「去年も払えたのだから、今年も払えるだろう」と増税され続けたので代官を辞めたら、税率を上げた公爵領の税収が半分以下になったそうです
「ベルツ辺境区。本年度の納付額は、金貨二万二千枚とする」
公爵府から来た財務官は、紙を読み上げると、くるくると巻いて紐で縛った。
仕事は終わった、という顔だった。
代官のクラリス・ベルナールは、机の上の写しを見下ろした。
二万二千。
去年は、二万だった。
「……去年より、一割増えています」
「昨年度、ベルツの税収が増えましたので」
財務官のペーテルスは、当然のように言った。
細い口ひげを、指先で整えながら。
「増えた分は、冬の共同倉庫と、北の橋の修繕に充てる予定でして」
「払えた実績があります」
「はい?」
「昨年、二万をお支払いになった。ですから今年も、お支払いになれるでしょう」
「去年の二万は、去年の二万です」
「ええ。そして今年は二万二千です」
クラリスは、三秒ほど黙った。
話が噛み合っていないのか、自分の耳が悪いのか、分からなくなった。
「増額の根拠は」
「昨年、払えたことです」
「それ以外は」
「公爵閣下が、そうお決めになりました」
ペーテルスは、巻いた紙を革の筒に差し込んで、にっこり笑った。
「ベルナール代官なら、何とかなさるでしょう。閣下もそう仰っておりました」
◇
その日の夕方、クラリスは村の集会所に顔役たちを集めた。
パン屋のグレタ。羊飼いのヨナス。薬師のイルゼ。宿屋のバルド。
十年前、クラリスがこの土地に来たときは、集会所の屋根が雨漏りしていた。今は、していない。去年、みんなで金を出し合って直した。
十年前のベルツは、冬が来るたびに、どこかの家から葬式が出た。
雪で街道が閉じると、麦が尽きる。尽きたら、春まで待つしかない。待てない家があった。
クラリスが最初にやったのは、村ごとにばらばらだった麦の蓄えを、一か所の共同倉庫にまとめることだった。
次に、山の雪解け水を畑へ引く水路を掘った。三年かかった。
市場を月一回から週一回にした。南の商人が来るようになった。
羊毛を刈ったまま売るのをやめて、糸に紡いでから売るようにした。値が倍になった。
イルゼの薬草を、畑で育てられるものから増やした。
街道沿いに、バルドに宿を広げさせた。
劇的なことは、何もしていない。
ただ、ヨナスの家では冬に肉が食べられるようになった。グレタの長男は、町の学校へ通えるようになった。バルドの宿の屋根は、もう雪の重みで鳴らない。
その程度のことだ。
その程度のことに、十年かかった。
「今年の納付額が、増えました」
集会所が、しんとした。
暖炉の薪が、ぱちっと鳴った。
グレタが、エプロンで手を拭きながら口を開いた。
「ええと」
「はい」
「去年、うちら頑張って売り上げ増やしたから?」
「はい」
「だから、今年もっと取られる?」
「……はい」
ヨナスが、帽子を膝の上で回しながら言った。
「代官様」
「はい」
「うち、今年から頑張らないほうがよくないですか?」
「それは領地として駄目です」
クラリスは即答した。
即答してから、自分でも理由を探した。
イルゼが、薬草の匂いのする指で頬をかいた。
「でも、頑張ると取られるんですよね?」
「…………」
クラリスは、返事をしなかった。
できなかった、が正しい。
バルドが、腕を組んで天井を見上げた。
「去年、宿の部屋を二つ増やしたんですがね。あれ、戻したら税も戻りますかね」
「戻さないでください」
「壁、塗り直すだけなんで」
「塗らないでください」
◇
ひと月後、クラリスは馬車で三日かけて公爵府へ向かった。
グランツ公爵ローデリックは、執務室の大きな窓を背にして座っていた。
四十代半ばの、身なりのいい男だった。机の上の書類は、角がきっちり揃っていた。
「ベルナール代官。遠いところをよく来てくれた」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「君の報告書は、いつも読みやすい。数字が正確で助かっている」
