたんだろうか?そして、その夢の中に出てきたのは美少女「蒼井サクラ」で、しかも俺以外の人間は時間が止まったかのように固まっていて、何故だか蒼井サクラは怒って俺のことを睨みつけて、そこで終わり?そんな馬鹿な夢あるもんか!俺は松岡の頭みたいにまだ破滅していやしないぞ!
頭の中はすでに火山の噴火爆発寸前にまでパンクしかけている。
「あーもうわけわからん。……よしっ、もう考えるのは止めだ」
もう、だるい。かったるい。
こんないくら考えても出てこない迷宮入りの謎を解き明かそうなんてのは非常に面倒くさいだけ、考えるだけ無駄だ。こんなことに頭を使うくらいなら現実逃避した方が幾分マシさ。しかもさっきのは現実なのかどうかも定かじゃないしな。
あれだ、ひょっとしたら本当に立ちながら居眠りするというアクロバットな技術をいつの間にか習得していたのかもしれないし、夢だったらそれに越したことない。物事良い方向に考えなきゃ損だからな。少しはミスターポジティブシンキングを見習うとするか。
「なぁ?さっきからぶつぶつと、何を考えるのを止めたんだぁ?」
覗き込むようにしてジロジロと顔をうかがう松岡、糸のように細い狐目をいつもより少しだけ大きく開いている。それに応えるように手を挙げ左右に振る。
「気にするな、ただの独り言さ。……ほら、そろそろ俺たちの番だぞ」
だんだんと、せっせと働くおばちゃんの明るい声が近づいてくる。ラグビー部か柔道部に所属しているだろう巨体の男がおにぎりを紙袋いっぱいに抱えながら去ると、その次に俺達の前にいたカップルらしき二人が何やら仲良さげにあれが良いだのこれが良いだの討論して、待ち構えたおばちゃんに注文する。カップルが菓子パンの入った袋を受け取り、お金を渡し終えイチャつきながら去る。と同時に松岡が飛びつくようにして声をあげる。
「おばちゃんっ!いつものやつお願いね!」
目をキラキラ輝かせて無意味に大声で注文する。
おいおい、そんな常連めいたことを言っても、おばちゃん達が困惑するだけだろう。普通にメンチカツサンドと言え。
おばちゃんはお年玉をせがんでくる可愛い孫を見るような笑顔を見せる。
「あら?誰かと思ったらあんたかい。今日も元気良いわね!はいはい、いつものやつだね」
はいはい、って通じるんですか。いつの間におばちゃんとそんな仲になったんだお前は。
お年玉をまんまと手に入れることのできた子供のようにニヤリと笑いながら、
「ふっふっふ、ちょっと前からおばちゃん達に頼んでおいたのさ」
誇らしげな顔をして俺を見る。
なんとなくむかつくが、まあいいとしよう。
俺も、鮭おにぎりと梅おにぎりを頼んだ。鮭おにぎりもそうだが、ここの梅おにぎりはそこら辺の店に売ってるものとは一味違う。米もさることながら、何よりも梅が素晴らしい絶妙な酸っぱさと甘味のハーモニーを奏でている。おばちゃんに聞いてみると、梅は自家製のものらしい。なるほど、うまいわけだ。
梅好きの俺にぜひとも分けてもらいたいもんだ。家族も父親を抜けば大人気の食材だから喜ぶだろうしな。
「はい!おにぎりの子はこっちの袋ね?それと、グレートメンチカツスペシャルはこっちだよ」
五分くらい待つと、はいっ、と俺達に袋をわたす。ワーイと今にも叫び出しそうな顔で嬉しそうに松岡が受け取る。
それにしても本当にグレートメンチカツスペシャルは存在してたのか。というより、松岡が作ってくれと無理やり頼んだんだろうが。
普通のメンチカツサンドと何が違うんだ?袋のサイズは俺と同じくらいのもんだから、そんなに大きそうってわけじゃなさそうだな?中身が違うとかか?と大事そうに抱えている袋を見ていると、何を勘違いしたのか、
「んん!?修平っ、これは俺のだからな!絶対にやらねえぞぉ!」
キッと泥棒を見るような目つきで睨みつけてくる。
おい、お前と一緒にするな。
それにしても、よく特別メニューなんて作ってくれたよな。普通こういうのってダメなんじゃないか?なんてことを考えていると、おばちゃんは察してくれたのか、ニッコリと笑顔シワを作りながら、
「いつもいつも、あんたほど嬉しそうに買っていく子はいないからね。おばちゃん達も作ったかいってものがあるってもんさ!だから、あんただけは特別だよ?ほら、代金もほんの少しサービスしてあげるよ」
そう言うと、俺の方をちらっと見て「もちろん、あんたもね」と目で合図してくれる。そりゃ、ありがたい。ペコっと一礼をする。
なんせ学生の身分なもんで、少しでも節約したいと思っていたところだ。いやー助かる助かる。松岡と一緒にいて得したことなんてこれが初めてかもな。
「おばちゃん、毎度サンキューねぇ!」
チャリと音をたて、順におばちゃんの手にお金を渡していく。もちろん一割引のサービス金額を、だ。
もう一度軽く礼をして、俺達はその場を後にする。松岡のスキップに早歩きで教室に帰ると、タイミングよく授業開始のチャイムが学校中に鳴り響いた。