第1話 更紗~無垢な龍神の生贄の少女~
「今年の龍神様への供物はお前だ、更紗」
村長・晏竜 燵人の宣告に、更紗は視界が砂嵐に飲み込まれたように真っ暗になった。
龍神の供物になった者は二度と帰ってこない。村を救うための尊い犠牲───そんな美名で飾られているが、実態はただの口減らしだ。かつて供物となった娘たちの恋人は、皆一様に、絶望して早々に村を去っていく。今や村には、活気のある若者の姿など数えるほどしか残っていない。
助けを求めるように、更紗は恋人の秀人に縋るような視線を向けた。しかし、次期村長である彼は、ばつの悪そうな顔で不自然に視線を逸らしただけだった。
(秀人は、生贄のしきたりに異論すら言わない。私を連れて逃げる覚悟も……ないんだ)
「…………………わかり、ました」
一度決まった決定は覆らない。更紗は血が滲むほどに唇を噛み締め、抗う術のない運命を受け入れるしかなかった。その日から、更紗を囲む世界は歪に一変した。腫れ物に触れるような、気味の悪い優しさを見せる村人たち。更紗は、自分が数日後に死ぬための家畜として「丁寧に」扱われているのだと悟り、絶望を深めていった。
そして三日後。
「ほら、さっさとしろ! 龍神様をお待たせするな!」
背中を乱暴に押され、更紗は蹌踉けながら険しい山道を踏みしめた。目指すは霊峰・龍谷山。
昨日まで「可哀想に」と菓子をくれた小父さんは、今や更紗を追い立てる家畜追いのような目で見ている。村を出るまで笑顔を張り付けていた小母さんたちも、境界を一歩出れば、「二度と戻ってくるんじゃないよ、不吉な!」と唾を吐き捨てて背を向けた。
「ここからはひとりで行け!」
洞窟の入り口で、思い切り背中を突き飛ばされた。
「あっ……」
「逃げ出そうなんて考えるんじゃねぇぞ、ここで見張ってるからな!」
殺意すらこもった形相で見下ろす村人の視線を背に、更紗は暗闇の中へと足を進めた。冷たく湿った壁を、震える手で伝いながら進む。やがて、洞窟の奥に不思議な光が差し込む開けた空間が現れた。
「いないじゃん、龍神様なんて。何でこんなことに……っ、ひぐっ……」
信じていた友人たちの冷淡な無視。長老たちの偽善的な親切。そして、最後の最後に投げつけられた罵声。更紗は声を上げて泣き続け、やがて魂が削れるような疲労に飲み込まれ、泥のように眠りに落ちた。
「おい、お~い……。こんなところで死ぬ気か?」
耳元で響く、低く落ち着いた声。顔を上げた更紗の目に飛び込んできたのは、月光を反射して漆黒に輝く、巨大な鱗を纏った龍の姿だった。
「龍神、様……」
「俺の名前は馨尚。姓を持たぬ、ただの龍だ。……昔、ある人間に『逆鱗』を奪われ、ついでに一族の姓まで剥奪された、惨めな龍族だよ」
馨尚は自嘲気味に呟くと、興味を失ったように目を閉じようとした。更紗は必死に縋り付いた。「私を生贄にしてください」と。しかし、馨尚から返ってきたのは衝撃の事実だった。
「生贄だと? 笑わせるな。俺は一度も人間を喰らったことなどないぞ。……あぁ、そうか。たまにここを通る『番』の男女ならいたな。男が裏の横穴から迎えに来て、二人で嬉しそうに消えていったぞ」
その言葉は、更紗の心を氷漬けにした。生贄になった娘も、その恋人も帰ってこないのは、二人で結託して村を捨て、外で幸せに暮らしているから。村の暗黙の了解。そして今回の「供物」に更紗が選ばれたのは───。
(秀人は……私を迎えに来る気なんてなかった。私を殺して、自分だけ村に残るために……!)
糸が切れた人形のように更紗が崩れ落ちると、不意に温かい手がその頭を撫でた。驚いて顔を上げると、そこには漆黒の瞳と髪を持つ、黒装束の青年が立っていた。
「俺の名は馨尚。お前の名は?」
「更紗……です」
「更紗か。……いい名だ」
彼が初めて見せた穏やかな微笑みに、更紗の胸がドクンと跳ねた。
「更紗。その恩着せがましい村長の名前は何と言う?」
「晏竜燵人様、ですが……」
「何だと?」
馨尚の纏う雰囲気が、肌を切り裂くような氷の刃へと変わる。
「あのクソ野郎の血筋か……! 俺から逆鱗を奪ってこの地に縛り付けた挙げ句、不要になった娘を『生贄』と称して捨てに来るとは……万死に値する」
凄まじい殺気に当てられ、更紗が倒れる。
「しまった!」
龍族が発する殺気は人族の息を止め、下手をすれば息の根すら止めてしまう。馨尚は慌てて気を抑え、更紗を抱きとめる。その時、彼女の体から漏れ出す「光」に気がついた。
「彼の者の真の姿を示せ」
更紗の体が眩い光に包まれる。
「嘘だろう……? 光龍……だと?」
そこに横たわっていたのは、現世の龍族ですら伝説と崇める、最も高貴な存在の姿だった。馨尚は姿見の術を解除し、更紗に微弱な雷を落とす。
「ぴえっ!」
意識を取り戻した更紗は、馨尚から自分の正体を聞かされることなく、共闘を誓う。先の恋人達の話を聞き、村も村人も見限ることにしたのだ。
「龍神様、私、見たことがあるんです。村長の隠し部屋に、黒く光る『何か』を。あれが、貴方の鱗だったんですね」
「……やはり、あの家系が隠し持っていたか。更紗、俺は逆鱗を取り戻し、この土地を去る。お前も……一緒に来るか?」
「はい。喜んで」
馨尚の「夜隠しの術」に守られ、二人は村へと舞い戻った。更紗はかつて秀人に自慢げに見せられた隠し部屋へ忍び込み、漆黒の逆鱗を奪還する。
(これで、馨尚様は自由になれる……!)