公爵は、本気で褒めていた。
彼が数字に強いことは、クラリスも知っていた。公爵領の十三の地区の収支を、帳簿なしで大体言える人だ。
「十年前のベルツは、公爵領の荷物だった。毎年、冬になると救恤の麦を送っていた。それが今では、自分で税を払い、余りまで出している」
公爵は、満足そうに頷いた。
「ベルツがここまで来られたのも、君のおかげだ。信頼しているよ」
「ありがとうございます」
「だから、今年は去年より二千、頼む」
だから、の使い方が、クラリスの知っているものと少し違った。
「本日は、増額分を半分にしていただけないかと思い、参りました」
「理由は?」
「領民に、還元したいのです」
「何を?」
「学校と、診療所と、北の街道の整備です」
公爵は、首を傾げた。
「必要なのか?」
「必要です」
「今までなくても、暮らしていただろう」
「今まで困っていたから、作るのです」
「困っていても、税は払えていた」
公爵は、それが結論であるかのように、ペンを取った。
クラリスは、膝の上で手を握った。
言い返す言葉は、いくつもあった。どれを選んでも、この人の机の上では同じ場所に着地する気がした。
「……では、せめて、北の橋の修繕費だけでも、公爵府から」
「財源がない」
「先月、ベルツから金貨八千枚をお送りしました」
「公爵領全体の財源になった」
「そこから、橋へ戻していただくことは」
「橋へ回す財源がない」
「……今、その財源を、お送りしましたよね?」
「それは公爵領全体の財源だ」
「では、公爵領全体の財源から」
「ベルツだけを特別扱いするわけにはいかない」
クラリスは、数秒黙った。
「……分かりました」
分かっていなかった。
◇
帰りの馬車の中で、クラリスは紙に数字を並べた。
足りないのは、金貨二千。
役場の書記を一人減らす。その分は自分が夜にやる。
羊毛を別々に売っていた三つの村の荷を、まとめて一台の荷車で運ぶ。運賃が四割浮く。
共同倉庫の使用料を、量で決めていたのを、預ける期間で決めるように変える。
南の商会と、薬草の卸値をもう一度交渉する。三度目になる。
南の商会の番頭は、クラリスが店先に現れた瞬間、帳場の奥で胃のあたりを押さえた。
「……ベルナール代官。今年は、何を」
「薬草の卸値を、一割上げていただきたく」
「去年も上げましたよね」
「去年上げても、お宅は儲かっておられます。帳簿を拝見すれば分かります」
「帳簿は見せていません」
「港の荷揚げ量と、お宅の荷車の数で、だいたい分かります」
番頭は、胃薬をもう一粒飲んだ。
結局、八分上がった。
帰りぎわ、番頭がぼそりと言った。
「代官様、うちに来ませんか。給金は倍出します」
「考えておきます」
考えなかった。
あの頃のクラリスは、ベルツ以外の場所で働く自分を、うまく想像できなかった。
川沿いに水車を一基足す。粉挽きの順番待ちが減れば、パン屋の朝が早くなる。
橋は、今年も直らない。
学校は、来年に回す。
領民には、我慢してもらう。
祭りの予算を、半分にする。
秋の収穫祭で、樽のぶどう酒が例年の半分しかないのを見て、バルドが言った。
「代官様。今年は、ずいぶん慎ましいですな」
「すみません」
「いや、謝られても」
バルドは、薄めのぶどう酒をすすって、顔をしかめた。
「……去年の祭り、楽しかったですからね。今年、公爵様のところで、うちらの祭りの半分がどっかで飲まれてると思うと」
「思わないでください」
「思っちゃいますよ」
その夜、広場の焚き火は、例年より少し小さかった。
それでも、グレタの末の娘は、火の周りを三周走って、転んで、泣いて、また走った。
書記を減らす話は、クラリス自身が伝えた。
代官所でいちばん若い書記のトビアスは、話を聞き終えると、ペンを置いて頭をかいた。
「……まあ、そうなりますよね。数字、全部見てましたから」
「ごめんなさい」
「代官様が謝ることじゃないです」
