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「去年も払えたのだから、今年も払えるだろう」と増税され続けたので代官を辞めたら、税率を上げた公爵領の税収が半分以下になったそうです

作者: 江合 花果
掲載日:2026/09/30

「ベルツ辺境区。本年度の納付額は、金貨二万二千枚とする」


公爵府から来た財務官は、紙を読み上げると、くるくると巻いて紐で縛った。

仕事は終わった、という顔だった。


代官のクラリス・ベルナールは、机の上の写しを見下ろした。

二万二千。

去年は、二万だった。


「……去年より、一割増えています」

「昨年度、ベルツの税収が増えましたので」


財務官のペーテルスは、当然のように言った。

細い口ひげを、指先で整えながら。


「増えた分は、冬の共同倉庫と、北の橋の修繕に充てる予定でして」

「払えた実績があります」

「はい?」

「昨年、二万をお支払いになった。ですから今年も、お支払いになれるでしょう」

「去年の二万は、去年の二万です」

「ええ。そして今年は二万二千です」


クラリスは、三秒ほど黙った。

話が噛み合っていないのか、自分の耳が悪いのか、分からなくなった。


「増額の根拠は」

「昨年、払えたことです」

「それ以外は」

「公爵閣下が、そうお決めになりました」


ペーテルスは、巻いた紙を革の筒に差し込んで、にっこり笑った。


「ベルナール代官なら、何とかなさるでしょう。閣下もそう仰っておりました」


   ◇


その日の夕方、クラリスは村の集会所に顔役たちを集めた。


パン屋のグレタ。羊飼いのヨナス。薬師のイルゼ。宿屋のバルド。

十年前、クラリスがこの土地に来たときは、集会所の屋根が雨漏りしていた。今は、していない。去年、みんなで金を出し合って直した。


十年前のベルツは、冬が来るたびに、どこかの家から葬式が出た。

雪で街道が閉じると、麦が尽きる。尽きたら、春まで待つしかない。待てない家があった。


クラリスが最初にやったのは、村ごとにばらばらだった麦の蓄えを、一か所の共同倉庫にまとめることだった。

次に、山の雪解け水を畑へ引く水路を掘った。三年かかった。

市場を月一回から週一回にした。南の商人が来るようになった。

羊毛を刈ったまま売るのをやめて、糸に紡いでから売るようにした。値が倍になった。

イルゼの薬草を、畑で育てられるものから増やした。

街道沿いに、バルドに宿を広げさせた。


劇的なことは、何もしていない。

ただ、ヨナスの家では冬に肉が食べられるようになった。グレタの長男は、町の学校へ通えるようになった。バルドの宿の屋根は、もう雪の重みで鳴らない。


その程度のことだ。

その程度のことに、十年かかった。


「今年の納付額が、増えました」


集会所が、しんとした。

暖炉の薪が、ぱちっと鳴った。


グレタが、エプロンで手を拭きながら口を開いた。


「ええと」

「はい」

「去年、うちら頑張って売り上げ増やしたから?」

「はい」

「だから、今年もっと取られる?」

「……はい」


ヨナスが、帽子を膝の上で回しながら言った。


「代官様」

「はい」

「うち、今年から頑張らないほうがよくないですか?」


「それは領地として駄目です」


クラリスは即答した。

即答してから、自分でも理由を探した。


イルゼが、薬草の匂いのする指で頬をかいた。


「でも、頑張ると取られるんですよね?」


「…………」


クラリスは、返事をしなかった。

できなかった、が正しい。


バルドが、腕を組んで天井を見上げた。


「去年、宿の部屋を二つ増やしたんですがね。あれ、戻したら税も戻りますかね」

「戻さないでください」

「壁、塗り直すだけなんで」

「塗らないでください」


   ◇


ひと月後、クラリスは馬車で三日かけて公爵府へ向かった。


グランツ公爵ローデリックは、執務室の大きな窓を背にして座っていた。

