第十話『小澤家の食卓』
校門を出ると、外の空気がやけに湿っぽく感じられた。空も曇り始めていて気分も優れない。すっかり暗くなった夜道を一人歩きながら考えても何の答えも見つからない。ただ、難解な数学の問題よりも遥かに難しいという事だけははっきりとわかる。いや、解けなくても良いから今すぐにでも投げ出してしまいたいというのが本音のところだった。なんてことはない。ただ、悩むのが面倒臭いからだ。
相当疲れたのか、やけに脚が重く感じられる。もちろん体の疲労というよりも精神的にだ。早く、フロにでも入って体も心もサッパリしたいものだ。そして、このすきっ腹に栄養のある食物を……あっ、そういえば今日の献立はアレだったか。それを思えば、こんな辛さなどなんの障害にもならない……とまではいかないが、ほんの少しでも早く帰りたい俺の脚を元気付けてくれる活性剤にはなった。
我が家が目と鼻の先くらいまで近くなった頃、鼻の頭にポタッ、と小さな水滴が落ちてきた。どんよりとした雲に覆われた空を見上げてみると、今度は狙ったんじゃないかと言いたくなるくらい、水滴が右目にダイレクトに落ちてきた。涙目になる右目をブレザーの袖で拭っていると、頭にポツ、ポツ、ポツ、とかなりの間隔を空けてだが小さな雫が落ちてきているの感じる。
「雨か……」
何の狂いもなく季節通りに梅雨が近づいてきたんだな、と何故だかホッとする。それだけ日常に大きな変化が起きるということが嫌いだからなのかもしれない。春は桜が咲き、夏は暑く、秋は葉が紅葉し、冬は寒くあってほしい。決して桜が咲かない春や、凍えるような寒さの夏や、青々しい緑が目立つ秋や、灼熱のごとく暑い冬は来ないでほしい。そんな超常現象は俺の体には合わない。普通で良いんだ、普通で。そりゃ人それぞれ違った考えの『普通』があるかも知れないが、その中でも一番平均的な普通が良い。まぁ、ここまでいくとただの欲張りかもしれないが、別に構わないだろう?あるがまま自然を望んでいるんだから。
そんな俺の目の前にいきなり消えたり現れたり、炎を出したと思えば氷を出したりする美少女が現れたりしなくたって良いじゃないか。
「……ただいま」
「おかえりなさーい!」
つぶやくくらいに小さな声で言ったのにもかかわらず、リビングの方から大きな返事が返ってくる。あぁ、美味そうな匂いが鼻に入り込んでくる。ツーンとくるスパイシーな香りが嗅覚をつつくように刺激してくる………スパイシー?
駆け込むようにして台所に入ってみると、エプロンを肩から外そうとしている母親と鉢合わせになる。首をコキコキ鳴らして呆然と立ち尽くす俺に声をかける。
「あら、今日は遅かったのねぇ?ちょうどよく今カレーが出来たところだから早くお風呂に入ってさっぱりしてきなさい」
「あぁ、わかった……って今日の夕飯は例の『アレ』にするって言ってなかったっけ?」
「へ……?」
数秒間、たっぷりと間を空けたと思えば、いきなり何かを思い出したような表情を浮かべながらチラッと俺の方に目を向けてくる。
「えーっとね……あっ、今日はミユがどうしてもカレーが食べたいっ! カレーを食べないと死んでやるっ! って言ってたからしょうがなく、ね」
「えっ?私、そんなこと言ってないよぉ?」
グッドタイミングで現れた我が妹ミユ。目を泳がすようにしてひゅーひゅーと適当な口笛を吹き始める。なんてわかりやすいのだろうか、この母親は。
「……忘れてたろ?」
ぎろりと睨みつけると、頭に手を置いて舌をペロっと出してみせる。いやいや年を考えてくれ母さんや。
「悪気があったわけじゃないのよぉ? 本当にすっかりこってり忘れちゃってたの。それにしてもシュウちゃん、本当にピーマンの肉詰めが好きなのねぇ」
「……だから、シュウちゃんって呼ぶなっていつも言ってるだろ」
