第53話 閑話 名前を呼ぶ理由
本編をお読みくださった皆さまへ、静かな隙間をひとつ。
これは本編のどこか――私がまだ「庇護だ」と言い張っていた頃の、第二王子アレクシスから見た景色です。
彼が、彼女の何を見ていたのか。
どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。
その数字を作ったのが誰か、私は最初から知っていた。
第一王子の名で読み上げられる修正案。
配分は正確で、穴がなく、三年先の魔力供給まで見通してあった。
だが、兄にそれは作れない。
私は誰より、それを知っている。
末席で、私は書類の端に触れた。
筆の運びが、兄のものではなかった。
*
誰が作ったのかを、私は探すまでもなく知っていた。
会議の隅に、いつも一人の令嬢がいた。
レティシア・フォン・アルヴァレス。
彼女は資料を配り、数字を並べ、そして名前を求めなかった。
自分の仕事が兄の手柄になっても、表情ひとつ変えない。
――慣れているのだ。
そう気づいたとき、私はわずかに苛立った。
誰に対してかは、自分でもわからなかった。
*
私は第二王子だ。
傍流で、玉座から遠く、口を出す立場にない。
だから、黙って見ていた。
彼女が徹夜で直した数字が、他人の名で通っていくのを。
正しさは、正しく扱われるとは限らない。
私はそれを、彼女を通して知った。
*
やがて、王城が傾き始めた。
彼女がいなくなれば回らない、という当たり前のことを、
周囲は、いなくなってから遅れて知った。
誰も彼女を呼び戻せなかった。
呼び戻す言葉を、誰も持っていなかったからだ。
私は、引き取ることにした。
「庇護だ」
そう言った。
周囲にも、そして自分にも。
弱った令嬢を、傍流の王子が保護する。
それなら、誰も不自然には思わない。
*
引き取ってから、最初に気づいたことがある。
彼女は、自分の名前が出ることに戸惑う。
書類を渡し、私が「これは君の案だ」と言うたびに、
レティシアは、ほんの少し目を見開いた。
「……私の、ですか」
「他に誰がいる」
そう答えると、彼女は困ったように黙った。
評価されることに、慣れていないのだ。
褒められ方を、知らない人間の顔だった。
*
それが、私には少し腹立たしかった。
誰が、この人からそれを奪ったのか。
名前を出さないことを、当たり前にさせたのは誰か。
答えは知っている。
だが、それを責めたところで、彼女の失った時間は戻らない。
だから私は、責める代わりに、名前をつけ直すことにした。
彼女の仕事に、正しく。
彼女の意見に、正しく。
これは君の案だ、と。何度でも。
*
守るうちに、私は気づいてしまった。
これは、庇護ではない。
弱い者を保護しているのではなかった。
私はただ、彼女の名前を、正しく呼びたかっただけだ。
それは、ずいぶん違うことだった。
*
だが、私は不器用だった。
伝える言葉を、いつも取り違える。
彼女が礼を言えば、私は「当然だ」としか返せない。
当然だ。
その一言を口にするたびに、私は本当は、別の言葉を探している。
――君は、最初からここに立てる人間だった。
――ただ、それを誰も見ていなかっただけだ。
そう言えばいいのに、いつも喉の手前で止まる。
だから代わりに、私は「当然だ」と言う。
彼女はそのたびに、少しだけ笑う。
その笑い方を、私は嫌いではなかった。
*
ある日の夕方。
執務を終えた彼女が、窓辺で書類を整えていた。
傾いた光が、その横顔に落ちている。
私は、ふと呼んだ。
「レティシア」
名前だけを。
用があったわけではない。
彼女が振り返る。
「はい」
それだけのことだった。
それだけのことが、思ったより、私を満たした。
*
名前を呼ぶ、というのは、不思議なものだ。
誰の名でもなかった仕事に、名前を返す。
名前を出さないことに慣れた人間を、名前で呼ぶ。
それだけで、その人がそこにいることが、確かになる。
私はまだ、この気持ちに名前をつけていない。
庇護、と呼ぶには近すぎて、
それ以外の言葉は、まだ口にする勇気がなかった。
だから今は、ただ名前を呼ぶ。
レティシア、と。
いつか、この呼び方に、別の意味が加わる日が来るかもしれない。
だが、それは今日でなくていい。
*
彼女は、整えた書類を胸に抱えて、私の方を見た。
「何か、御用でしたか」
「いや」
私は短く答える。
「名前を、呼んでみただけだ」
レティシアは、少し不思議そうに首を傾げ、
それから、静かに笑った。
「変な殿下」
「……そうかもしれん」
窓の外で、風が木々を揺らしている。
名前を呼べる人が、隣にいる。
私にとっては、それがもう、十分すぎるほどのことだった。
閑話をお読みいただき、ありがとうございました。
本編は終始レティシアの側から描かれた物語でしたが、
この一話だけは、彼女を引き取った男――アレクシスの側から、
本編のどこかの一場面を覗いてみました。
彼は無口で、「当然だ」としか言えない不器用な人ですが、
その一言の裏で、いつも別の言葉を探していました。
名前を出さないことに慣れた人を、名前で呼ぶ。
それだけのことが、彼にとっては、何より大きなことだったのだと思います。
物語の本筋は、本編のとおりです。
この隙間は、そこに何も付け足しません。
ただ、彼が何を見ていたのかを、少しだけ。
またどこかで、静かな一話をお届けできたら嬉しいです。
――ひとつだけ、お知らせを。
いま、この続きを書いています。
最終話で王妃になった彼女が、今度は「引かない」と決める話です。
静かに耐え、静かに去る。それが本編のレティシアでした。
けれど、守るものができた人は、同じようには退けません。
本編とは別の作品として、改めてお届けします。
その折には、活動報告でもお知らせいたします。
長いお話に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