四十代半ばの、身なりのいい男だった。机の上の書類は、角がきっちり揃っていた。


「ベルナール代官。遠いところをよく来てくれた」

「お時間をいただき、ありがとうございます」

「君の報告書は、いつも読みやすい。数字が正確で助かっている」


公爵は、本気で褒めていた。

彼が数字に強いことは、クラリスも知っていた。公爵領の十三の地区の収支を、帳簿なしで大体言える人だ。


「十年前のベルツは、公爵領の荷物だった。毎年、冬になると救恤の麦を送っていた。それが今では、自分で税を払い、余りまで出している」


公爵は、満足そうに頷いた。


「ベルツがここまで来られたのも、君のおかげだ。信頼しているよ」

「ありがとうございます」

「だから、今年は去年より二千、頼む」


だから、の使い方が、クラリスの知っているものと少し違った。


「本日は、増額分を半分にしていただけないかと思い、参りました」

「理由は?」

「領民に、還元したいのです」

「何を?」

「学校と、診療所と、北の街道の整備です」


公爵は、首を傾げた。


「必要なのか?」

「必要です」

「今までなくても、暮らしていただろう」

「今まで困っていたから、作るのです」

「困っていても、税は払えていた」


公爵は、それが結論であるかのように、ペンを取った。


クラリスは、膝の上で手を握った。

言い返す言葉は、いくつもあった。どれを選んでも、この人の机の上では同じ場所に着地する気がした。


「……では、せめて、北の橋の修繕費だけでも、公爵府から」

「財源がない」

「先月、ベルツから金貨八千枚をお送りしました」

「公爵領全体の財源になった」

「そこから、橋へ戻していただくことは」

「橋へ回す財源がない」

「……今、その財源を、お送りしましたよね?」

「それは公爵領全体の財源だ」

「では、公爵領全体の財源から」

「ベルツだけを特別扱いするわけにはいかない」


クラリスは、数秒黙った。


「……分かりました」


分かっていなかった。


   ◇


帰りの馬車の中で、クラリスは紙に数字を並べた。


足りないのは、金貨二千。


役場の書記を一人減らす。その分は自分が夜にやる。

羊毛を別々に売っていた三つの村の荷を、まとめて一台の荷車で運ぶ。運賃が四割浮く。

共同倉庫の使用料を、量で決めていたのを、預ける期間で決めるように変える。

南の商会と、薬草の卸値をもう一度交渉する。三度目になる。


南の商会の番頭は、クラリスが店先に現れた瞬間、帳場の奥で胃のあたりを押さえた。


「……ベルナール代官。今年は、何を」

「薬草の卸値を、一割上げていただきたく」

「去年も上げましたよね」

「去年上げても、お宅は儲かっておられます。帳簿を拝見すれば分かります」

「帳簿は見せていません」

「港の荷揚げ量と、お宅の荷車の数で、だいたい分かります」


番頭は、胃薬をもう一粒飲んだ。

結局、八分上がった。


帰りぎわ、番頭がぼそりと言った。


「代官様、うちに来ませんか。給金は倍出します」

「考えておきます」


考えなかった。

あの頃のクラリスは、ベルツ以外の場所で働く自分を、うまく想像できなかった。

川沿いに水車を一基足す。粉挽きの順番待ちが減れば、パン屋の朝が早くなる。


橋は、今年も直らない。

学校は、来年に回す。


領民には、我慢してもらう。

祭りの予算を、半分にする。


秋の収穫祭で、樽のぶどう酒が例年の半分しかないのを見て、バルドが言った。


「代官様。今年は、ずいぶん慎ましいですな」

「すみません」

「いや、謝られても」


バルドは、薄めのぶどう酒をすすって、顔をしかめた。


「……去年の祭り、楽しかったですからね。今年、公爵様のところで、うちらの祭りの半分がどっかで飲まれてると思うと」

「思わないでください」

「思っちゃいますよ」


その夜、広場の焚き火は、例年より少し小さかった。

それでも、グレタの末の娘は、火の周りを三周走って、転んで、泣いて、また走った。


