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第1話 シンママ、睡眠薬を盛られる

化粧室で鏡を見る。


疲れた顔。


少しだけ口紅を塗り直す。


子持ちの三十四歳。


しかも、無職。


そんな自分に、この人は本当に興味を持ってくれているのだろうか。


美咲は小さく息を吐き、席へ戻る。


男が椅子を引く。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


「今日は会えてよかったです」


男が爽やかな笑顔を見せる。


「最後に乾杯して終わりにしましょう」


美咲の前にワイングラスが置かれていた。


さっきまで飲んでいたものだ。


美咲は半分ほど飲んだ。


「それでは、帰りましょうか」


はい、と返事をしようとする。


突然、


視界が傾いた。


「……あれ」


ぼやける。


急激に、頭の奥に、鉛を流し込まれたような重さが広がる。


まぶたが落ちてくる。


「大丈夫ですか?」


男が声を上げ、立ち上がる。


美咲は、テーブルに手をついて立ちあがろうとする。


力が入らない。


足が崩れる。


男が美咲に寄り添い、肩を抱く。


「飲み過ぎたみたいですね」


そんなに飲んでいない。


美咲はそう言おうとする。


が、声が出ない。


男の腕が腰に回る。


キモい。


美咲は、無意識に男の腕を払おうとする。


力がまったく入らない。


「大丈夫ですよ。送りますから」


頭の中で、警戒音が鳴る。


だが、身体が動かない。


男が美咲を立たせようとする。


その瞬間、


足から力が抜ける。


美咲の身体が男の腕の中から滑り落ち、完全に意識を失い、床に倒れる。


口から泡を吹く。


ガタン。


椅子が倒れる。


「お客様!」


店員があわてて駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか!」


「飲み過ぎたみたいで」


男が答える。


「救急車を呼びますか?」


店員が端末を取り出す。


男は一瞬、黙ったが、応える。


「お願いします。僕、ちょっとトイレに」


そう言って、


店の奥へ歩いていく。


男は、トイレには入らない。そのまま出口へ向かう。


支払いもせず、美咲を放置したまま、夜の街へ消えていく。


倒れる直前、美咲の脳裏に浮かんだのは、


娘だった。


――莉奈。


保育園に迎えに行かなきゃ。






翌日。


美咲は病院のベッドで、請求書を見つめていた。


28,640円。


数字だけが、やけにはっきり見えた。


医師によれば、体内から複数種類の睡眠導入成分が検出されたという。


かなりの量だったらしい。


少し処置が遅れていたら、危険な状態になっていた可能性もあったのだ。


ベッドの上で、マッチングアプリを開いた。


男のアカウントは、消えていた。


もちろん、一週間続いたメッセージも。


これは明らかに犯罪だ。


警察に通報した方がいい。


それは分かっていた。


だが、美咲には、取り調べに応じる気力が残っていなかった。


「ママ」


声がした。


顔を上げる。


七歳の娘の莉奈が、美咲の妹に手を引かれて病室へ入ってきた。


「大丈夫?」


美咲は頑張って笑顔を作った。


「大丈夫。もう退院できるから。一緒にお家に帰ろう」


莉奈が美咲の手を握る。


その小さな手を握り返しながら、


美咲は思った。


どうして、こんなことになったんだろう。


三か月前まで、少なくとも仕事はあった。


五年勤務している事務職。


入社時、事務員は十人。


領収書の処理。経費精算。仕訳。請求書管理。入金確認。月次資料の作成。


それが、AIの導入で、


十人が五人に。


五人が三人に。


そして最後は、美咲一人。


今年。


そして今年、その最後の一人さえ必要なくなる。


社長から会議室に呼ばれた。


「申し訳ない」社長はそう言った。


「美咲さんの仕事に落ち度があるわけじゃない」