トビアスは、机の引き出しを片づけながら言った。
「南の商会の番頭さんが、書記を探してるって言ってました。代官様のところで数字を覚えたって言えば、たぶん雇ってくれます」
「あの番頭さん、胃が弱いから、昼食前に行ってね」
「知ってます。代官様が毎回そうしてたんで」
トビアスは、最後に自分の机を布で拭いて出ていった。
その机には、翌日から、クラリスの書類が積まれた。
その冬、ベルツは二万二千枚を、期限の三日前に納めた。
公爵から、短い手紙が届いた。
「やはり、君ならできたな」
クラリスは、返事を書いた。
「かなり無理をいたしました」
次の手紙は、もっと短かった。
「結果として、払えた」
◇
春、北の村に、公爵府の税吏がやってきた。
「本年度から、橋梁整備特別負担金が追加される。一戸につき、銀貨三枚」
村の広場で、ヨナスが手を挙げた。
「橋、作ってくれるんですか?」
「財源が確保できれば」
「今払う銀貨三枚は?」
「橋梁整備特別負担金だ」
「それが財源では?」
「それだけでは足りない」
「じゃあ、何に使うんです?」
「橋梁整備の財源確保に」
「話が一周しましたよ」
税吏は咳払いをして、次の家へ行った。
その晩、税吏はバルドの宿に泊まった。
翌朝、宿代の請求書に、見慣れない一行が足されていた。
「旅客宿泊環境整備特別負担金 銀貨一枚」
「……これは何だ」
「宿の環境整備の財源確保です」
「どこを整備するんだ」
「財源が確保できれば」
税吏は、しばらくバルドの顔を見ていた。
バルドは、真顔で釣り銭を数えていた。
あとでクラリスは、その銀貨一枚を、バルドから回収して税吏に返した。
バルドは不満そうだった。
「代官様、今のは向こうが先ですよ」
「分かっています。分かっていますけど、返してください」
◇
二年目の春、財務官のペーテルスが、視察と称してベルツにやってきた。
「ほう。水車が増えましたな」
「去年、一基増やしました」
「粉挽きが早くなれば、パンの数も増える。パンが増えれば、売り上げも増える」
ペーテルスは、手帳に何か書きつけた。
クラリスには、何を書いたのか、見なくても分かった。
「……来年の納付額の話を、しに来られたのですか」
「いえいえ、視察です。ただの視察」
ペーテルスは、共同倉庫を見て「立派ですな」と言い、手帳に書いた。
新しい宿の部屋を見て「繁盛していますな」と言い、手帳に書いた。
グレタの店の前の行列を見て、何も言わずに、手帳に書いた。
帰りぎわ、ペーテルスはバルドの宿に泊まらず、隣町まで馬を飛ばしていった。
去年の請求書のことを、どこかで聞いたらしい。
「賢い人ですな」とバルドは言った。
◇
二年目の夏の終わり、パン屋の裏で、グレタとヨナスとイルゼが、麦わらの上に座り込んでいた。
クラリスが通りかかると、グレタが手を振った。
「代官様。今ちょうど、反乱の相談してたんですよ」
「……はい?」
ヨナスが、真面目な顔で指を折った。
「もう反乱でもします?」
「いつ?」とイルゼ。
「来週」
「麦刈り」
「再来週」
「羊の毛刈り」
「その次」
「税の納期」
「……春にする?」
「春は種まき」
「じゃあ、やめよう」
三人は、揃って頷いた。
「反乱は、やめてください」
クラリスが言うと、グレタが笑った。
「代官様、本気にしないでくださいよ。反乱なんかしてたら、パンが焦げます」
三人は立ち上がって、それぞれの仕事に戻っていった。
グレタは窯へ。ヨナスは丘の上の羊のところへ。イルゼは乾かしていた薬草を取り込みに。
誰も、暇ではなかった。
◇
二年目の秋、また納付通知が来た。
金貨二万五千枚。
理由の欄には、こうあった。
「二年連続で、納付の実績がある」
クラリスは、公爵府へ手紙を書いた。
「昨年の増額は、特例であると申し上げたはずです」
返事は、半月後に来た。
「特例を二年続ければ、実績だ」
クラリスは、その手紙を机の引き出しにしまった。
しまってから、もう一度出して読んで、また、しまった。