書記を減らす話は、クラリス自身が伝えた。


代官所でいちばん若い書記のトビアスは、話を聞き終えると、ペンを置いて頭をかいた。


「……まあ、そうなりますよね。数字、全部見てましたから」

「ごめんなさい」

「代官様が謝ることじゃないです」


トビアスは、机の引き出しを片づけながら言った。


「南の商会の番頭さんが、書記を探してるって言ってました。代官様のところで数字を覚えたって言えば、たぶん雇ってくれます」

「あの番頭さん、胃が弱いから、昼食前に行ってね」

「知ってます。代官様が毎回そうしてたんで」


トビアスは、最後に自分の机を布で拭いて出ていった。

その机には、翌日から、クラリスの書類が積まれた。


その冬、ベルツは二万二千枚を、期限の三日前に納めた。


公爵から、短い手紙が届いた。


「やはり、君ならできたな」


クラリスは、返事を書いた。


「かなり無理をいたしました」


次の手紙は、もっと短かった。


「結果として、払えた」


   ◇


春、北の村に、公爵府の税吏がやってきた。


「本年度から、橋梁整備特別負担金が追加される。一戸につき、銀貨三枚」


村の広場で、ヨナスが手を挙げた。


「橋、作ってくれるんですか?」

「財源が確保できれば」

「今払う銀貨三枚は?」

「橋梁整備特別負担金だ」

「それが財源では?」

「それだけでは足りない」

「じゃあ、何に使うんです?」

「橋梁整備の財源確保に」

「話が一周しましたよ」


税吏は咳払いをして、次の家へ行った。


その晩、税吏はバルドの宿に泊まった。

翌朝、宿代の請求書に、見慣れない一行が足されていた。


「旅客宿泊環境整備特別負担金 銀貨一枚」


「……これは何だ」

「宿の環境整備の財源確保です」

「どこを整備するんだ」

「財源が確保できれば」


税吏は、しばらくバルドの顔を見ていた。

バルドは、真顔で釣り銭を数えていた。


あとでクラリスは、その銀貨一枚を、バルドから回収して税吏に返した。

バルドは不満そうだった。


「代官様、今のは向こうが先ですよ」

「分かっています。分かっていますけど、返してください」


   ◇


二年目の春、財務官のペーテルスが、視察と称してベルツにやってきた。


「ほう。水車が増えましたな」

「去年、一基増やしました」

「粉挽きが早くなれば、パンの数も増える。パンが増えれば、売り上げも増える」


ペーテルスは、手帳に何か書きつけた。

クラリスには、何を書いたのか、見なくても分かった。


「……来年の納付額の話を、しに来られたのですか」

「いえいえ、視察です。ただの視察」


ペーテルスは、共同倉庫を見て「立派ですな」と言い、手帳に書いた。

新しい宿の部屋を見て「繁盛していますな」と言い、手帳に書いた。

グレタの店の前の行列を見て、何も言わずに、手帳に書いた。


帰りぎわ、ペーテルスはバルドの宿に泊まらず、隣町まで馬を飛ばしていった。

去年の請求書のことを、どこかで聞いたらしい。


「賢い人ですな」とバルドは言った。


   ◇


二年目の夏の終わり、パン屋の裏で、グレタとヨナスとイルゼが、麦わらの上に座り込んでいた。


クラリスが通りかかると、グレタが手を振った。


「代官様。今ちょうど、反乱の相談してたんですよ」

「……はい?」


ヨナスが、真面目な顔で指を折った。


「もう反乱でもします?」

「いつ?」とイルゼ。

「来週」

「麦刈り」

「再来週」

「羊の毛刈り」

「その次」

「税の納期」

「……春にする?」

「春は種まき」

「じゃあ、やめよう」


三人は、揃って頷いた。


「反乱は、やめてください」


クラリスが言うと、グレタが笑った。


「代官様、本気にしないでくださいよ。反乱なんかしてたら、パンが焦げます」


三人は立ち上がって、それぞれの仕事に戻っていった。

グレタは窯へ。ヨナスは丘の上の羊のところへ。イルゼは乾かしていた薬草を取り込みに。