それも分かっていた。


AIエージェントは間違えない。


二十四時間休まずに働く。


子どもが熱を出して早退することもない。


利用料は一か月二万八千円。


美咲の給与の十分の一以下。


しかも、美咲の五倍の仕事量をこなす。


勝てるはずがない。


それから三か月。


応募した会社は、二十七社。


面接まで進んだのは五社。


採用、ゼロ。


募集要項には、どこも似た言葉が並ぶ。


《AIを活用し、高い付加価値を提供できる人材》


高い付加価値。


その言葉を見るたび、「自分には価値がない」と言われている気がする。


そんなとき、友人に勧められた。


「仕事だけが人生じゃないよ」


「再婚だってあるじゃん」


最初は腹が立った。


男に養ってもらえ、と言われている気がしたからだ。


でも、銀行口座の残高が五十万円を切った頃、美咲はマッチングアプリを入れた。


結婚は逃げじゃないと、自分に言い聞かせながら。


そして、昨日。


一週間、誠実に、メッセージのやりとりをしていた男に睡眠薬を盛られた。


男が量を間違えたのは、不幸中の幸だと思った。


あの男にオモチャにされるぐらいなら、病院に運び込まれた方がましだからだ。





病院から帰ると、ポストには封筒が何通も。


健康保険料。


住民税。


電気料金。


家賃。


美咲はテーブルに並べた。


電卓を叩く。


預金残高。


194,320円。


今月中の支払い予定。


200,900円。


足りない。


六千五百八十円。


だが、


来月はもっと足りない。


隣では、莉奈が絵を描いている。


「ママ見て」


「あとでね」


「猫ちゃん描いた」


「うん」


「今、見て」


「あとでって言ってるでしょ!」


思わず、声が大きくなる。


莉奈は一瞬、驚き固まる。


そして、莉奈の目から涙がこぼれる。


美咲は、何も言えない。


数秒後。


莉奈が、描いたばかりの猫の絵を破る。


美咲は、胸が痛んだ。


「莉奈……」


声をかけようとしたが、言葉が出ない。


泣きたかった。


でも、泣いている場合ではなかった。


スマートフォンを開き、採用合否を確認する。


不採用の文字が飛び込んでくる。


求人サイトを開いて眺めていると、広告が表示された。


ピンク色の背景。


黒い文字。


《人生、何とかします》


《無料相談受付中》


《あなたの笑顔を取り戻します》


《NPO法人 愛の園》



美咲は眉をひそめた。


怪しい。


名前からして、怪し過ぎる。


スマートフォンを閉じた後、美咲は思った。


今は、怪しいとか、怪しくないとか、言っている場合ではないのでは、なかろうか。


お金がかからなくて、可能性があることは、全て試みてみるべきでは。





翌日。


美咲は、エレベーターもない古い雑居ビルの前に立っていた。


住所は合っている。


三階。


階段を上がる。


ドアには、手書きの紙。


《NPO法人 愛の園》


《Smile Comback!》


美咲は、文字を二度見した。


スペルが違う。


ドアの右側には、大きなポスター。


二人の女性と三人の男性が、ポーズを決めている。


女は、


黒いチャイナドレスの若い女と、

全身ピンクで身を包んでいる大柄の女。


男は、


青い水玉のパジャマに下駄を履いた男、

赤いタンクトップにショートパンツ姿の筋肉男と

細身のジャケットとパンツ姿の洒落た男だ。


五人ともに、見事にバラバラな服装で、まるで芸人の集団のようだ。


ポスターの真ん中には、大きく《愛の園》のロゴが、

ロゴの下には、《Smile Againー愛あげます》。


もしかしたら、このおかしな五人が、このNPO法人の相談員なのかもしれない。


怪しい。怪しすぎる。


やっぱり、帰ろう。


そう思った。


ドアから離れようとした、その時。中から怒鳴り声が飛んでくる。


「ピンク、俺のプリン食っただろう」


「ピンクって呼ばないでって、言っているでしょ」


「プリンの話してんだよ!」