逆鱗を握りしめ、二人は村の境界へと急ぐ。しかし、あと数歩というところで。
「そこまでだ、盗人め」
鋭い風を切り、更紗の足元に矢が突き刺さった。術が解け、月光の下に姿を現したのは、弓を構えた秀人と、村長・燵人だった。
「更紗!? 何でお前がここにいる! 逃げ出したのか!」
「恩知らずな女め! 龍神様の怒りに触れたら村はどうなると思っている!」
「更紗を責めるな。彼女を解放したのは私だ」
馨尚が姿を現し、逆鱗を自らの喉元へと埋め込む。彼が真の力を取り戻した瞬間、地面が震えた。燵人が顔を真っ青にして震え出した。
「逆鱗は返してもらった。行くぞ、更紗」
「行かせるか! 秀人、その女を捕らえろ! 人質にすれば龍も動けん!」
焚き付けられた秀人が、勝ち目がないと悟り、標的を更紗に変えて飛びかかる。
「人質になってもらうぞ、更紗ぁ!」
その瞬間、更紗の体から白銀の光が溢れ出した。
『人質などと、浅ましい真似を……』
更紗の口から漏れたのは、空気を震わせるほどに重厚で、峻厳な威厳に満ちた声だった。見えない鎖が秀人を縛り上げ、巨木へと縫い付ける。
「さ、更紗……幼少よりお前を慈しんできた。恩を仇で返すな!」
『恩? 妾に返す恩など一滴も持ち合わせておらぬ。……それにお主、秀人が他の女子と子を設けた瞬間、妾を生贄に据えたではないか。のう、楓よ』
物陰で震えていた少女、更紗の親友だったはずの楓が引きずり出される。
『お主の腹から、新しい命の鼓動が聞こえるぞ。秀人と共に妾を陰で嘲笑っておったのだろう? ……村長よ、世継ぎができたゆえ、妾を邪魔者として供物に出した。……本に人族とは穢らわしいものじゃ』
「楓を離せ! 龍族が我らを見捨てるなど許さぬ!」
燵人がなおも罵ると、更紗(光龍)は残酷なまでに美しい笑顔を浮かべた。
『では、呪いを授けよう。お主ら一族、そしてこの村のもの全てに。龍族の威光を穢そうとする者に、等しく「報い」をな』
更紗は光の礫を放ち、燵人と秀人、そして楓の腹部に、禍々しい紋章を刻み込んだ。
『馨尚を縛った報いだ。お主ら一族には、二十歳を迎える前にその身を焼かれる苦しみと共に尽きる「短命の呪い」を授けた。……代々、子が生まれるたびに、その子が死ぬ恐怖に怯えながら生きるがよい』
「な、何だと……! 待て、そんな、お腹の子まで……!」
楓が発狂したように叫ぶ。纏っていた光が消えた更紗はふっと笑った。泣きながら、けれど冷徹に笑った。馨尚が代わりに代弁する。
「呪いだ。龍族に仇なそうとすれば、その瞬間に命を刈り取られる。……秀人、お前もだ」
その瞬間、拘束の解けた秀人が、逆上して更紗に斬りかかろうとした。しかし一歩踏み出した瞬間、彼は「あがぁっ!」と悲鳴を上げてその場に崩れ落ち、絶命した。
「秀人くん!! やだ、嘘……更紗、何で、何でこんな酷いことをするの!? お腹の子に罪はないじゃない!」
楓の絶叫に、更紗は一歩踏み出し、冷たく言い放った。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い……ですよ、楓。貴方たちが私にした仕打ち、貴方たちの血筋が馨尚様にしたこと。……その血を引く命を、私が慈しむとでも思いましたか?」
「あ、あああああ……っ!」
「貴方の産む子は、貴方の愛した秀人のせいで、そして貴方の嘘のせいで、二十歳まで生きられない。……私たちが味わった絶望を、末代まで噛み締めなさい」
更紗は綺麗な笑顔で笑った。その姿に、燵人は腰を抜かし、楓はガタガタと震えながらお腹を擦る。二人は一度も振り返ることなく、深い夜の森へと消えていった。
───数年後。龍谷山の奥深くに、小さな集落が誕生した。傷つき居場所を失った龍族たちが集う、人との関わりを絶った安住の地。その中心には、漆黒の龍と、白銀の光を纏う女神の姿があった。
反対に、麓の村は数年のうちに地図から消えた。村を出ようとする者は謎の急死を遂げ、村長の血を引く子供たちは、誰一人として成人を迎えることができなかった。自分たちの非を認めず、最後まで「龍神の気まぐれ」を呪い続けた彼らは、自らが撒いた悪意の種に飲み込まれ、絶望の中で血筋を絶やしたのである。