うふふっ。と母親特有の微笑みを見せながら台所へと逃げていく。修平、というれっきとした名前があるのにもかかわらず、何故にか母親はシュウちゃんと幼い頃からそう呼んでいた。まず、名前を略している部分までは許そう、いかんせん許せないのは『ちゃん』付けされている事だ。中学に入る前からその呼び方は止めてくれと頼んだが、全く持って効果はなかった。むしろその反応が楽しかったのか、余計にエスカレートしていく一方だ。
「ねえねえっ! シュウちゃん、お母さんと何の話してたのー?」
可愛らしい我が妹が服の裾を引っ張りながら聞いてくる。あぁ、母親があの呼び方さえしていなければ今頃は、ちゃんと『お兄ちゃん』と呼んでいてくれたに違いない。そんな可愛らしい妹を、何でもないと横に流しつつ風呂場へと向かった。
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「ふうぅぅ~………」
軽く体を洗い流してから、ゆっくりと白濁色の湯船に入る。熱さがジュワーッと体に染み渡ってくようなこの感覚がたまらない。
一瞬の幸せを楽しんでいると、入浴剤によるものであろう妙に甘い香りが嫌に鼻につっかかった。一体なんの香りなんだろうと考えるよりも先に今日の朝、朝食のパンを口にしている時に母親が得意げに話していたのを思い出す。
『ほら、見てシュウちゃん! 『疲れきった体に甘美なるひと時をあなたに。牧場の最高級の白い蜜をあなたの体の隅々まで……』え? 一体これがなんだって?ジャジャーン! これは北海道から取り寄せた最高級品のミルク風味の入浴剤なのよ!何が凄いのってなんと果汁100%なのよ! もう、夜のお風呂が待ち遠しいわぁ! もういっそのこと入っちゃおうかしら。……え? いくらしたのかって? ……えーっと、そっそれは……』
「はあぁぁ~………」
今日、一体何度目のため息だろうか。どこで見つけてきたというんだ? こんなまがい物。だいたい果汁100%の時点でおかしいだろう? もし、そうだとしてもそれじゃあただの牛乳を湯船に入れた牛乳風呂と変わらなくなるんだから。しかも確実に果汁ではない。体に影響はないだろうか? 怪しい商品なだけに心配になってくる。
最近、ネット通販がマイブームらしく、週に一度、わけのわからない商品を購入しては得意げに見せびらかしてくる。今回のように良かった商品だった試しがないというのに、何故か満足そうなのがいけない。このやけに匂いが強い、胡散臭い入浴剤はいくらしたんだ? 最後まで「内緒よ」とか言って値段を言わなかったが、最高級品とか言ってなかったか?そんな無駄遣いして家計の方は大丈夫なのか?
軽く背筋が冷たくなるのを感じながらも湯船から出ると、不思議とさっきまで感じていた疲労感が嘘のように……なんてことはまるでない。
「あっ、シュウちゃん。お風呂どうだった?気持ちよかったでしょ~?」
テーブルに皿を並べながら、満面の笑みで聞いてくる。あぁ、びっくりするぐらい気分が悪くなったよ。きつい甘い香りのせいで頭がくらくらする。すっきりもさっぱりも疲れもとれない風呂なんて、何の利用価値もない。そしてリビングに広がるカレーの甘い匂いがさらに胸の辺りをえぐるかのごとく……ん? カレーってこんな甘い匂いしたか?
「……っげ!?」
目の前に並ばれたカレーライスはほんの少し、じゃなくてかなり黒めに見えるのは気のせいだろうか?そして、なんだか嗅ぎ覚えのある甘い香りが気になるんですが。
「わぁっ! 美味しそーう!」
ミユがぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んでいる。妹よ、この異臭に気づかないのか?カレーにあっちゃいけない甘い香りがこの空間を覆いつくしているだろう?