誰も、暇ではなかった。


   ◇


二年目の秋、また納付通知が来た。


金貨二万五千枚。


理由の欄には、こうあった。


「二年連続で、納付の実績がある」


クラリスは、公爵府へ手紙を書いた。


「昨年の増額は、特例であると申し上げたはずです」


返事は、半月後に来た。


「特例を二年続ければ、実績だ」


クラリスは、その手紙を机の引き出しにしまった。

しまってから、もう一度出して読んで、また、しまった。


その年も、ベルツは払った。


使える手は、もう、あまり残っていなかった。


クラリスは二十九になっていた。

実家の母からは、年に二度、手紙が来る。一度目は春に「元気ですか」、二度目は秋に「いい人はいないのですか」。

秋の手紙には、毎年、返事を書きそびれている。書こうとすると、納付額の計算が頭に浮かぶ。


夕食は、たいてい机の上で食べた。

グレタが毎朝届けてくれる丸パンを半分に割って、チーズを挟む。帳簿を汚さないように、左手で持つ。

十年やっていると、左手で食べるのがうまくなる。

代官所の暖炉は、クラリスの部屋の分だけ火を落とした。書記がひとり辞めて、その分の仕事がまた、彼女の机に積まれた。


「代官様、顔色悪いですよ」


イルゼが、頼んでもいない薬湯を持ってきた。


「苦いですけど、飲んでください。お代はいりません」

「払います」

「じゃあ、銀貨一枚」

「……高くないですか」

「薬湯環境整備特別負担金込みです」


イルゼは、真顔だった。

バルドの悪い影響が、確実に広がっていた。


   ◇


三年目の夏は、雨が長かった。


麦は、穂が重くなる前に倒れた。

北の山道が崩れて、羊毛を運ぶ荷車が二週間止まった。やっと運び出した頃には、南の市場で羊毛の値が下がっていた。今年は、隣の国でも羊がよく育ったらしい。


ヨナスは、倒れた麦畑の横で、濡れた羊の背中を一頭ずつ拭いていた。

グレタの店は、粉が湿って膨らまないパンが続いて、客に頭を下げる日が増えた。

イルゼの薬草は、根が腐った。


どれも、一つずつなら、何とかなることだった。

全部いっぺんに来ると、何ともならなかった。


クラリスは、机の上に三つの数字を並べた。


今年、ベルツで見込める収入。

公爵府に納める額。

冬を越すのに、共同倉庫に残しておくべき麦の量。


どう並べ替えても、ひとつが足りなかった。


納付額を払えば、倉庫の麦が、冬の半ばで尽きる。


クラリスは、それでもまだ、何か手はないかと村を回った。

丘の上で、ヨナスが濡れた羊の毛を梳いていた。


「ヨナスさん。今年、羊を何頭か、先に売ることはできますか。冬の前に」

「できますよ」


ヨナスは、手を止めずに答えた。


「できますけど、代官様」

「はい」

「今年は、払わなくていいですよ」


クラリスは、瞬きをした。


「代官様が無理して払うと、来年また増えるんで」


ヨナスは、羊の背中をぽんと叩いた。羊は迷惑そうに鳴いた。


「うちら、三年見てて、それだけは覚えました。代官様が頑張ると、来年の分が増える。だったら、今年は頑張らないでください。羊は売りません」


それは、たぶん、ベルツでいちばん正確な税制の説明だった。


クラリスは、丘の上でしばらく立っていた。

風が、刈ったばかりの羊毛の匂いを運んできた。


その夜、代官所に戻って、クラリスはペンを取った。

一度置いて、もう一度持った。


公爵府への手紙は、一行で済んだ。


「今年は、払えません」


   ◇


公爵は、今度は自分から、クラリスを公爵府へ呼んだ。


執務室の窓の外で、手入れの行き届いた庭の噴水が、きらきら水を吐いていた。


「去年も、払えた」


公爵は、書類から目を上げずに言った。


「今年は、去年ではありません」

「長雨の件は聞いている。だが、君なら何とかできる」

「できません」

「今まで何度も、君はそう言って、結局できたではないか」