その年も、ベルツは払った。
使える手は、もう、あまり残っていなかった。
クラリスは二十九になっていた。
実家の母からは、年に二度、手紙が来る。一度目は春に「元気ですか」、二度目は秋に「いい人はいないのですか」。
秋の手紙には、毎年、返事を書きそびれている。書こうとすると、納付額の計算が頭に浮かぶ。
夕食は、たいてい机の上で食べた。
グレタが毎朝届けてくれる丸パンを半分に割って、チーズを挟む。帳簿を汚さないように、左手で持つ。
十年やっていると、左手で食べるのがうまくなる。
代官所の暖炉は、クラリスの部屋の分だけ火を落とした。書記がひとり辞めて、その分の仕事がまた、彼女の机に積まれた。
「代官様、顔色悪いですよ」
イルゼが、頼んでもいない薬湯を持ってきた。
「苦いですけど、飲んでください。お代はいりません」
「払います」
「じゃあ、銀貨一枚」
「……高くないですか」
「薬湯環境整備特別負担金込みです」
イルゼは、真顔だった。
バルドの悪い影響が、確実に広がっていた。
◇
三年目の夏は、雨が長かった。
麦は、穂が重くなる前に倒れた。
北の山道が崩れて、羊毛を運ぶ荷車が二週間止まった。やっと運び出した頃には、南の市場で羊毛の値が下がっていた。今年は、隣の国でも羊がよく育ったらしい。
ヨナスは、倒れた麦畑の横で、濡れた羊の背中を一頭ずつ拭いていた。
グレタの店は、粉が湿って膨らまないパンが続いて、客に頭を下げる日が増えた。
イルゼの薬草は、根が腐った。
どれも、一つずつなら、何とかなることだった。
全部いっぺんに来ると、何ともならなかった。
クラリスは、机の上に三つの数字を並べた。
今年、ベルツで見込める収入。
公爵府に納める額。
冬を越すのに、共同倉庫に残しておくべき麦の量。
どう並べ替えても、ひとつが足りなかった。
納付額を払えば、倉庫の麦が、冬の半ばで尽きる。
クラリスは、それでもまだ、何か手はないかと村を回った。
丘の上で、ヨナスが濡れた羊の毛を梳いていた。
「ヨナスさん。今年、羊を何頭か、先に売ることはできますか。冬の前に」
「できますよ」
ヨナスは、手を止めずに答えた。
「できますけど、代官様」
「はい」
「今年は、払わなくていいですよ」
クラリスは、瞬きをした。
「代官様が無理して払うと、来年また増えるんで」
ヨナスは、羊の背中をぽんと叩いた。羊は迷惑そうに鳴いた。
「うちら、三年見てて、それだけは覚えました。代官様が頑張ると、来年の分が増える。だったら、今年は頑張らないでください。羊は売りません」
それは、たぶん、ベルツでいちばん正確な税制の説明だった。
クラリスは、丘の上でしばらく立っていた。
風が、刈ったばかりの羊毛の匂いを運んできた。
その夜、代官所に戻って、クラリスはペンを取った。
一度置いて、もう一度持った。
公爵府への手紙は、一行で済んだ。
「今年は、払えません」
◇
公爵は、今度は自分から、クラリスを公爵府へ呼んだ。
執務室の窓の外で、手入れの行き届いた庭の噴水が、きらきら水を吐いていた。
「去年も、払えた」
公爵は、書類から目を上げずに言った。
「今年は、去年ではありません」
「長雨の件は聞いている。だが、君なら何とかできる」
「できません」
「今まで何度も、君はそう言って、結局できたではないか」
クラリスは、口を開きかけて、閉じた。
そうだった。
一年目も、二年目も、彼女は「無理です」と言って、そのあと、何とかした。
書記を減らして。暖炉の火を落として。祭りを半分にして。橋を後回しにして。
そのたびに、公爵の机の上では、「無理です」が「できた」に書き換わっていった。
限界だと言うたびに、限界の線が、一歩ずつ向こうへずらされていた。
ずらしていたのは、公爵の筆だけではなかった。
もっと早く、本当に払えないと言うべきだった。
一年目に、橋を直すほうを選ぶべきだった。
「……それを、何年続ければいいのですか」
公爵は、ようやく顔を上げた。
