第37話 静かな焦燥
レティシアが距離を取っている。
そう気づいたのは、三日目だった。
たった三日。
だが、館の空気はわずかに変わった。
第二王子アレクシスは、執務室で書類をめくりながら、指先の動きを止めた。
――彼女の報告が短い。
結論だけが届く。
余白がない。
仕事としては、完璧だ。
効率も良い。
なのに。
「……ロイド」
「はい」
「最近、レティシアの様子はどうだ」
問われたロイドは、一瞬だけ眉を上げる。
「珍しいですね。殿下がそういう質問をなさるのは」
「答えろ」
「……距離を取っています」
即答だった。
「理由は」
「本人は『確かめたい』と」
アレクシスは、視線を落とした。
確かめたい。
その言葉の意味は、一つしかない。
自分に向いている感情を、測っているのだ。
近づくべきか、離れるべきか。
そして、最も厄介なのは――
彼女が、その判断を理性で下せる人間だということだった。
*
廊下で彼女とすれ違っても、会話は必要最低限。
目は合う。
だが、彼女の方から逸らす。
距離を取るというより、
意図的に線を引いている。
それが、妙に胸に刺さった。
――以前の彼女なら、線は引けなかった。
押し付けられ、背負わされ、逃げ場がなくて。
それでも、黙って立っていた。
今は違う。
選ぶ側になった。
それが彼女の成長だと、理解している。
誇らしくさえある。
なのに。
その成長が、
自分から彼女を遠ざける可能性を持っている。
アレクシスは、ペンを置いた。
「……焦っているな」
自嘲気味に呟く。
焦り。
感情の中で最も扱いにくいものだ。
焦れば、手を伸ばしたくなる。
引き止めたくなる。
確保したくなる。
だが――。
「引き止めない」
それは、自分が決めたことだ。
彼女が選んだ場所を、
再び“檻”にしたくない。
*
夜。
執務室の窓から、庭を眺める。
中庭の灯りの下、
レティシアが一人で歩いているのが見えた。
足取りは静かで、乱れはない。
だが、どこか考え込んでいる。
彼女が、ここに来たばかりの頃。
あの歩き方は、“耐える”歩き方だった。
今のそれは違う。
――選ぶ者の歩き方だ。
アレクシスは、胸の奥がひりつくのを感じた。
手を伸ばせば届く。
声をかければ、止まるだろう。
だが、伸ばさない。
声をかけない。
自分の焦りで、彼女の判断を歪めてはならない。
*
「殿下」
ノックの後、ロイドが入ってくる。
「王城からの報告です。再編が進んでいます」
「そうか」
「……それと」
一拍置いて、ロイドが言う。
「今日、視察団が殿下に尋ねました」
「何を」
「『あの方は、殿下の婚約者ですか』と」
アレクシスは、視線を上げた。
「返答は」
「殿下は、否定も肯定もなさっていません」
「そうだな」
それが最善だ。
彼女の人生を、
言葉一つで固定したくない。
だが。
ロイドは、淡々と続ける。
「周囲は、もう答えを決めています。
あなたが、彼女を最優先に動く理由を」
アレクシスは、短く息を吐いた。
周囲が決めるのは簡単だ。
問題は――本人だ。
彼女が、どう受け取るか。
*
その夜遅く。
アレクシスは、机の上の書類を閉じ、椅子にもたれた。
焦燥は、消えない。
だが、焦りで動けば、
彼女の自由を奪う。
――自分は、何を望んでいる。
答えは、明確だった。
彼女がここにいること。
笑うこと。
安心すること。
そして。
「……私の隣に、いること」
それを、望んでいる。
望んでいるのに、
望んだ瞬間、手を伸ばせなくなる。
それが、焦燥の正体だった。
静かに、深く、胸を焼く。
この感情は、
仕事では処理できない。
合理でも、整理できない。
それでも。
彼はまだ、引き止めない。
彼女が選ぶその瞬間まで、
ただ、待つと決めている。
――焦りを抱えたまま。
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