「そんなに大事なら、名前書いておきな!」


「ふざけんなよ!食ったなら、買ってこいよ」


美咲は、恐る恐るドアを開ける。


ポスターで見た青い大きな水玉柄のパジャマを着た男が視界に飛びこんでくる。


裸足。


黒縁メガネ。


伸び放題の黒髪。


パジャマ男は床に置かれた四台のモニターの前であぐらをかいている。


パジャマなんて、まるで病院のようだ。


パジャマ男がドアの方を見る。


美咲と視線が合う。


パジャマ男は、立ち上がり、下駄を履き、髪の毛をかき上げながらドアに歩み寄ってきて、あける。


「相談?」


「え、あ、……はい」


パジャマ男は、美咲の顔を食い入るように、凝視してきた。


「金欠相談?」


「え?」


「そんな顔しているよ」


美咲は固まる。


「パジャオー!」


背後から全身ピンクの女性?が低い声で、パジャマ男の背中に視線を合わせ怒鳴る。


女性?は、奥のソファーに脚を組んで座っている。


ピンクのセットアップスーツ。


胸元が大きく開いたジャケット。


八十年代風の裾の広がったベルボトム。


肩まで伸びた髪もピンク。


この女性も、ポスターにいた人物だ。


「初対面の相談者に金ない顔とか言わない!」


パジャマ男が、美咲に訊く。


「金ないだろ?」


美咲は答えられない。


パジャマ男が言う。


「ほら正解じゃねぇか。俺の勘を舐めんな、ピンク」


全身ピンクの女?が言う。


「ピンクって呼ぶの、ホントやめてちょうだい。あんた、マジで無理」


パジャマ男がピンクの言葉を無視して、美咲に言う。


「おねえちゃん、まあ、とにかく、入りな、話聞くよ」


全身ピンクの女?も、ドアまで来て、美咲を見る。


「あら、いらっしゃい」


「ここに座って」


ソファーに誘導する。


「あ、ありがとうございます」


女性用のスーツ。低い声。がっしりとした体型。


美咲は、ピンクの女?が、女性なのか男性なのか判断できなかった。


美咲がソファーに腰を下ろすと、ピンクの女性?が、美咲の頭からつま先まで、舐め回すように眺める。


「ちょっと立って」


「え?」


「立つのよ」


言われるまま、美咲が立つ。


正面。


横。


後ろ。


ピンクの女性?は、美咲の周囲を一周する。


腰を見る。


胸元を見る。


脚を見る。


最後に、


顔を見る。


「もったいない」


「何がですか?」


「全部」


「全部?」


「あなた、素材は悪くないのに、服も、化粧も、髪も全然ダメ」


「え!、はあ……」


「ちょっと来て」


「え?」


返事をする前に、手を掴まれて強引に引かれる。


「あの、どこに行くのですか?」


「黙って」


そのまま、更衣室の札がかかった部屋へ連れて行かれた。


ドアが閉まる。


ピンクの女が、美咲を指差す。


「脱いで」


「は?」


「上だけでいいから」


「なんでですか!何するつもりですか?」


「万歳」


「え、なんで、ちょっと」


「万歳!」


勢いに押され、美咲は反射的に両手を上げる。


ピンクの女性?は、美咲のトレーナーの裾を掴むと、


スポンッ。


一気に引き抜いた。


美咲は、両手で胸を隠す。


「ちょっと待ってください!」


「時間がもったいないから、待たないわよ」


スチールのハンガーラックからサーモンピンクのニットを抜き出す。


「はい。これ着て」


「なぜですか?」


「いいから着る」


渡されたニットを、美咲は渋々頭からかぶった。


胸元は大きく開き、身体のラインがくっきり出る細身のタイトニット。


「ちょっとピチピチじゃないですか?」


「綺麗になりたければ、我慢しなさい」


ピンクの女が、美咲の腰回りを確認する。


「思った通り、ウエスト細いわねぇ。素敵」


次に胸元を見る。


「綺麗な胸ね。形も大きさもバッチリよ」


「一体、なんなんですか?」


「私、プロのスタイリストよ。あんた私に、無料でスタイリングしてもらえるなんてラッキーだと思いなさい。今日は着席なので、上半身だけでいいけど、立ちのときには、そのスカートじゃダメよ」