質問の意味が分からない、という顔だった。
「続けられるうちは、続ければいい」
クラリスは、息を吸った。
「では、本年度の納付額を、三割減らしてください」
「却下する」
公爵は、即答した。
クラリスは、膝の上で重ねていた手を、ほどいた。
「では、私は、代官職を辞します」
執務室が、静かになった。
噴水の音だけが、窓の外から聞こえた。
公爵は、初めてペンを置いた。
◇
最初、公爵は優しかった。
「疲れているんだろう。休暇を取りなさい。ひと月でも、ふた月でも」
「補佐官を二人、公爵府から送ろう」
「君の俸給も、上げる。三割でどうだ」
「私は、君ほど優秀な代官を他に知らない」
どれも、本心だった。
公爵は、クラリスの価値を、たぶん彼女自身より正確に知っていた。
クラリスは、ひとつだけ聞いた。
「領民の納税額は?」
「それは、別の話だ」
「では、辞めます」
公爵の顔から、笑みが消えた。
しばらく黙ったあと、公爵は低い声で言った。
「……これほど改革して、本当に金がないのか?」
「ありません」
「帳簿を調べさせてもらう」
「どうぞ」
クラリスは、あっさり答えた。
公爵の眉が、わずかに動いた。
監査官が三人、ベルツへ送られた。
彼らは代官所の帳簿を二週間かけて調べ、倉庫の麦袋を数え、水車の粉挽き台帳まで開いた。
報告書は、一枚だった。
「問題ありません」
それだけだった。
公爵は、報告書を長いこと見ていた。
「……そうか」
「では、辞任願を受理してください」
公爵には、もう、辞任を拒む名目がなかった。
ペンが、紙の上を走った。
署名が終わると、公爵は、椅子の背にもたれて言った。
「後悔するぞ」
「それは、その時に考えます」
クラリスは礼をして、執務室を出た。
廊下の窓から、噴水が見えた。あの噴水の水を汲み上げる機械の修繕費が、去年の公爵府の支出一覧に載っていたのを、彼女は覚えていた。橋の修繕費より、少し高かった。
◇
ベルツを発つ朝、代官所の前に、顔役たちが集まっていた。
グレタは、焼きたてのパンを袋いっぱいに持ってきた。
ヨナスは、羊毛の襟巻きを持ってきた。
イルゼは、例の薬湯の包みを持ってきた。「お代はいりません」と言った。今度は、負担金の話はしなかった。
バルドは、何も持ってこなかった。
「代官様」
「はい」
「次の代官、どんな人ですかね」
「分かりません。でも、公爵閣下は、ちゃんとした方を送ると思います」
「ちゃんとした方」
バルドは、腕を組んだ。
「ちゃんとした方が、ちゃんと取っていくわけですな」
クラリスは、何も言えなかった。
ヨナスが、襟巻きを彼女の首に巻きながら、ぼそりと言った。
「頑張らないほうが得な年が、来ますね」
クラリスは、馬車の窓から、遠ざかっていく北の橋を見ていた。
欄干は、三年前に折れたままだった。
直せなかったものの数を、途中まで数えて、やめた。
王都に着いたら、地方局の募集に申し込むつもりだった。
公爵府の代官を十年やった女を、雇ってくれるかどうかは分からない。雇ってくれなければ、南の商会の番頭に手紙を書こう、と思った。給金倍の話が、まだ生きているかどうかは知らない。
◇
王国地方局の採用面接で、白髪の面接官は、クラリスの経歴書を二度めくった。
「前職を辞めた理由は?」
「払えなくなったからです」
「……代官が、ですか?」
「領地が、です」
面接官は、眼鏡の奥で瞬きをした。
それから、経歴書の「ベルツ辺境区 在任十年」の行を、指でとんとんと叩いた。
「ベルツというと、北の。公爵領でいちばん納付が伸びたと評判の」
「去年も伸びました」
「今年は?」
「今年は、伸びません」
面接官は、しばらくクラリスの顔を見ていた。
何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
面接官は、経歴書を閉じた。
「うちの予算は少ない。俸給も、代官ほどは出せません」
「その予算は、担当する村に戻りますか」
