第38話 高い場所へ
隣国アルディナからの使節団が到着したのは、柔らかな春風の吹く午後だった。
外交案件としては小規模。
形式的な表敬と、共同事業の進捗確認。
だが、その中に一人だけ、異質な視線を持つ男がいた。
カイル・ヴァルハルト。
年の頃は二十八前後。
落ち着いた灰色の瞳と、過度に自己主張しない佇まい。
彼は、公使補佐官として紹介された。
*
応接室。
アレクシスの隣にレティシアが座る。
形式通りの挨拶が交わされ、
共同制度の進行状況についての話題に移る。
「こちらの調整案ですが」
カイルが資料を広げる。
「この部分の再設計は、あなたの発案ですね」
視線は、はっきりとレティシアに向いていた。
「……補足しただけです」
「いいえ」
穏やかに否定する。
「これは、補足ではありません。
設計思想そのものが変わっている」
室内が、わずかに静まる。
王城でも、ここでも。
“優秀だ”とは言われてきた。
だが、ここまで正確に言語化されたことは少ない。
「長期安定を前提に、
短期の効率をあえて落としている」
カイルは続ける。
「この発想ができる人間は、そう多くありません」
レティシアは、言葉を失った。
称賛ではない。
分析だ。
彼は、能力を感情で評価していない。
構造として理解している。
*
打ち合わせの後半。
カイルは、あえて話題を変えた。
「失礼ですが」
柔らかな声。
「あなたは、この国だけに留まる方ですか」
空気が、わずかに張る。
アレクシスは何も言わない。
レティシアは、慎重に答える。
「今は、そうです」
「今は」
その言葉を拾う。
「あなたの視野は、
もっと広い」
穏やかな目。
「制度設計は、国境を越えます。
あなたほどの視座を持つ方が、
一国の補佐に収まるのは、惜しい」
その言葉は、挑発ではない。
純粋な提案だ。
可能性の提示。
*
会談が終わり、使節団が退室する。
応接室に残る沈黙。
ロイドが、微妙な表情を浮かべている。
エマは無言。
アレクシスは、いつも通りだった。
「……随分と、率直な男だな」
「ええ」
レティシアは、静かに息を吐く。
「否定できませんでした」
否定できない。
それが、胸の奥に残る。
*
夕方。
一人になった執務室で、
カイルの言葉を反芻する。
“もっと高い場所に行ける”。
王城では、
役割として必要とされた。
ここでは、
存在として選ばれた。
彼は、
“可能性”として見ている。
その違いが、
妙に鮮明だった。
「……私は」
どこまで行けるのか。
ここにいる選択は、
本当に最善なのか。
揺らぎが、静かに広がる。
*
夜。
中庭でアレクシスと向き合う。
「彼の言葉が気になるか」
唐突に問われる。
レティシアは、否定しなかった。
「少し」
「そうか」
それだけ。
引き止めない。
否定もしない。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、
レティシアの胸を締めつける。
――どうして、何も言わないの。
心の奥で、そんな声が上がる。
だが、彼は言わない。
彼女が選ぶまで。
その距離が、
優しさなのか、
残酷なのか。
レティシアには、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは。
世界が、
少し広がって見えてしまったということ。
そして。
その広がった世界の中で、
自分がどこに立ちたいのか――
もう一度、
選ばなければならない時が、
近づいているということだった。
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