「あ、はい」


バッグからブラシを出す。


「後ろ向いて」


今度は、美咲の髪を手早く梳かし始めた。


髪を後ろで一つにまとめる。


顔の横に少しだけ後れ毛を残す。


続いて、大きなメイクポーチを開く。


「口紅、この色がダメね」


「ダメなんですか?」


「顔色が死んでる」


「昨日入院してたので」


「そういう話をしているんじゃないの。肌の色とのバランス」


美咲は思わず吹き出した。


「笑顔、結構いけてるじゃない。かわいいわよ。笑っている方がいい」


美咲の唇に薄く色を足した。


最後に、


手鏡を渡す。


「はい」


美咲が鏡を見る。


思わず、見直してしまった。


まるで別人。驚くほどの変化。


身体のラインも綺麗に出ている。


二十代に見えるかもしれない。


こんなに楽しい気持ちになるのは、ずいぶん久しぶりだ。


「……なんか、本当に、ありがとうございます」


「人生は戦いなのよ。いつチャンスが巡ってくるかわらないのよ。女はね、常に自分を最高の状態にして臨戦体制にしておかないとダメよ」


ピンクの女性?は、化粧室のドアを開ける。


「ほら、パジャマしか着ない男がいるソファーに戻るわよ。言い忘れたけど、私は『澪』、あいつは『パジャオ』よ」


「パジャマしか着ないって、もしかして病気ですか?」


「言葉の通りよ。寝る時も、外出するときも、いつも、パジャマなのよ。そういう意味では病気ね。パジャオの辞書にファッションという文字は存在してないみたい」


「え!、なぜ着替えないのですか?」


「知らないわよ。ただ単に着替えるのが面倒なだけじゃない」


「あ、そうなんですか」


部屋の中からパジャオの声が飛んできた。


「ピンク! まだー?俺、腹減ってきちゃったよ」


表情が変わった。


「ピンクって呼ばないで言っているでしょ」


「絶対許さないからね」


「あとで殺す!」


美咲は、思わずおかしくなって、笑う。


二人で部屋へ戻ると、パジャオはカップラーメンの真っ最中。


美咲がパジャオの正面に座る。


パジャオが、麺をすすりながら、ちらちらと美咲を見る。


「おー、ヤバイじゃん。かわいい。ラーメン食い終わったら二人でプリン食べに行かない?」


「え?、あの、相談に来たんですけど」


パジャオは、美咲の言葉を無視して続ける。


「このビルの向かいに、昔ながらのプリンが食えるカフェがあるんだよ。プリンに乗っている生クリームがマジでうまいよ。絶対病みつきになるから」


「お誘いありがとうございます。でも、今日は、プリンよりもご相談をさせてください」


ピンクが話す。


「ごめんなさいね。このパジャマ野郎、頭の中も水玉なのよ。こいつの誘いは、ガン無視で、大丈夫だから」


「こいつ、本名は、『太郎』って言うんだ。相談員として虚偽はダメなので、知らせておくよ」


「個人情報を許可なく漏らさないでちょうだい。必要な時に、私からちゃんと話すから」


「俺は、ピンクって呼んでるけど、太郎でも大丈夫だから。呼びやすい方で」


「パジャマ男の話は、適当に流してくれて大丈夫だから。差し障りのない範囲でいいので悩みを聞かせてちょうだい」


美咲は、かわいくしてもらって、気分は上がったが、この二人が今抱えている悩みを解決してくれるとは到底思えなかった。


ここにいても、時間の無駄かもしれないと思ったが、このまま帰っても、何も解決しない事はわかっていた。





美咲は、話し始めた。


仕事を失ったこと。


再就職できないこと。


結婚も選択肢だと思い、マッチングアプリを始めたこと。


睡眠薬を盛られたこと。


救急搬送されたこと。


治療費。


貯金。


娘のこと。


パジャオが言う。


「それで、今月いくら足りないの?」


「えっと…」


「嘘はダメだよ」


「え、はい。実は、今月は、六千円くらい足りないです。でも、その先が……」


ピンクが時計を見る。


「今日は何時までここにいられる?」


「娘の迎えがあるので、遅くとも五時には」


「今一時だから、四時間ね」


ピンクが、隣に座っているパジャオの前に、手のひらを差し出す。


「この子、あんたの好きなタイプに仕上げたのよ」


「流石プロのスタイリスト。かわいくなった。バッチリだよ。ご苦労さん」


「ところで、この手は何?」


「一時間一万円だから、四時間で四万円よ」


「何の話だ?」


「あんたね、こんなかわいい女性と、ただで話せると思っているの?」


ピンクが続ける。


「銀座のクラブと比べたら格安よ。ケチケチしないで、さっさと払いなさいよ」


パジャオは苦笑しながら、ポケットから、しわくちゃのお札を出す。


テーブルの上に、丸まったお札が並ぶ。


ピンクが一枚、一枚、ひろげて伸ばす。