クラリスは、口を開きかけて、閉じた。


そうだった。

一年目も、二年目も、彼女は「無理です」と言って、そのあと、何とかした。


書記を減らして。暖炉の火を落として。祭りを半分にして。橋を後回しにして。

そのたびに、公爵の机の上では、「無理です」が「できた」に書き換わっていった。


限界だと言うたびに、限界の線が、一歩ずつ向こうへずらされていた。

ずらしていたのは、公爵の筆だけではなかった。


もっと早く、本当に払えないと言うべきだった。

一年目に、橋を直すほうを選ぶべきだった。


「……それを、何年続ければいいのですか」


公爵は、ようやく顔を上げた。

質問の意味が分からない、という顔だった。


「続けられるうちは、続ければいい」


クラリスは、息を吸った。


「では、本年度の納付額を、三割減らしてください」

「却下する」


公爵は、即答した。


クラリスは、膝の上で重ねていた手を、ほどいた。


「では、私は、代官職を辞します」


執務室が、静かになった。


噴水の音だけが、窓の外から聞こえた。


公爵は、初めてペンを置いた。


   ◇


最初、公爵は優しかった。


「疲れているんだろう。休暇を取りなさい。ひと月でも、ふた月でも」

「補佐官を二人、公爵府から送ろう」

「君の俸給も、上げる。三割でどうだ」

「私は、君ほど優秀な代官を他に知らない」


どれも、本心だった。

公爵は、クラリスの価値を、たぶん彼女自身より正確に知っていた。


クラリスは、ひとつだけ聞いた。


「領民の納税額は?」

「それは、別の話だ」


「では、辞めます」


公爵の顔から、笑みが消えた。


しばらく黙ったあと、公爵は低い声で言った。


「……これほど改革して、本当に金がないのか?」

「ありません」

「帳簿を調べさせてもらう」

「どうぞ」


クラリスは、あっさり答えた。

公爵の眉が、わずかに動いた。


監査官が三人、ベルツへ送られた。

彼らは代官所の帳簿を二週間かけて調べ、倉庫の麦袋を数え、水車の粉挽き台帳まで開いた。


報告書は、一枚だった。


「問題ありません」


それだけだった。


公爵は、報告書を長いこと見ていた。


「……そうか」

「では、辞任願を受理してください」


公爵には、もう、辞任を拒む名目がなかった。


ペンが、紙の上を走った。

署名が終わると、公爵は、椅子の背にもたれて言った。


「後悔するぞ」

「それは、その時に考えます」


クラリスは礼をして、執務室を出た。

廊下の窓から、噴水が見えた。あの噴水の水を汲み上げる機械の修繕費が、去年の公爵府の支出一覧に載っていたのを、彼女は覚えていた。橋の修繕費より、少し高かった。


   ◇


ベルツを発つ朝、代官所の前に、顔役たちが集まっていた。


グレタは、焼きたてのパンを袋いっぱいに持ってきた。

ヨナスは、羊毛の襟巻きを持ってきた。

イルゼは、例の薬湯の包みを持ってきた。「お代はいりません」と言った。今度は、負担金の話はしなかった。


バルドは、何も持ってこなかった。


「代官様」

「はい」

「次の代官、どんな人ですかね」

「分かりません。でも、公爵閣下は、ちゃんとした方を送ると思います」

「ちゃんとした方」


バルドは、腕を組んだ。


「ちゃんとした方が、ちゃんと取っていくわけですな」


クラリスは、何も言えなかった。

ヨナスが、襟巻きを彼女の首に巻きながら、ぼそりと言った。


「頑張らないほうが得な年が、来ますね」


クラリスは、馬車の窓から、遠ざかっていく北の橋を見ていた。

欄干は、三年前に折れたままだった。


直せなかったものの数を、途中まで数えて、やめた。


王都に着いたら、地方局の募集に申し込むつもりだった。

公爵府の代官を十年やった女を、雇ってくれるかどうかは分からない。雇ってくれなければ、南の商会の番頭に手紙を書こう、と思った。給金倍の話が、まだ生きているかどうかは知らない。