「戻ります。戻さないと、局長に怒られます」
「では、お願いします」
面接は、それで終わった。
王都の宿に戻ると、クラリスは南の商会の番頭に、短い手紙を書いた。
「お誘いの件、お断りいたします。お胃を大事に」
◇
新しい代官は、ハンス・ライマーといった。
四十手前。公爵領の南の地区で、十年近く徴税を担当してきた男だ。
真面目で、帳簿が読めて、人に威張らない。公爵が選ぶにふさわしい人物だった。
ハンスは、着任して最初の一週間で、代官所の記録を全部読んだ。
二週目に、公爵府へ手紙を書いた。
「この納付額では、無理です」
公爵の返事は、早かった。
「前任者は、払っていた」
ハンスは、もう一度書いた。
「どうやって、払っていたのでしょうか」
「それを考えるのが、代官だろう」
ハンスは、手紙を置いた。
代官所の窓から、北の橋が見えた。欄干が一本、折れたまま垂れ下がっていた。
「……資料を、調べます」
ハンスは、本当に調べた。
代官所の机の一番下の引き出しから、手書きの覚え書きが三冊出てきた。
表紙に、几帳面な字で「ベルツ 細々」とだけあった。
中身は、帳簿には載らないことばかりだった。
南の商会の番頭は、胃が弱い。交渉は昼食前がよい。
ヨナスは、頼みごとは断るが、相談には乗る。
共同倉庫の東の角は、雨が続くと湿る。薬草は置かないこと。
グレタの窯の順番は、水車の粉挽きの順番と一日ずれている。水車を一基増やせば解決する。(済)
バルドは面白がって負担金を真似る。止めること。(止まらない)
ハンスは、三冊を夜中までかけて読んだ。
読み終わって、ランプの芯を下げてから、しばらく暗い部屋に座っていた。
これを、あの税額と一緒に、ひとりでやっていたのか。
翌朝、ハンスは公爵府に、税率を二割下げる案を送った。
覚え書きをもとに、三年で税収を元に戻す計画書を添えて。
返事は、一行だった。
「税率は維持せよ。前任者は、それで払っていた」
◇
ハンスは、公爵の指示どおり、税率を維持した。
最初に出ていったのは、羊毛の加工場だった。
南の隣領、ヴェスター伯爵領に、同じくらいの規模の工房が売りに出ていたらしい。職人ごと、荷車四台で引っ越していった。
次に、ベルツで三年前に店を開いた薬草の卸商が、隣領の港町へ移った。
街道沿いの宿の一軒が、看板を下ろした。バルドの宿ではなかったが、バルドは宿の前で腕を組んで、その荷車を見送っていた。
農家は、手間のかかる薬草や豆をやめて、麦だけを植えるようになった。
麦なら、手間がかからない。売れても、たいして儲からない。儲からなければ、たいして取られない。
誰も、反乱はしなかった。
静かに、店を閉めた。
静かに、畑を小さくした。
静かに、隣の領へ移った。
半年後、ハンスは公爵府に呼ばれた。
「税収が、減っているぞ」
「商人が、三十七軒出ていきました」
「では、税率を一割上げろ」
ハンスは、耳を疑った。
「残った者の負担を、増やすのですか?」
「減った分を埋めなければならん」
「残った者が、また出ていきます」
「出ていかない者から取ればいい。ベルツの民は、辛抱強いのだろう? 前任者の報告書に、そう書いてあった」
書いてあったのは、たぶん、別の意味だった。
翌月、ベルツの税率は一割上がった。
布告が広場に貼られた三日後、南の街道を、荷車が続けて下っていった。
去年ベルツに越してきたばかりの鍛冶屋が、炉の火を落として出ていった。
イルゼの店に薬草を卸していた二軒の農家が、薬草畑をすき返して麦を蒔いた。
グレタは、朝の窯を一回にした。
さらに四か月後。
「さらに減ったぞ」
「さらに、二十一軒出ていきました」
「なぜだ!」
ハンスは、考えてから、正直に答えた。
「税率を上げたからでは?」
「そんな単純な話ではない!」
「かなり単純に見えますが」
公爵が机を叩いた。
書類の角が、初めて揃わなくなった。
「……ならば、出ていく者から取れ。転出者特別負担金を設ける。領外へ移る者は、財産の一割を納めること」