丁寧に茶封筒に入れ、美咲の前に置く。


「はい」


「え、なんですか、これ?」


「今日のギャラよ」


美咲は立ち上がった。


「受け取れません!」


ピンクが茶封筒を美咲の胸元へ押しつける。


「この変なパジャマ男と今から四時間も付き合うのよ。プライド捨てなさい。あんた、子供もいるんでしょ。どうやって月末超えるつもりなの?」


美咲は、しばらく黙った。


やがて、茶封筒を握り締めながら言う。


「……ありがとうございます」


「お礼なんて、いらないわよ。こいつ、毎月三億も稼いでいるんだから」


美咲は驚いて訊く。


「え!、三億円ですか。どんなお仕事をされているのですか?」


パジャオが、床に置かれているパソコンを指差す。


「あいつで、株式トレードやってる」


「そうなんですか、それじゃお仕事の邪魔をしてしまってすいません」


「四人のAIエージェントが勝手に議論して、勝手に売買していて、俺は何もやってないから大丈夫」


「え!、それじゃあ、何もしなくて、毎月三億円も稼いでいるのですか?」


「ああ。俺よりも、AIの方が優秀だからね」


ピンクが、話を遮るように、手を叩く。


「はい。はい。パジャオのポジショントークはおしまい。まだ解決してない問題をやっつけちゃいましょう」


ピンクが、人差し指を立てる。


「最大の課題は、制約があるシンママが、どうやって生活費を稼ぐかよね」


「はい。そのとおりです」


美咲は素直に頷いた。


「再婚という方法が、一番良さそうって思ってます……」


パジャオが、カップラーメンの汁を飲みながら顔を上げる。


「そんなことあるかい」


「え?」


パジャオは、汁を飲み干してカップを置いて言う。


「男探すのやめて、金稼ぎな」


「そんな簡単に言われても……」


「男に生活費出してもらう必要なくなったら、気持ちだけで好きな男を選べる」


美咲は黙った。


ピンクが、パジャオを見る。


「珍しく、まともなこと言うじゃない」


「俺は、本質を見る目があるんだよ」


「あら、まあ、また始まった」


ピンクは美咲を見る。


「恋愛と生活費をくっつけると、ろくなことにならないわ」


美咲は、昨日の男を思い出した。


「……はい」


パジャオが空になったカップを名残惜しそうに覗きながら話す。


「よし。男の話はおしまい」


「稼ぐ話をしよう」


ピンクが言う。


「もう出てるんでしょ?結論。もったいぶらないで教えてあげなさいよ」


「事務は絶対ダメ」


パジャオは即答した。


「AIが一番得意な領域だから」


「はい。私も痛感しました」


「就活も、やめた方がいい」


「どうしてですか?」


「子どもはナマモノなので、仕事を優先するという選択肢はないから」


美咲が少し笑う。


「確かに」


「保育園のお迎えもある。急な休みもあるので、オフィスに拘束される仕事は相性悪いですね」


パジャオは、ジロジロと美咲を見る。


顔。


服。


手。


もう一度、顔。


美咲が両手で胸を隠す。


「……なんですか?」


「営業は?」


「え?」


「営業やれば?」


「営業?」


「そう」


「やったことありません」


「だから?」


「だからって……」


パジャオは首をかしげる。


「商品説明などはやらなくていい営業なら、経験は不要かと」


「え、商品の説明をしないで売るんですか?」


「しないわけじゃないよ。AIにやらせる」


パジャオはテーブルの下からタブレットを取り出した。


「四つのAIを作ってコイツの中に入れる」


「商品のことを全部覚えさせるためのAIエージェント」


「顧客の会社を調べるAIエージェント」


「課題解決の提案をするAIエージェント」


「契約できそうな見積書や契約書を作成するAIエージェント」


美咲が言う。


「そんなの作れるんですね。すごいです。AIだけで営業が完結できそうですが、私は何をすればいいのですか?」


パジャオは、ニコリと笑って言う。


「人間やって」


「……人間?」


ピンクが吹き出す。


「この世で誰もわからない説明ね」


美咲が首をかしげる。


「具体的には、何をするんですか?」


「客の本音を聞く」


「本音?」


「人間って、自分が何に困ってるのか、自分でも分かってないこと多いから」


「そうなんですか?」


「確認してみる?」


「え?」


パジャオが、突然テーブルの下に手を突っ込んだ。


「?」


次の瞬間。


黒いシルクハット姿。


青い水玉のパジャマに、黒いシルクハット。なんとも、不思議な格好だ。


美咲には、何が始まるのか検討もつかない。


パジャオは、どこからかノートとペンを取り出す。


「ジャーン!」