   ◇


王国地方局の採用面接で、白髪の面接官は、クラリスの経歴書を二度めくった。


「前職を辞めた理由は?」

「払えなくなったからです」

「……代官が、ですか?」

「領地が、です」


面接官は、眼鏡の奥で瞬きをした。

それから、経歴書の「ベルツ辺境区 在任十年」の行を、指でとんとんと叩いた。


「ベルツというと、北の。公爵領でいちばん納付が伸びたと評判の」

「去年も伸びました」

「今年は?」

「今年は、伸びません」


面接官は、しばらくクラリスの顔を見ていた。

何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。


面接官は、経歴書を閉じた。


「うちの予算は少ない。俸給も、代官ほどは出せません」

「その予算は、担当する村に戻りますか」

「戻ります。戻さないと、局長に怒られます」

「では、お願いします」


面接は、それで終わった。


王都の宿に戻ると、クラリスは南の商会の番頭に、短い手紙を書いた。

「お誘いの件、お断りいたします。お胃を大事に」


   ◇


新しい代官は、ハンス・ライマーといった。


四十手前。公爵領の南の地区で、十年近く徴税を担当してきた男だ。

真面目で、帳簿が読めて、人に威張らない。公爵が選ぶにふさわしい人物だった。


ハンスは、着任して最初の一週間で、代官所の記録を全部読んだ。

二週目に、公爵府へ手紙を書いた。


「この納付額では、無理です」


公爵の返事は、早かった。


「前任者は、払っていた」


ハンスは、もう一度書いた。


「どうやって、払っていたのでしょうか」


「それを考えるのが、代官だろう」


ハンスは、手紙を置いた。

代官所の窓から、北の橋が見えた。欄干が一本、折れたまま垂れ下がっていた。


「……資料を、調べます」


ハンスは、本当に調べた。


代官所の机の一番下の引き出しから、手書きの覚え書きが三冊出てきた。

表紙に、几帳面な字で「ベルツ 細々」とだけあった。


中身は、帳簿には載らないことばかりだった。


南の商会の番頭は、胃が弱い。交渉は昼食前がよい。

ヨナスは、頼みごとは断るが、相談には乗る。

共同倉庫の東の角は、雨が続くと湿る。薬草は置かないこと。

グレタの窯の順番は、水車の粉挽きの順番と一日ずれている。水車を一基増やせば解決する。(済)

バルドは面白がって負担金を真似る。止めること。(止まらない)