ハンスは、何か言いかけて、やめた。
「承知しました。施行は、いつからに」
「来月の頭からだ」
布告が出たのは、月の半ばだった。
施行までの二週間で、さらに十九軒が出ていった。
駆け込みだった。
「なぜ施行前に布告を出した!」
「布告を出さずに施行することは、公爵領法でできませんので」
「……」
ハンスは、報告書の最後の行に、いつもより小さな字で書き足した。
「なお、転出者特別負担金の徴収実績は、金貨ゼロ枚」
◇
ヴェスター伯爵領の港町の酒場で、ベルツから移ってきた薬草の卸商が、昔なじみの商人と杯を合わせていた。
「税金が、半分になった!」
「売り上げは?」
「同じ!」
「じゃあ、儲かったな!」
「いや、去年までが何だったんだよ!」
卸商は、杯をテーブルに叩きつけて、それから、ちょっとだけ寂しそうな顔をした。
「……代官様には、世話になったんだけどな。店、出すとき、場所から何から全部相談に乗ってもらって」
「その代官様は?」
「辞めたってさ」
「そりゃ出てくるわ」
もちろん、全員が出ていけたわけではない。
ヨナスの羊は、ベルツの丘の草しか食べない。少なくとも、ヨナスはそう言い張っている。
グレタの窯は、祖母の代からあの場所にある。窯は、荷車には載らない。
二人は、残った。
ヨナスは、羊を三十頭減らした。グレタの窯は、朝の一回だけになったままだった。
「頑張らないほうが得な年、本当に来ましたね」
グレタが、昼過ぎに閉めた店の前で、パンの耳をかじりながら言った。
ヨナスは、返事の代わりに、パンの耳を半分もらった。
そこへ、ハンスが通りかかった。
代官所から、公爵府への報告書を出しに行く途中だった。
「……もう、閉めたのですか」
「朝の窯、一回にしたんで」
「売れないのですか」
「売れますよ」
グレタは、パンの耳をかじりながら言った。
「売れるけど、売っても取られるんで。一回分売れば、暮らしていけるんです。二回目は、公爵様のために焼くことになるんで」
ハンスは、何も言い返せなかった。
代わりに、懐から銅貨を出した。
「一つ、残っていますか」
「耳でよければ」
ハンスは、パンの耳を一本もらって、報告書の筒を脇に抱えたまま、それをかじった。
固かった。でも、うまかった。
報告書の数字は、今月もまた、先月より小さかった。
◇
ベルツの話は、王都の社交界にも届いていた。
ある晩の夜会で、グランツ公爵が葡萄酒の杯を手にしていると、隣に立った老伯爵が、にこやかに話しかけてきた。
「グランツ公。北の領地、なかなか面白いことになっているそうですな」
「何のことだ」
「税率を上げたら、税収が減ったとか」
公爵の杯が、わずかに傾いた。
「単純な話ではない。天候と、羊毛の相場と、代官の交代が重なった」
「ほう。代官の交代」
「……有能な者だったが、辞めた」
「なぜ辞めたのです」
「税が払えないと言ってな」
「で、払えなかった税の税率を、上げた」
「……減った分を埋めるためだ」
老伯爵は、ふむ、と言って杯を傾けた。
「うちの領の東の村に、最近、羊毛の工房が越してきましてね。職人ごと、荷車四台で。ありがたいことです」
老伯爵は、ヴェスター伯爵だった。
その夜、公爵は、いつもより早く夜会を辞した。
帰りの馬車の中で、葡萄酒の味を思い出そうとして、思い出せなかった。
◇
一年後。
グランツ公爵ローデリックは、執務室で、ベルツの十年分の記録を広げていた。
税収は、クラリス時代の半分を割っていた。
税率は、彼女がいた頃より、高いままだった。
公爵は、数字に強い男だった。
だから、記録を三年分さかのぼったところで、分かってしまった。
彼女がいた頃、税率が高かったから、税収が多かったのではない。
水路を引いた年に、麦の収量が上がっていた。
共同倉庫ができた年に、冬の餓死者がゼロになり、翌春の働き手が減らなくなっていた。
市場の仕組みを変えた年に、隣領から商人が三軒来ていた。その翌年には、七軒。
