第31話 静かに崩れる
異変は、とても些細なものだった。
朝、目を覚ましたときに、ほんの少し体が重い。
それだけだ。
「……寝不足、かしら」
そう思いながら身支度を整え、いつも通り執務室へ向かう。
特別な予定はない。
急ぎの案件もない。
それなのに、歩くたびに、微妙な違和感があった。
*
午前中の確認作業は、問題なく終わった。
ロイドが報告をまとめ、
レティシアが目を通し、
必要があれば一言添える。
流れは、完璧だった。
「……以上です」
ロイドが言う。
「はい」
返事をしながら、
ふと、視界が揺れた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
「……?」
目を瞬いて、視線を机に戻す。
問題ない。
立ちくらみというほどでもない。
ロイドは、気づいていない様子だった。
――大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
*
昼前。
廊下を歩いていると、
エマがこちらに気づいて足を止めた。
「レティシア様、少し顔色が――」
「大丈夫よ」
即座に答えてしまう。
いつもの癖だった。
心配をかけるほどのことではない、と判断してしまう。
エマは、じっとこちらを見たまま、
それ以上は言わなかった。
だが、視線が離れない。
*
昼食は、ほとんど手をつけられなかった。
食欲がないわけではない。
ただ、箸が進まない。
「……後で、でいいわ」
そう言って下げてもらう。
自分でも、不思議だった。
無理をしている感覚は、ない。
以前のように、
限界を超えて働いているわけでもない。
それでも、
体が、少しずつ言うことを聞かなくなっている。
*
午後。
執務室で一人、窓際に立っていたときだった。
視界が、ぐらりと傾く。
「……っ」
反射的に机に手をつく。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
深呼吸をして、落ち着かせる。
「……少し、疲れているだけ」
そう呟いた瞬間。
「――それは、違う」
低い声が、背後から聞こえた。
振り返ると、
アレクシスが立っていた。
いつ来たのか、分からない。
「殿下……?」
彼の視線は、
まっすぐにレティシアを捉えている。
「座れ」
命令口調ではない。
だが、逆らう余地もなかった。
言われるまま椅子に腰を下ろすと、
その瞬間、力が抜けるのを感じた。
――あ。
自覚したときには、もう遅い。
「……すみません」
思わず、そう言ってしまう。
「何がだ」
「少し、ぼんやりしていて……」
アレクシスは、答えない。
代わりに、
彼女の額に、手を伸ばした。
「……熱がある」
「え?」
驚いて否定しかける。
「そんな、大したことじゃ……」
「黙れ」
短い一言。
だが、声音は低く、
怒気ではなく、はっきりとした判断だった。
「自覚がないのが、一番厄介だ」
そう言って、エマを呼ぶ。
「今日は、もう休ませる」
「殿下、私は――」
「仕事の話は、終わりだ」
即断だった。
「代わりはいる。
今は、君が休むべきだ」
その言葉に、
胸の奥が、わずかにざわつく。
以前なら、
その一言を信じられなかった。
だが、今は違う。
アレクシスの判断は、
“彼女を失わないため”のものだと、
はっきり分かる。
「……承知しました」
そう答えた瞬間。
張り詰めていたものが、
ふっと緩んだ。
体が、正直に重さを主張し始める。
「……あ」
視界が暗くなりかけたところで、
肩を支えられた。
「無理をするな」
すぐ近くで聞こえる声。
「倒れる前に、休め」
それは叱責ではなく、
静かな心配だった。
レティシアは、
その腕に支えられながら、
初めて気づく。
――ああ。
私は、
崩れるまで耐えなくていいのだと。
静かな異変は、
溺愛という名の行動となって、
確かに、ここから始まっていた。
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