ハンスは、三冊を夜中までかけて読んだ。

読み終わって、ランプの芯を下げてから、しばらく暗い部屋に座っていた。


これを、あの税額と一緒に、ひとりでやっていたのか。


翌朝、ハンスは公爵府に、税率を二割下げる案を送った。

覚え書きをもとに、三年で税収を元に戻す計画書を添えて。


返事は、一行だった。


「税率は維持せよ。前任者は、それで払っていた」


   ◇


ハンスは、公爵の指示どおり、税率を維持した。


最初に出ていったのは、羊毛の加工場だった。

南の隣領、ヴェスター伯爵領に、同じくらいの規模の工房が売りに出ていたらしい。職人ごと、荷車四台で引っ越していった。


次に、ベルツで三年前に店を開いた薬草の卸商が、隣領の港町へ移った。

街道沿いの宿の一軒が、看板を下ろした。バルドの宿ではなかったが、バルドは宿の前で腕を組んで、その荷車を見送っていた。


農家は、手間のかかる薬草や豆をやめて、麦だけを植えるようになった。

麦なら、手間がかからない。売れても、たいして儲からない。儲からなければ、たいして取られない。


誰も、反乱はしなかった。


静かに、店を閉めた。

静かに、畑を小さくした。

静かに、隣の領へ移った。


半年後、ハンスは公爵府に呼ばれた。


「税収が、減っているぞ」

「商人が、三十七軒出ていきました」

「では、税率を一割上げろ」


ハンスは、耳を疑った。


「残った者の負担を、増やすのですか?」

「減った分を埋めなければならん」

「残った者が、また出ていきます」

「出ていかない者から取ればいい。ベルツの民は、辛抱強いのだろう? 前任者の報告書に、そう書いてあった」


書いてあったのは、たぶん、別の意味だった。


翌月、ベルツの税率は一割上がった。


布告が広場に貼られた三日後、南の街道を、荷車が続けて下っていった。

去年ベルツに越してきたばかりの鍛冶屋が、炉の火を落として出ていった。

イルゼの店に薬草を卸していた二軒の農家が、薬草畑をすき返して麦を蒔いた。

グレタは、朝の窯を一回にした。


さらに四か月後。


「さらに減ったぞ」

「さらに、二十一軒出ていきました」

「なぜだ!」


ハンスは、考えてから、正直に答えた。


「税率を上げたからでは?」

「そんな単純な話ではない!」

「かなり単純に見えますが」


公爵が机を叩いた。

書類の角が、初めて揃わなくなった。


「……ならば、出ていく者から取れ。転出者特別負担金を設ける。領外へ移る者は、財産の一割を納めること」


ハンスは、何か言いかけて、やめた。


「承知しました。施行は、いつからに」

「来月の頭からだ」


布告が出たのは、月の半ばだった。


施行までの二週間で、さらに十九軒が出ていった。

駆け込みだった。


「なぜ施行前に布告を出した!」

「布告を出さずに施行することは、公爵領法でできませんので」

「……」


ハンスは、報告書の最後の行に、いつもより小さな字で書き足した。

「なお、転出者特別負担金の徴収実績は、金貨ゼロ枚」


   ◇


ヴェスター伯爵領の港町の酒場で、ベルツから移ってきた薬草の卸商が、昔なじみの商人と杯を合わせていた。


「税金が、半分になった!」

「売り上げは?」

「同じ!」

「じゃあ、儲かったな!」

「いや、去年までが何だったんだよ!」


卸商は、杯をテーブルに叩きつけて、それから、ちょっとだけ寂しそうな顔をした。


「……代官様には、世話になったんだけどな。店、出すとき、場所から何から全部相談に乗ってもらって」

「その代官様は?」

「辞めたってさ」

「そりゃ出てくるわ」


もちろん、全員が出ていけたわけではない。


ヨナスの羊は、ベルツの丘の草しか食べない。少なくとも、ヨナスはそう言い張っている。

グレタの窯は、祖母の代からあの場所にある。窯は、荷車には載らない。


二人は、残った。

ヨナスは、羊を三十頭減らした。グレタの窯は、朝の一回だけになったままだった。


「頑張らないほうが得な年、本当に来ましたね」


グレタが、昼過ぎに閉めた店の前で、パンの耳をかじりながら言った。

ヨナスは、返事の代わりに、パンの耳を半分もらった。


そこへ、ハンスが通りかかった。

代官所から、公爵府への報告書を出しに行く途中だった。


「……もう、閉めたのですか」

「朝の窯、一回にしたんで」

「売れないのですか」

「売れますよ」


グレタは、パンの耳をかじりながら言った。


「売れるけど、売っても取られるんで。一回分売れば、暮らしていけるんです。二回目は、公爵様のために焼くことになるんで」


ハンスは、何も言い返せなかった。

代わりに、懐から銅貨を出した。


「一つ、残っていますか」

「耳でよければ」


ハンスは、パンの耳を一本もらって、報告書の筒を脇に抱えたまま、それをかじった。

固かった。でも、うまかった。


報告書の数字は、今月もまた、先月より小さかった。


   ◇


ベルツの話は、王都の社交界にも届いていた。


ある晩の夜会で、グランツ公爵が葡萄酒の杯を手にしていると、隣に立った老伯爵が、にこやかに話しかけてきた。


「グランツ公。北の領地、なかなか面白いことになっているそうですな」

「何のことだ」

「税率を上げたら、税収が減ったとか」


公爵の杯が、わずかに傾いた。


「単純な話ではない。天候と、羊毛の相場と、代官の交代が重なった」

「ほう。代官の交代」

「……有能な者だったが、辞めた」

「なぜ辞めたのです」

「税が払えないと言ってな」

「で、払えなかった税の税率を、上げた」

「……減った分を埋めるためだ」