ピンクが呆れて顔をしかめる。


「出た。出た」


「私は今から、美咲ちゃん本人も気づいていない深層心理を暴きます」


「急に何なんですか」


「大魔術」


「ただの心理テストでしょ」


「黙れ、ピンク。今いいところだから」


パジャオは、ノートを一枚破って美咲に渡した。


「お嬢さん。この魔法の紙に、欲しいもの、やりたいことを十六個書いてください」


「十六個も?」


「でっかい夢でも、小さい欲望でも何でもいい」


「例えば?」


「家欲しい。金欲しい。旅行したい。プリン食べたい。昼まで寝たい」


ピンクが吹き出す。


美咲も笑いながら、ペンを持った。


しばらくして。


「……十六個、書けました」


「よし」


パジャオが、シルクハットのつばを指でつまんだ。


「次。その十六個を、似ているもの同士でくっつけて八個にする」


「くっつける?」


「例えば『家が欲しい』と『お金が欲しい』なら――」


少し考えて、


「『家が買えるくらい金が欲しい』」


「説明が雑ね」


「分かりやすいだろ」


美咲は紙を見ながら、項目をまとめていく。


「……八個になりました」


パジャオが、もったいぶって片手を上げる。


「では最後の魔法です」


「まだあるんですか」


「八個を、四個にしてください」


「また半分?」


「そう」


美咲は、少し時間をかけて書き直した。


やがて、


紙に残ったのは、四つの言葉。


美咲の表情が変わる。


しばらく、黙って紙を見つめる。


「……あ」


パジャオが、にやりと笑う。


「出た?一つだけでいいので教えて」


美咲は、紙から目を離せない。


四つのうちの一つを、小さな声で読みあげる。


「猫が飼える家で、お金のことを心配せずに、莉奈と一緒に猫の絵を描きたい……」


言葉にした瞬間、美咲の瞳にうっすらと涙が溢れる。


昨日、莉奈が泣きながら破った猫の絵が頭に浮かんだのだ。


美咲は、紙を握った。


「私……」


ピンクは、美咲の手元を覗こうとはしない。


「自分でも気づいてないものって、あるのよ」


パジャオが両手を広げる。


「ジャジャーン!」


「それ、魔法じゃないでしょ」


「魔法です」


「違います」


「ありがとうございました」


涙をぬぐいながら美咲が言う。


パジャオは満足げにシルクハットを脱ぎ、深々とお辞儀する。


「大魔術師パジャオでした」


ピンクが拍手を二回だけした。


パン。パン。


「はい、おしまい」


「拍手が雑!」


ピンクが前のめりになって言う。


「あんたは、営業向いていると思う」


「でも、私、人の話を聞くのが上手いかどうか……」


パジャオが即答した。


「上手いと思う」


「どうして分かるんですか?」


「俺がこんだけ喋ってる」


「パジャオは誰にでも喋るでしょ」


「それはそう」


「おい」


ピンクが笑って、美咲を見る。


「でも、この子は話を途中で切らないし、否定もしない。だから、つい続きを話したくなるのよ」


パジャオが頷く。


「しかも弱そう」


「弱いのは、短所じゃないんですか?」


「弱い人は、怖くない。偉そうじゃない。警戒されにくい。応援したくなる。守りたくなる」


美咲は、少しだけ納得したように頷いた。


「だから、本音を話してもらいやすい?」


「そういうこと」


パジャオはタブレットを片手に話す。


「美咲ちゃんは一人で営業するんじゃない」


「え?」


「こいつと二人三脚」


「タブレットですか?」


「タブレット出してAIも打ち合わせに参加させる」


「つまり、三人で商談する感じですか?」


「そうそう」


パジャオが笑う。


「客、美咲ちゃん、AI。三人チーム」


「美咲ちゃんが客と話す。相手が何に困ってるか聞く」


「はい」


「お客さんの質問は、その場でAIが答える」


美咲が目を丸くする。


「お客さんとAIが直接ですか?」


「そう。商品について聞きたいならAIに聞けばいい。数字の話も、比較も、提案も、AIの方が俺らより速い」


「じゃあ、私は何をすればいいのですか?」


パジャオが美咲を見る。


「人間やって」


「またそれ」


ピンクが笑う。


パジャオは続ける。


「相手の顔見て話す。空気読む。言いにくそうなことを拾う。困ってたら聞く」


「それが私の役割?」


「そう」


パジャオは指を二本立てる。


「美咲ちゃんが広く浅くを担当するジェネラリスト」


一本。


「AIは深く詳しくを担当するスペシャリスト」


二本。


ピンクが言う。


「AIにはできない美咲ちゃんにしかできないことがある」


「何ですか?」


「この人になら話してもいい、って思ってもらうこと」


