東の廓は、抜けましたか
2024年12月24日。夜7時半頃の話。
週末から冬型の気圧配置が強まり、北日本や北陸では昨夜から雪が断続的に降り続いていた。金沢でも、一晩で三十センチ以上積もったらしい。ニュースを見たとき、僕はため息をついた。
車で会社に行けば、どこかでスタックするかもしれない。
歩こう。しょうがない。自宅から会社まで、一時間半。
長靴に防寒着、手袋、毛糸の帽子。胸には懐中電灯。一応の傘と、背中にはリュック。完全装備で、僕は朝の雪道を歩いた。会社に着いた時には、もうひと仕事終えたような疲労だった。
帰りはさらにきつかった。
雪は昼の間も止まず、歩道の雪は膝下まで積もっていた。
東山の交差点に着いた頃には、足が重くて仕方なかった。
東山の通りは、観光写真によく使われる場所だ。木の格子の町家が並び、普段なら観光客が肩をぶつけながら歩いている。
でもその夜は違った。
誰もいない。
店の灯りも、表札の明かりも、街灯も、ぽつり、ぽつりと点いているだけ。雪だけが静かに降っていた。
その時だった。
通りの先に、人影が見えた。
よくあるレンタル着物を着た、大学生くらいの女の子。
ただ、様子がおかしい。
少し歩いては、戻る。また歩いて、止まる。
何かを探しているようだった。
僕は少し近づいた。
周りには誰もいない。
「何か落としたんけ?」
自分でも、中年の自覚はある。不審者に見えない言い方くらいは心得ている。
女の子は、困った顔でこちらを見た。
雪は膝下まで積もっている。
「こんな雪じゃ、見つからんし。どうしても大事なもんなら、明るくなってから探しに来まっし」
僕は言った。
「寒くなってきたし」
女の子は、首を小さく振った。
探しものじゃないらしい。
迷子か。
「バス停までついてったげようか?」
正直に言えば、ちょっと面倒だった。バス停は僕の帰り道とは逆方向だ。バス停の前には交番があるから、そこまで連れていけば安心だけど。
女の子は僕の顔を見て言った。
「・・・どちらへ行かれるんですか」
「東の茶屋街抜けて、天神橋まで」
僕は答える。
「僕はその先まで行くけど、天神橋まで行けば、大通り出るし。そこから曲がってまっすぐ行けば、城とか兼六園の方やね」
「お願いします」
女の子は、少しだけ安心した顔をした。
僕たちは並んで歩き出した。
雪は静かに降り続いていた。
僕の長靴はぎゅっぎゅっと音を立てる。
「一人で来たの?」
女の子は曖昧に頷いた。
まあ、警戒するわな。
僕はなるべく普通の観光話をした。
「どこ回ってきたっけ? 雪積もっとるし、遠くは行けんかったやろうけど」
「近江町市場とか行った?」
女の子は小さく頷く。
「美味しいもん食べれた?」
少し間があって、
「・・・はい」
「今の時期なら金沢おでんやね。クルマ麩に、蟹とかも美味しいし」
僕は続けた。
「酒吞むなら『こんか鰯』もおすすめやけど。好き嫌いは分かれるわ。糠つけたまんま焼いて食べると、酒のつまみにいいげんぞ」
女の子は、小さく笑った気がした。
やがて、天神橋の袂に着いた。
その時、女の子が言った。
「東の廓は、抜けましたか?」
廓?まあ、昔は茶屋街だった場所だ。
「ほやね」
そう答えると、女の子は少し驚いた顔をした。
「今は、出られるんですね」
「え?」
僕が聞き返すと、女の子は首を振った。
「いえ・・・」
女の子は、ぽつりと言う。
少し歩いて橋を渡る。
「どこに行くがんけ?」
僕が聞くと、女の子は言った。
「お城へ」
「ほんなら、この道曲がってまっすぐ行けば大通りや。そこ曲がらんと、まだまっすぐ行ったら大手門」
僕は説明した。
「兼六園行きたいなら・・・」
「それで大丈夫です」
女の子は言った。
「ありがとうございました」
ゆっくりお辞儀をする。
「大丈夫け? 宿泊先ついたら、あったかいもんでも食べて、温くして寝まっし。体、冷えとるやろ」
女の子はもう一度、深く頭を下げた。
僕たちは橋を渡り切った所で別れた。
自宅はまだ先だ。
数歩歩いたとき、僕は足を止めた。
・・・やっぱり。大通りまで送るべきだったかもしれない。
こんな雪の日だ。道を聞くにも人もいない。さっきから車も走っていない。
僕は振り返った。
女の子が歩いていった道を見る。
・・・いない?
僕は慌てて戻った。
一本道だ。
曲がり角もない。幾ら曲がりまっすぐの道で、暗いとはいえ、まだ見えているはずだ。いない。
懐中電灯で照らす。
それでも。
いない。
雪の上にも、足跡がない。
その時、気づいた。
あの女の子。
着物。薄くなかったか? レンタルとはいえ、この雪の中で、あんなに薄い着物。それによく思い出せば、帯の結びが何か違った気がする。
傘も持っていなかった。
雪は、ずっと降っていた。
その時、橋の袂の雪の上に、赤い紐のついた小さな鈴が落ちているのに気づいた。
さっきまで、あんなものはなかったはずだった。
・・・僕は。
何と歩いてきたんだろう。
東の廓から。
僕は。
何を出してしまったんだろう。その事を今でも時々考える。
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