老伯爵は、ふむ、と言って杯を傾けた。


「うちの領の東の村に、最近、羊毛の工房が越してきましてね。職人ごと、荷車四台で。ありがたいことです」


老伯爵は、ヴェスター伯爵だった。


その夜、公爵は、いつもより早く夜会を辞した。

帰りの馬車の中で、葡萄酒の味を思い出そうとして、思い出せなかった。


   ◇


一年後。


グランツ公爵ローデリックは、執務室で、ベルツの十年分の記録を広げていた。


税収は、クラリス時代の半分を割っていた。

税率は、彼女がいた頃より、高いままだった。


公爵は、数字に強い男だった。

だから、記録を三年分さかのぼったところで、分かってしまった。


彼女がいた頃、税率が高かったから、税収が多かったのではない。


水路を引いた年に、麦の収量が上がっていた。

共同倉庫ができた年に、冬の餓死者がゼロになり、翌春の働き手が減らなくなっていた。

市場の仕組みを変えた年に、隣領から商人が三軒来ていた。その翌年には、七軒。

薬草の栽培を始めた年に、卸商がひとつ店を開いた。

街道に宿を建てさせた年に、荷車の通行量が倍になっていた。


税を払っていたのは、ベルツの民だった。

けれど、その税が生まれる畑も、店も、道も、あの女が一つずつ増やしていたのだ。


公爵は、椅子の背にもたれた。


最後の増税を、一度だけ我慢しておけばよかった。

俸給を、もっと早くに上げておけばよかった。

監査など入れずに、もう少し宥めればよかった。


どれも、合理的な後悔だった。


取りすぎていた、とは、一度も思わなかった。


   ◇


その秋、王都で地方行政の会議が開かれた。


各地の領主や代官、王国の行政官が集まる、年に一度の会議だ。

グランツ公爵は、そこで、王国地方局の席に座っているクラリスを見つけた。


休憩の時間に、公爵は彼女を回廊に呼び止めた。


「戻れ」

「代官へ、ですか」

「そうだ」

「条件は?」


公爵は、用意してきた言葉を口にした。


「以前より、二割多く、領内へ残していい」


クラリスは、首を傾げた。


「以前より?」

「君の価値を、認めたのだ」


公爵は、本気でそう言っていた。

これが、彼にとっての最大の譲歩だった。


クラリスは、考えてから聞いた。


「今のベルツから、その税額を取れると思いますか?」

「君なら、取れる」


即答だった。


クラリスは、しばらく黙っていた。


「……そうですね」


公爵の目に、光が差した。


「だから、戻りません」


公爵が、眉を寄せた。


「なぜだ」

「また払えたら、来年はもっと取るでしょう?」


公爵は、答えなかった。

否定の言葉を探して、見つからなかった顔だった。


公爵は、それでも口を開いた。


「……二割では足りないのか。三割でもいい」

「閣下」


クラリスは、会議室の扉のほうを見た。

休憩の終わりを告げる鐘が、ちょうど鳴り始めていた。


「割合の話では、ないんです」


クラリスは礼をして、会議室へ戻っていった。


公爵は、回廊に残った。


割合の話ではない、と彼女は言った。

では、何の話だというのか。


公爵は、頭の中で数字を並べ直した。二割。三割。俸給の上乗せ。補佐官。休暇。

全部を足しても、彼女が首を縦に振る形にならなかった。


計算が合わないのは、久しぶりだった。

どこかの桁を間違えているのだろう、と公爵は思った。それがどの桁なのかは、最後まで分からなかった。


   ◇


クラリスの今の職場は、王国地方局の小さな出張所だった。


担当は、王領のはずれにある、ベルツよりさらに小さな谷の村々。

代官ではない。村の帳簿を見て、橋や水路の相談に乗り、予算の申請を手伝う。俸給は、ベルツの頃と同じくらい。休みは、週に一日。


翌年の春、谷の小さな木の橋が架け替えられた。


完成の日、村の年寄りが、新しい欄干を撫でながら言った。


「これ、今年の税金で作ったんですよね?」

「ええ」


年寄りは、しばらく欄干を見つめていた。


「税金って、戻ってくることあるんだ……」

「あります」


クラリスは答えた。


年寄りは、欄干を拳で二度叩いた。

折れないのを確かめてから、満足そうに頷いた。


「前の橋はね、三十年、欄干が一本足りなかったんですよ。申し入れても、財源がないって」

「財源は、ありました」

「どこに」

「ここに」


クラリスは、橋の板を靴の先で軽く踏んだ。

年寄りは、よく分からない顔をしていた。


渡り初めの子どもたちが、橋の真ん中で跳ねて、大人に怒られていた。


   ◇


同じ頃、グランツ公爵府。


公爵は、財務官のペーテルスを呼んだ。


「ベルツから、あといくら取れる?」

「現状ですと、これ以上は……」

「去年も、そう言っただろう」

「去年と今年は、違います」


公爵は、黙った。


どこかで聞いた言葉だった。

どこで聞いたのかは、思い出せなかった。


窓の外で、噴水が水を吐いていた。


公爵は、しばらくそれを眺めてから、口を開いた。


「……クラリスなら、どうした」


ペーテルスは、口ひげを指でなでて、少し考えた。


「たぶん、税を下げます」


「却下だ」


(了)

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― 新着の感想 ―
多分公爵足し算は出来るんだろうな
金を取るだけ取って何も還元しない奴のことを乞食っていうんだよなぁ
公爵が頭悪すぎる 実は全く数字に強くないでしょこの人
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