美咲が頷く。


「私が本音を聞いて、AIが一緒に考える」


「そう」


パジャオが続ける。


「美咲ちゃんには、聞き出す武器もある」


「武器?」


「若い。かわいい。弱そう。聞き上手」


美咲が眉をひそめる。


「弱そうが、やたら重要なんですね」


ピンクが笑う。


「性別とか年齢だけの話じゃないのよ。ようするに、この人とまた会いたい、この人なら話したい、そう思われる人になるってことよ」


パジャオが言う。


「似たような商品なんて、腐るほどあるので、今は何を買うかよりも、誰から買うかの方が大切な時代だよ。」


「はい」


美咲が少し考える。


「私が、その『誰か』になればいい?」


パジャオが頷く。


「そういうこと」


「それで最後は?」


パジャオが肩をすくめる。


「三人で決めればいいじゃん」


「三人で?」


「営業って、別に一人で全部やる必要ないだろ」


パジャオは当然のように言った。


「AIと二人三脚でやればいい」


美咲は、少しだけ笑った。


「AIに勝つんじゃなくて、一緒にやるんですね」


「そう。勝てない相手と勝負するより、組んだ方が得だろ」


パジャオが言う。


「もう一つ、大事な話がある」


「なんですか?」


「就活はやめな」


「え?」


「業務委託にしな」


「業務委託?」


「最初は完全成功報酬」


「固定給は、ないんですか?」


「ない」


美咲の顔が曇る。


「それだと、収入が不安定ですよね」


「最初はそれでいい」


「どうしてですか?」


「企業からしたら、契約取れなきゃ払う金ゼロ。美咲ちゃんからしたら、実績ゼロでも営業させてもらえる」


美咲が少し考える。


「なるほど……」


「一件取ったら?」


「次は条件上げる」


「そんなにうまくいきますか?」


パジャオは肩をすくめる。


「知らない。だからやってみる」


「不安です」


「そりゃ、やる前はみんな不安だよ」


パジャオは、タブレットを指で叩く。


「もし、俺たちの提案の方向で挑戦してみるということなら、こいつにAI入れてやるよ」


「ありがとうございます。でも、どうして、そこまでしてくれるんですか?」


パジャオは空のカップラーメンの容器を持ち上げた。


「暇だから」


ピンクが言う。


「嘘つき。こいつはただのスケベだから注意してね」


「美咲ちゃん、俺に抱かれたくなったら、遠慮しないでいつでも連絡して、俺の愛をあげるから」


バシッ。


「痛え!」


美咲は、思わず笑った。


パジャオが言う。


「とにかく、一件落着。プリン行こう!」


「あら、私も少し小腹が減ってきたから、付き合ってあげる」


「ピンク、オマエは誘ってねぇよ」


「ダメよ。美咲さんを、パジャオと二人っきりにするのは、危険過ぎるからね」


「俺は紳士だから、薬なんて盛らない」


「はいはい。言わせておきましょう」


その後、美咲は帰り、パジャオはピンクと二人で、向かいのカフェに行き生クリームが乗ったプリンを食べる。


「なんで、こうなるんだ。んー。どこで計画が狂ったんだ」

パジャオは、プリンをほうばりながら、独り言を呟く。




一週間後、


「じゃーん!お待たせしました」


パジャオが、クリスマスプレゼントのように、バラの花束とリボンがついた真っ赤な箱を渡す。

美咲は、リボンをほどき箱を開く。


中にあるのは、商品説明用のローカルAIを組み込んだタブレット。そして、都内の高級ホテルのルームキー。


美咲は、丁寧にお礼を言い、笑顔でルームキーだけ取り出して、パジャオに返した。


「やっぱ、ダメか。ピンクとは泊まりたくないしな…また一人で泊まるか」




二か月後。


NPO法人「愛の園」。


ドアが開く。


「こんにちは」


美咲だ。


その後ろに、莉奈もいる。


「営業代行の契約企業が二社になりました」


「おお」


「今月の報酬、三十八万円です」


拍手する。


「ブラボー!」


パジャオが、壁の一角を指差した。


そこには、少し曲がって貼られた一枚の評価表がある。


《笑えるようになったか?》

《ありがとうと思えたか?》


その下には、それぞれ五つの空欄。


テーブルの上には、スマイルとハートのスタンプが並んでいた。


「じゃ、評価お願い」


パジャオが言うと、


莉奈が真っ先にテーブルへ駆け寄った。


「私がペタンとしたい!」


小さな手でスマイルのスタンプを握る。


「じゃ、莉奈にお願いしようかな」


ピンクが評価表を押さえる。


莉奈は舌を少し出しながら、狙いを定める。


ペタン。


一個。


少しずらして、

ペタン。


二個。


三個。


四個。


最後の一つだけ、少し力を込める。

ペタン!