だが、おかしいといった様子もなくまるでこれで良いんだと言わんばかりに満面の笑顔で椅子に座り、いただきますの合図を待っている。
「もうちょっと待っててねぇ~、あらシュウちゃん? そんなところにボサッと立ってないで座りなさいな」
せっせと、大きなお皿に山のようなサラダを盛り付けている。ドレッシングを青じそかシーザーで迷っているらしく、目の前に二本並べて腕を組んで首をかしげている。
「んん~どうしようっかなぁ……ねえ、シュウちゃんはどっちが良い?青じそ?シーザードレッシング?」
「俺は基本的にサラダには青じそドレッシングだから、でもたまにはシーザードレッシングも良いかもな……ってそうじゃなくて、部屋の中に荒れ狂っているこの甘い匂いは何だ!?」
「へ?カレーよ?」
きょとん、とした顔で当たり前のごとく言う。へ?じゃない。
「そんなのはわかってる。そうじゃなくて、何でカレーからこんな甘い匂いがするんだって聞いてるんだ」
「はいはーいっ!ミユだよ~」
問い詰める俺の背後で手を挙げて、ニコニコ笑っているミユ。それに合わせるように母親も笑い出す。
「うふふ、そうよね~ミユが最後に味付けしたんだもんねぇ?」
「えへへ~ミユ特製の隠し味だよぉ」
……そうか、ミユ。犯人はお前だったのか。しかも、全く隠れてる様子が見えないんだが? これじゃ頭隠して尻隠さず所か、頭隠さず尻も隠さずもう全部見せちゃえ状態だぞ。もう一度、ミユの目の前に盛られた黒色が強めなカレーライスを目に写してみる。かなりパンチがあるのは確かだ。
「えへへ~さてシュウちゃん、ここで問題です!ミユが入れた隠し味とはなんのことでしょう?」
「……さぁってなんだろうなぁ」
わかっている。わかってはいるが、あまりの隠れていないこの現状に今、俺は戸惑ってしまう。
「え~っとそれじゃあヒントあげるね! ヒントは……甘いもの!」
そりゃそうだろう。これで甘い物以外が入っていなかったらカレーの存在理由を否定するのも同然だろう。インド人に軽くケンカを売ってるようなもんだ。
「……うーんわからないなぁ」
腐っても私、小澤修平はこの可愛い妹の兄であるので、降参といった風におどけてみせる。
「えーシュウちゃんわからないのぉ? でも、隠し味だからわからないのはしょうがないよね! それじゃあ、特別に教えてあげる! 答えはチョコレートでしたぁっ!」
おぉ、そうだったのか。まったく見当もつかなかったよ、こりゃお兄ちゃん一本取られちゃったなぁ。 なわけないだろう。わかっていたさ、わからない奴がいるのならそれこそ俺はびっくりたまげたもんだ。異臭ともいえる位のこのカカオの甘い香り、変色してしまったんじゃないかと思えるほどのカレーの色。まぎれもなくディスイズアチョコレート。
「あら、シュウちゃんどこに行くのかしら?」
「……もう寝る」
空腹を凌駕した疲れが自動的に体をベッドのある自分の部屋へと動かせる。今の俺があんなものを食ったら発狂しかねん。
「シュウちゃん、食べなきゃだめよ?」
誰が食うかそんなチョコレートカレー。いや、むしろチョコレート。無視を決め込み歩き出す、さあ行こう安らぎの園へ。
「え?シュウちゃん、食べないの…?ミユの特製カレー」
泣きそうな声が頭の中に響く。ぴたりと足が止まる。後ろを振り返ると今にも泣きそうな顔をしたミユが俺を見つめ訴えてくる。そして、その手には真っ黒な物体が乗っかったスプーンが握り締められていた。
「……わかったよ」
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言うまでもなく、それから1時間ほどかけて完食を成し遂げた俺は、吐き気という魔物と戦いながら歯を磨く事さえ忘れ、やっとのことで安らぎの園(自分の部屋)へとたどり着いた。
のだが、ベッドに寝転がるも胃の辺りに渦巻く酷い不快感が、安らかな眠りにつかせるのを強制的に拒否反応起こしていた。それからさらに一時間くらいか経つとそれも少し収まり、なんとか眠りにつくことに成功した。
のだがそれもつかの間、今度は悪夢という恐ろしい鬼が舞い降りる。
燃えさかる炎や鋭い槍のような氷が四方八方から襲いかかってくるのを必死に逃げる、果てしなく逃げ続ける。どんなに必死に逃げようとも執拗に追いかけ回され、最後にはアイツに捕まりこう宣言される。
『あんた、明日から私の下僕だから……下僕だから……下僕だから……――――』
『っうわああぁぁぁぁぁぁ………―――――』
こんな風にして俺の世界の崩壊は始まった。
拒否権なんて存在するわけもなく、強制的に壊されていく一方の俺の平凡で平和な世界。
もし、神様なんて奴が存在するとしたのなら、もしこれがアンタの暇つぶしで起こした出来事であるのなら、ぜひとも戻していただきたい。戻してくれるなら、一日三回のお祈りを毎日かかさず行ってやるから。腹が減ったというのならまんじゅうでも供えてやろう。ついでにお茶なんかもつけてやろう。
だから返してくれ。
俺の、普通な世界を。
ここまで読んで頂き嬉しく思います。風来竜です。
一応、これで第一章が終わったといったところでしょうか。
……長っ!?と思った方はたくさんいたと思います。はい、無駄に長いです。
でも、なんというかこの無駄な長さが嫌いじゃない自分もいたりいなかったりなわけでございます。
とりあえず、ここからやっとのことで学校のマドンナこと異世界から来た魔法少女こと蒼井サクラと強制的に関わっていくことになるわけですが、さーっていったいどうなるんでしょうね?
それでは、引き続き楽しんでくれると嬉しくってしょうがないです。
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