薬草の栽培を始めた年に、卸商がひとつ店を開いた。
街道に宿を建てさせた年に、荷車の通行量が倍になっていた。
税を払っていたのは、ベルツの民だった。
けれど、その税が生まれる畑も、店も、道も、あの女が一つずつ増やしていたのだ。
公爵は、椅子の背にもたれた。
最後の増税を、一度だけ我慢しておけばよかった。
俸給を、もっと早くに上げておけばよかった。
監査など入れずに、もう少し宥めればよかった。
どれも、合理的な後悔だった。
取りすぎていた、とは、一度も思わなかった。
◇
その秋、王都で地方行政の会議が開かれた。
各地の領主や代官、王国の行政官が集まる、年に一度の会議だ。
グランツ公爵は、そこで、王国地方局の席に座っているクラリスを見つけた。
休憩の時間に、公爵は彼女を回廊に呼び止めた。
「戻れ」
「代官へ、ですか」
「そうだ」
「条件は?」
公爵は、用意してきた言葉を口にした。
「以前より、二割多く、領内へ残していい」
クラリスは、首を傾げた。
「以前より?」
「君の価値を、認めたのだ」
公爵は、本気でそう言っていた。
これが、彼にとっての最大の譲歩だった。
クラリスは、考えてから聞いた。
「今のベルツから、その税額を取れると思いますか?」
「君なら、取れる」
即答だった。
クラリスは、しばらく黙っていた。
「……そうですね」
公爵の目に、光が差した。
「だから、戻りません」
公爵が、眉を寄せた。
「なぜだ」
「また払えたら、来年はもっと取るでしょう?」
公爵は、答えなかった。
否定の言葉を探して、見つからなかった顔だった。
公爵は、それでも口を開いた。
「……二割では足りないのか。三割でもいい」
「閣下」
クラリスは、会議室の扉のほうを見た。
休憩の終わりを告げる鐘が、ちょうど鳴り始めていた。
「割合の話では、ないんです」
クラリスは礼をして、会議室へ戻っていった。
公爵は、回廊に残った。
割合の話ではない、と彼女は言った。
では、何の話だというのか。
公爵は、頭の中で数字を並べ直した。二割。三割。俸給の上乗せ。補佐官。休暇。
全部を足しても、彼女が首を縦に振る形にならなかった。
計算が合わないのは、久しぶりだった。
どこかの桁を間違えているのだろう、と公爵は思った。それがどの桁なのかは、最後まで分からなかった。
◇
クラリスの今の職場は、王国地方局の小さな出張所だった。
担当は、王領のはずれにある、ベルツよりさらに小さな谷の村々。
代官ではない。村の帳簿を見て、橋や水路の相談に乗り、予算の申請を手伝う。俸給は、ベルツの頃と同じくらい。休みは、週に一日。
翌年の春、谷の小さな木の橋が架け替えられた。
完成の日、村の年寄りが、新しい欄干を撫でながら言った。
「これ、今年の税金で作ったんですよね?」
「ええ」
年寄りは、しばらく欄干を見つめていた。
「税金って、戻ってくることあるんだ……」
「あります」
クラリスは答えた。
年寄りは、欄干を拳で二度叩いた。
折れないのを確かめてから、満足そうに頷いた。
「前の橋はね、三十年、欄干が一本足りなかったんですよ。申し入れても、財源がないって」
「財源は、ありました」
「どこに」
「ここに」
クラリスは、橋の板を靴の先で軽く踏んだ。
年寄りは、よく分からない顔をしていた。
渡り初めの子どもたちが、橋の真ん中で跳ねて、大人に怒られていた。
◇
同じ頃、グランツ公爵府。
公爵は、財務官のペーテルスを呼んだ。
「ベルツから、あといくら取れる?」
「現状ですと、これ以上は……」
「去年も、そう言っただろう」
「去年と今年は、違います」
公爵は、黙った。
どこかで聞いた言葉だった。
どこで聞いたのかは、思い出せなかった。
窓の外で、噴水が水を吐いていた。
公爵は、しばらくそれを眺めてから、口を開いた。
「……クラリスなら、どうした」
ペーテルスは、口ひげを指でなでて、少し考えた。
「たぶん、税を下げます」
「却下だ」
(了)