五個。


五つのスマイルが横一列に並んだ。


莉奈は満足そうに眺めてから、美咲を見上げる。


「ママ、最近いっぱい笑うから五個」


美咲が娘を見る。


一瞬、言葉が出なかった。


数日前。


莉奈が描いた猫の絵を、自分の一言で破らせてしまった。


その時の光景が、ふっと頭をよぎる。


けれど今、莉奈は笑っている。


美咲も笑った。


「ありがとう」


莉奈が、今度はハートのスタンプを差し出す。


「こっちはママが押すね」


「うん!」


美咲がハートのスタンプを握る。


評価表を見つめる。


ペタン。


一個。


続けて、

ペタン。


二個。


三個。


四個。


最後の五個目。


美咲は、パジャオとピンクを見る。


この二人と出会った日のことを思い出す。


パジャマ。


プリン。


四万円。


シルクハット。


思わず笑みがこぼれる。


ペタン。


五個。


五つのハートが並んだ。


ピンクが胸の前で手を合わせる。


「五点満点いただきました。ありがとうございました」


パジャオが得意そうに胸を張る。


「当然だな」


「なんであんたが偉そうなのよ」


「俺の才能」


「はいはい」


美咲が笑う。


莉奈も笑った。

こうして、美咲たちとの時間は、賑やかな笑い声の中で幕を閉じた。


愛の園は、また一人、笑顔を取り戻した。




パジャオとピンクは、美咲たちを見送るため、部屋の外へ出た。


古い雑居ビルの踊り場。


蛍光灯が、ジジッ、と小さく鳴っている。


「ありがとうございました!」


美咲が階段の途中で振り返る。


莉奈も手を振る。


「バイバーイ!」


ピンクが大きく手を振り返した。


「また遊びに来てね!」


パジャオも手を上げる。


「今度プリン食おうな!」


「食べるー!」


莉奈の声が、階段の下へ遠ざかっていく。


やがて、


足音も聞こえなくなった。


ピンクが小さく息を吐く。


「よかったわね」


「ああ」


珍しく、パジャオも素直に答えた。


二人はしばらく、誰もいなくなった階段を眺めていた。


それから、部屋へ戻ろうと振り返る。


二人の動きが止まった。


そこに、男が立っていた。


いつからいたのか分からない。


三十五歳くらいだろうか。


筋肉質の、大きな身体。


着ているシャツは泥で汚れ、


ところどころ黒ずんでいる。


髪は濡れたように額へ張りつき、


無精ひげも伸びていた。


そして、


片方の足には靴がない。


裸足の足裏は真っ黒だった。


右手には、スーパーの白いビニール袋。


中に何が入っているのか、袋の底が重そうに垂れ下がっている。


男は、二人を見ていた。


肩が、小刻みに震えている。


「ここ……」


かすれた声。


喉が乾いているのか、一度、唾を飲み込む。


「どんな相談でも……」


男はスーパーの袋を強く握り締めた。


ビニールが、クシャッ、と鳴る。


「聞いていただけるのですか?」


パジャオが男を見る。


いつもの調子で答えた。


「まかせろ」


男は一度、目を伏せた。


数秒の沈黙。蛍光灯の、ジジッ、という音だけが響く。


そして、顔を上げた。


「母を殺すのを手伝ってください」


ピンクの表情が固まった。


さっきまでの笑顔が消える。


パジャオは間髪入れずに応える。


「どんなやり方で殺したいの?」


バシッ!


ピンクが、パジャオの後頭部に平手を炸裂させて、耳元で囁く。


「そこじゃないでしょ!」


「痛え!」


「まず止めなさいよ!」


パジャオは後頭部を押さえながら、もう一度、男を見る。


追い詰められているような目で立っている。


パジャオが能天気な調子で言う。


「でもこいつ止めてほしいって言ってねえぞ」


ピンクが男を見る。


男の手は、まだスーパーの袋を強く握っている。


指先が白くなるほどに。


ピンクの顔から、完全に笑みが消えた。


「……とりあえず入ってちょうだい」


声の調子が変わる。


「コーヒー入れてあげるから。落ち着いて話しましょう」


男は、小さく頷き、部屋へ入る。


スーパーの袋を抱えながら、ソファに、ゆっくり腰を下ろした。

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